第16話
研次が意識を取り戻したのはやはり流し台の下だった。
細心の注意を払って先に感じる明るさの元へ出る。
光源は窓からのもので今が陽が射す時間であることを告げている。
そして体の痛みはない。たが、それは生々しい記憶となって甦る。
研次はゴキブリとして早くも2回の死と再生を経験し、今の自分に安らかな最期などなく、生死を繰り返すことを確信した。
『・・またリセットか・・せっかく頑張ったってのになんだよ!何をやろうが殺されるに決まってるじゃないか!クソ!どうしろってんだ!?』
確かにほとんどの人間はゴキブリに別格の嫌悪感を抱くが、もし研次が他の、住宅に現れるようなものに転生したとしても結果には大差ないだろう。蛾、蟻、蚊、蠅、カメムシ、蜂、蝉、正しくは昆虫ではないが蜘蛛も含めたとして虫の苦手な女性が喜んで受け入れるはずなどなく、駆除されるのは避けられない。
百歩譲ってそれが研次であると察しても真知子にとって彼は既に唾棄すべき者となっている。
そして現世に戻った現在、研次が自ら命を絶ってから半年が経過していることも彼は知らない。
惨劇の翌日、出社も連絡もない研次は部下によりすぐに変わり果てた姿を発見された。
就寝中だった真知子は刑事に叩き起こされ、被害者であるにも拘わらず執拗に取り調べを受けた。
寝耳に水の話を向けられ、驚く間もなく研次との関係や彼の妻の殺害の示唆を疑われ、ねちねちとした質問に同じことをうんざりするほど説明した。
喫驚と図らずも人の死の原因になってしまった失望、それを看破できなかった見る目のない自分の不甲斐なさは自己嫌悪となって彼女は一時期ひどく落胆した。
そのなかで幸いだったのは美智枝の父も躍起になって真知子を探そうとしたが警察の調査から悪徳な会社経営も露見し、 逮捕に至ったことと妹の亜紀の存在だった。
幼い頃から姉妹は仲が良く、大人になった今でも彼女達の間に隠し事はない。
真知子もこの件だけは墓場まで持って行こうかと思案したが何事かに悩む姉を看過せず、我が事のようにそれを案ずる妹に真知子はすべてを打ち明けた。
それを亜紀は涙を流してその告白に感謝し、精一杯の言葉で真知子を励ました。
更に亜紀は地元で勤める会社に連絡し、無理矢理有給を取ると上京して真知子の生活をフォローし、時間が許す限り彼女を色々な所へ連れ出した。
真知子の心の傷は未だ完全には癒えていないが亜紀のおかげでそれは随分薄らいだ。
この一件で彼女の男に対するガードは固くなったが心の芯と妹との絆はより強いものとなった。