第14話
暗闇の先に明るさを感じる。
『あれ!?・・元の世界に戻れたのか!?・・ここは真知子の家なのか?』
研次は立とうとするがそれが出来ずに思い出す。
『・・そうか、俺は今、虫なんだったな・・』
それを確認するように彼は這ったままの姿勢で光源へと走る。
“ゴオッ”と風が起こるほどに迅い。
匍匐前進をボブスレーの最高速で行うことが可能ならこんな感じだろうか。
体が軽い。人間の時に感じたことのないくらいの体調の良さを実感する。
『ここは!』
彼は一瞬で明るさのある空間に出た。
地面はツルツルとしていてそれはすぐにフローリングと判る。
『ここは・・リビングキッチンか・・』
今現在、虫となった研次に視覚はない。
だが、それを補う感覚器官が発達しているために限られた範囲ではあるが物の配置や障害物から自分の位置がなんとなく把握できる。
それは元が人間だったことと間取りを認識している部屋であることが働きを増しているのかもしれない。
明らかに先程とは変わった空気に先の人生では感じなかった、感じ取れなかった“生”を実感する。
勝手知ったる場所だから眼前に聳え立つものがサイドボードであることも端が小さなバーカウンターになっていることにも驚きはないが妙に懐かしさと新鮮さを感じた。
それに気を良くして研次は辺りを駆け回る。
人間の縮尺なら100メートルはあろうかという距離にも一瞬で移動できるし、息があがることも、疲労すらない。
『ひょっとすると人間で生きるより遥かに快適なんじゃないか?』
そう思ったとき、“ガジャッ”という音の後に“ドォン・ドォン”と重い振動を発する地響きのような重低音が腹に伝わる。
研次は一瞬驚いたがそれはリビングに入ってきた真知子だと分かった。
「おぉ、真知子!・・俺だ!・・会いたかった!」
それは彼女に聞こえるほどの音量もなく、キィキィと鳴るだけだった。
地響きはすぐに止まり、その音源は研次の全身に視線を集中している。
『まさか、俺が分かるのか!?』
彼女はゆっくり、そして静かに近づいてくる。
とてつもなく大きな気配が迫るのは正直怖いが真知子なら大丈夫だと思いこみ、研次は動かずに待つ。
真知子が膝を曲げて屈むと、その影に研次は覆われた。
「真知子、先に逝ってしまってすまな・」
“パァン!!”
瞬時にスリッパを右手に彼女は研次を打ちつけた。
彼女は普段、穏やかな人柄ではあるがゴキブリを殺せないほどヤワな女性ではない。
研次には何が起こったのか分からなかったが次の瞬間身体中に痛みが走り、時間の経過とともにそれは激痛へと増幅されてゆく。
『~!!~!!~!!~!!』
内臓破裂、骨折、割創、挫滅創、列創など、容赦ない痛みの群れに研次は逃げるどころか悲鳴すら上げられない。
朗らかだった真知子の声が今の研次には爆音を立てる戦闘機のように聞こえる。
人間としての記憶を持っている特別な存在だからか、彼はそれが何を言っているか理解できるし痛覚も機能していた。
「起き抜けからゴッキーなんて・・最悪!」
もし、人間としてここまでの大怪我なら即死か、死なずともエンドルフィンが分泌され、最早痛みを感じないだろう。しかし彼はゴキブリなのだ。卓越した能力を有するが、想像を絶するその生命力が彼を辛苦に縛りつける。
自分の意思とは関係なく、触角だけが絶え間なく動き続ける。
しかしそれは人間にとっては悍ましいものにしか映らない。
やがて研次はふわりとしたものに体を包まれると宙に浮かぶ感覚と痛みの中に仄かな温かさを感じた。
“ドォン・ドォン”
再び地鳴りが響くが地面にない身体はその音だけを感知する。
真知子は手早くティッシュを何枚もボックスから抜き出し、忌むべくものを包み、トイレに向かっていた。
その温かさの感知が消えると同時に研次は便器へ落とされ水の冷たさを感じた。
『ガバッ!・・ゴボッ』
水は吐き出す間を与えず口中から体内へ突入し続ける。
“ゴォブアァァ~!”
真知子がレバーを捻ると鉄砲水のような轟音が唸り、渦と共に研次は暗闇に消えた。