第15話
うたた寝から覚めたようにぴくっと体を震わせ、研次は暗闇で意識を取り戻した。
はっとして辺りを見回すが射し込む光はなく、一帯に広がる闇は夜が作り出したものなのか、視力によるものなのかはっきりしない。
手足は・・動く。不具合はない。そして生き地獄さながらだった身体中の痛みもない。
それ故に記憶を辿る。
先程の出来事やその前の事すら夢だったのか暫く判別がつかなかったが、手が4本ある感覚と自分の体勢が俯せでありながらも正面を向いている状態を鑑みれば自分の今の姿がゴキブリであることは否めない。
現実を整理すると一瞬にして体を損壊させられた痛みと押し寄せる水、真知子の声の記憶が無意識に反芻される。
『さっきのは・・なんだ!?夢か!?俺は真知子に潰されて死んだんじゃなかったのか・・?』
虫として特別な転生を果たした研次に“死”はない。というより死んだとて魂に行き場はなく、再び何度でもゴキブリとしてその“生”がリセットされる。
研次はそれを薄々感じ取っていたが余計な煩いと恐怖を自分に植え付けたくはなかった。
やがて記憶の再生と共に自我の意識が取り戻され、徐々に自分の置かれた状況と認識が一致していく。
『・・それにしても選りに選って俺をゴキブリにさせるとは・・岐司は酷い奴だ!』
研次は憤りと無力感に襲われていた。しかし毒づいたとて彼にはその対象も資格もない。
そして先の出来事が夢だろうが幻だろうが先の痛みは記憶から離れない。
だから今の自分の本題はそこではないのだ。
このままでは見つかれば常に死と隣り合わせ・・それも酷い殺され方であろうことだけが確定している。
虫である暮らしがマシなものであれば人間に戻れなくとも受け入れようかと目論んでいたが最早悠長に構えてはいられない。
『どうすれば真知子に分かってもらえるっていうんだ・・』
途方にくれたまま研次は再びリビングキッチンに出た。
誰もいないそこには電子機器の僅かな光だけが点在し、静寂は夜の深さを感じさせる。
『・・・!?』
彷徨うように動き回る研次は空腹に襲われ、その途端に体の自由が効かなくなった。
『~!!!』
床に顔を押しつけられる感覚に抵抗できず、目の前にあるトラロープほどの太さのものが無理矢理詰め込まれる。
『ウゲッ!オェッ!』
この感覚に覚えがある。太さこそちがうが口中に入った不快さは毛髪そのものだった。
自分の体長の3倍はあろうかというそれを咀嚼させられ、飲まされる。
心中でえずきなからそれが終わるまで体の制御を取り戻すことは出来なかった。
『岐司の言っていた体の自由が効かなくなるっていうのはこのことか・・』
これでは常に生命の危機に晒されるばかりか食べることすら拷問である。転生してからの行き詰まりと無力さに研次は悄気返るばかりだった。
“「では彼女の元へ行けばそれを実行できますか?」
「もちろんです。」 ”
途端に岐司とのやりとりが頭の中で延々と繰り返される。
その音量は次第に大きくなり、研次は右往左往にのたうち回った。
『ちっ!・・何だ・・これは!・・うるさい!・・うるさい!!』
それを振りほどこうと闇雲に動き続けるがそれは止まず、研次は無意識に壁を登った。
天井まで半ばほどの場所まで行くとそれはぴたりと止んだ。
『高い所へ行けば止まるのか?』
そう思った瞬間、ドアが開き、蛍光灯に光が入った。
真知子は喫驚し、そのまま固まった。
研次も逃げたいが体が動かない。
「待ってくれ!真知子!・・」
先の研次の出現でテーブルには殺虫スプレーが用意されていた。
真知子はゴキブリから目線を切らさないように交互にそれらを確認しながらじわりじわりと距離を詰める。
「待ってくれ!俺だ!研次だ!・・落ち着け!俺は別れを言いに来ただけなんだ・・」
スプレー缶を手にした真知子は一気に踏み込み、30㎝と開けない距離から研次に噴霧する。
『ぎゃあぁぁぁ!!!』
後半身が熱い。人間で表せばシンナーを背後からバケツで浴びせられたような感覚だろうか。それに加えて空気が吸えない。
研次は3つ数える間もなく床にぼとりと落ちた。
「待て!・・待ってくれ!!」
脚をばたつかせ、床に這いつくばり、触角をうねうねと動かしながら 腹を見せた状態で彼は助けを乞う。
だが、やはりそれは見る者の不快を煽る役目しか果たさなかった。
真知子は床から一部が煙るほど噴霧を続けた。
全身の熱さと呼吸の出来ない苦しさに研次の体の動きが止まってゆく。
『そうだ!』
瀕死の研次に閃きが生まれた。
『これしかない!』
息も絶え絶えに彼はこれにすべてを賭ける。
最後の気力を振り絞り、研次は腹這いに体勢を戻し、必死で動いた。
“kenji”
これを筆記体に見立てて彼は殺虫剤の霧の中で動いた。
気力を振り絞り、それを体現すると彼の体は再び裏返った。
呼吸ができない苦しさに加え、全身が大火傷を負ったように熱くて痛い。
そんな状態にありながら意識ははっきりとして苦しみは緩和されず、それを代弁するのは動きの重くなった触角だけだった。
無意識に手足が外縛の印となってゆく。
「もう!なんでそんなに出てくんのよ!気持ち悪い!」
それを聞き届けて研次は失意と共に意識を失った。