第17話
何か考えがあるわけでもないがいつまでも暗い場所に潜んでいても状況の好転は望めない。
とりあえず研次は明るさを感じる方向へ出た。
『・・真知子の気配は・・ないな・・』
『!!』
その途端にまた体は制御を失い、彼は真上によじ登ることを余儀なくさせられる。
『おい!やめろ!今、真知子に見つかったらどうする!?』
操られるままに着いた先はシンクだった。
体は迷いなくその壁面にお辞儀をするように頭を下げ、口をつける。
縁に付いた水滴は衛生的なものではないがその味は記憶から遠い真っ当な水だった。
『水ってこんなに美味いものだったんだな・・』
人間だった頃、何の気持ちもなく扱っていたものは優しく体に染み渡り、研次は初めてその有り難さに気づいた。
それを吸い終わると体は三角コーナーへ移動した。
中には林檎の皮が入っている。
甘い水分と食物らしい食感は危機をも忘れさせ、言うことを聞かない体と自分の気持ちが初めて同調する。
体内が満たされると研次は再び体の自由を取り戻した。
真知子の出現を畏れ、彼は慌ててシンクから降りようとしたが勢い余って飛び降りる恰好になってしまった。
それと同時に本能と直結しているのか背中が開き、羽が低く唸るような音を立ててけたたましく動く。
研次にはスカイダイビングで背中のパラシュートが開くような感覚だった。
地面に降り立つと自動的に羽は素早く格納される。どうやら自分の意思がなくとも作動するようだ。
食欲が満たされ、同時にスカイダイビングで思わぬ気分転換ができたが根本的なものは何も解決していない。
ふと、我に返った研次は取り留めもなく今後の打開策を考える。
―マッチ棒でKENJIと並べる―
いや、この家でマッチは見たことがないし引き出しにでも入っていれば探すことも出すこともできない。
―どこかに何か印を―
いや、今やペンすら持てない俺がどうやって!?それ以前に目も見えないのにどこへ何を記す?
妙案が浮かばぬまま研次はキッチンの隅を進む。
そういえばすぐに殺されてこの部屋を一回りすらしていない。
そう思った時、目の前に気配を感じた。
だがそれは真知子のものではない。
『同種の者か!?』
見えずともそのゴキブリは攻撃的なものを直感的に感じさせた。
現在地が冷蔵庫の近くということから考えればその下に棲む者なのだろう。
それはずいと前に出て触角をこちらへ伸ばしてきた。
「おい!俺はお前らの仲間じゃない。寄ってくんな!」
自分の触角がそれを不快に感じさせ、研次を苛つかせる。
「キシャァァ―!!!」
次の瞬間、かの者は自分の体を地面から持ち上げると研次を覆うように襲いかかった。
「おい!やめろ!俺が何をしたってんだ!?」
かの者に自分の意思は通じないし逆も然りである。
ゴキブリとしての戦い方も知らず、先を取られ、研次は無様に逃げるしかなかった。
『なんだよ!ちくしょう!なんで俺がゴキブリなんかに・・』
人間として勝ち組を気取っていた研次だったが今やゴキブリの一匹にさえ劣る存在になっている。
辛く、悲しく、これ以上の惨めな気分は味わったことがない。
『くそ!みんな滅べ!滅んでしまえばいい!!』
度重なる悔しさと惨めさに気持ちは号泣していたが今の研次は涙さえ流すことは出来なかった。