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over and over  作者: 富士江 三蔵
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第18話

かの者は敗走する研次を追ってはこなかった。

その安堵より憤然は遥かに重く、負け犬となった研次の自尊心は崩壊寸前だった。


“ガジャッ”


その音で反射的に研次の動きが止まる。

今なら流し台の下へ避難しても真知子には見つからないはずだ。だが、彼女がこちらに素早く移動すればたちまち見つかってしまう。

それから避難すれば袋小路に殺虫剤という憂き目が待っている。

だから盲目の研次はまだ動かずに感覚を研ぎ澄ます。


自暴自棄になりかけていてもやはり苦しい死に身を任せたくはない。

それを考えずとも自分の意思を汲み取ったように触角が忙しく動く。


「え~っと、先に片付ける物は・・」


『来る!!』


研次は間一髪、避難に成功した。

人間であれば心臓の鼓動は最高潮に達しているだろうが今の彼にそれはない。

それが現実的な感覚を鈍らせるがストレスは人間の時と変わらず、祈るように暗闇の奥でじっと息を潜める。


“「では彼女の元へ行けばそれを実行できますか?」


「もちろんです。」 ”


ここにきてまた岐士との約束が音量を上げながら頭の中で繰り返される。


『やめろ!・・なんだ!?こんな時に・・!』


それに耐えきれず体をばたつかせたくなるが必死でそれを堪えた。


真知子の気配は目の前まで迫り、止まった。


今、研次には自分の身を脅かす存在の殺気とそれが危険な位置にあるかの気配しか感知できないが、彼女は燻煙式の殺虫剤を使用する準備に取り掛かっていた。


発狂しそうなほどの大音量で渦巻く岐士との約束のくだりに悶えながらも研次は遠のいてゆく真知子の気配に安堵していた。


「これでよし・・さて・・」


真知子は出掛ける用意を整えると本体に小さく記載された取り扱い説明を目で追い、蓋の擦り板と本体の天辺にある突起物をこすった。

途端に小さなオレンジ色の炎が勢いよく上がり、それはすぐに消える。


「さぁ、脱出脱出~。」


彼女は部屋中のドアを開け放ち、早足にぱたぱたと出ていった。


彼女が出ていくと研次を煩悶させていたものはぴたりと止み、静寂が戻る。


『真知子は出掛けたのか・・?で、だからどうする?・・俺には何もできやしない・・』


とりあえず危機は去ったが研次は表に出る気力もない。

目的を達成するための糸口さえ掴めないうえに新たな敵の出現に研次の気持ちはすっかり萎えていた。


『!!』


前方に気配を感じる。

同種の者だ。しかし先程の者とは違うようだ。


『ちっ!・・このくそがあぁ!』


むしゃくしゃした気分もそのままに研次はそれに真っ向からぶつかっていく。

彼は一瞬で目標に到達するが、侵入者は研次を躱す。


勢いの途切れない研次は戻るのも億劫でそのまま走った。

明るさのある場所へ出てしばらく行った所でその脚が止まる。


『これは!?』


サイドボードまで進んで彼は止まった。

そこから近い冷蔵庫の前に同種の気配がある。


“キィ~!キィ~!!”


大きいものとその半分ほどのそれは攻撃的な雰囲気どころか悲鳴を上げている。

コミュニケーションが取れない存在であっても瞬時に彼らが脚をばたつかせ、命の危険に悶え苦しんでいるのが分かる。それと同時につんとした臭いに呼吸を妨げられた。


『ヤバい!これは・・バルサンか!?』


もっと早く察していればまだ逃れる道もあったかも知れないが燻煙がここまで来ていればそれも叶いそうにない。

分の悪い正面突破よりサイドボードが壁になっている流し台の下で時間の限り生き残る道を探すほうが賢明なのは冷蔵庫にいた者達が物語っている。


研次はきびすを返し、流し台の下へと戻る。侵入者は奥でじっとしていた。


「おい、どこか逃げ道はないのか!?」


当然、研次の言葉に反応はない。


研次は相手への期待をすぐに諦め、自分の逃げ道を探そうと思ったがふわりとした香りに動きが止まった。

その背後から侵入者はおもむろに近づいてくる。


“コイツ・・雌だ。”


雌の本能が放つ信号を研次もまた同じもので感じ取る。


雌ゴキブリは既にこの辺りの捜索を終え、逃げ延びることは不可能だと知っていた。


決死の雌はぶわりと羽を上げ生物として最後の抵抗を試みる。

それ故に雌のフェロモンは最大級のものであり、同種の研次の心をとろけさせた。

ほろ酔いにあって脳に微弱な電気が流れるように柔らかな痺れと気持ちの高ぶりが止まらない。

生命の危機が迫りくることも忘れさせるほどに今は心地良い。

ふらふらと研次は雌にいざなわれ、その距離が縮まる。

雌は研次の触角を舐めまわし、全力で本能を解放させる。


『止めろ!・・おい!・・うぁ・・!』


研次のなかで想像する画はとても気分の良いものではないが彼の体はそれを許否できず、されるがままにそれを許した。


やかて雌は研次の背中に乗り上げる。

ここまでくると研次は自分の体の制御を本体に奪われているのか自分の意思がこれを受け入れているのか判らなくなった。


『いや、だめだ。俺はゴキブリじゃない!』


自分の制御が効かなくなった体は羽を勝手に開き、その上に雌が乗った。

気持ちとは裏腹に同調する交尾器が雌へと入ってゆく。


『~!!』


得もいえぬ快感が頭を走り抜ける。

ゴキブリに転生して初めての快楽だった。


“「では彼女の元へ行けばそれを実行できますか?」


「もちろんです。」 ”


陶酔に支配された研次に岐士とのやりとりが割って入る。


『ちがう!俺はこんなことをしたいわけじゃない!』


弁解を責めるようにそれは音量を上げながら繰り返す。


『俺は・・何をしてるんだ・・なんでこうなった?・・こんなはずじゃなかった・・のに・・』


燻煙はもうここまで漂ってきていた。

快楽と苦しみを同時に味わい、悶えながら研次はゴキブリの雄として初めて果てながら三回目の転生を閉じた。


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