第10話
やがて常連になると研次は裏の顔を隠しながら次第に真知子との距離を縮めにかかる。
彼が気にかけていた真知子からの好感度は悪くなく、そこに商売は絡んでいないようだった。
研次が想像していたものとは異なり、真知子の水商売の歴史はまだ長くない。
彼女の前職は美容師でその免許も持っていたが肌の弱さから長年手荒れに苦しみ、結局その道を断念した。
しかし彼女は腐らず、新たな夢を描いていた。
元来酒好きな真知子は料理が得意だった母の味を引き継ぎ、それを世に出すべく小料理屋の開店資金を調達する為にこの世界に足を踏み入れた。
前職でも鍛えられた人情の機微に敏感な彼女だから、当然、常連である研次の顔を立ててアフターへの誘いも断らない。
尤も研次の表向きの顔しか知らない真知子はそれを厭うはずもなく、彼に惹かれつつもあったのだが。
程なくして彼等は深い関係を持つに至ったが、研次はここで大いなる不義をはたらいていた。
自分に家庭があることを伏せていたのである。
ここで常導神が声を詰まらせ呻く。
原因は新たな体の異変にあった。
彼の胸に針金で引っ掻いたように“不義密通”の文字が血文字となって浮き上がる。さらに錘が首輪のように嵌められ、彼は顔を顰めた。
それでも岐司は微動だにせず、常導神も辛そうに供述を続けた。
真知子がその事実を知っていればこの関係は成立しなかっただろう。彼女は人のものに興味はない。
だが、彼女は老獪な研次の嘘に騙され、毒牙にかかってしまった。
真知子は結婚願望の強い女性ではなかった。
たとえ身を固めることになっても仕事を続けたい意識を持っていた。
だから研次と関係を持っても結婚など迫らない。
これは研次にとっても好都合だった。
彼は帰宅すると色々と詮索する妻を疎ましく思っていた。
容姿も性格も全く正反対の二人に片や熱い想いを寄せ、残りには憎悪を内に秘めていた。
『こいつさえいなければ・・』
そんな思いを美智枝に向けながら“ロス疑惑”や類似事件をネットで検索しては更なる悪事を画策するが決め手に欠けて溜め息をつく。
そんなある日、帰宅した彼に美智枝が詰め寄った。
真知子との関係がバレたのだ。
研次の前には興信所からの資料が置かれ、美智枝は溜め込んだ怒りを吐き出す。
研次がそうであるように彼女もまた彼に愛想を尽かしてした。
だからこの行動は研次の更正が目的ではない。
研次の憎悪は鏡のように今、自分に向けられ、今度は彼女が容赦なく身ぐるみを剥がしにかかる。
これだけの証拠が揃っていれば有能な義子であっても社長が庇護するはずもなく、容姿はどうあれ可愛い一人娘の味方として立ちはだかることは目に見えている。
そうなれば遺産はおろか仕事を失い、莫大な慰謝料すら請求されるだろう。
よしんばそれを無視して逃げたとしてもこの企業主ならあらゆる情報網を使って捜し出し、けじめをつけさせることだろう。
この時、上手くいっていた全てが逆転した。
『お前さえ!・・お前さえいなければ!』
破れかぶれにそう思った瞬間、彼の両手は美智枝の首を絞めていた。
声も出せず、もがきながら自分の腕を引っ掻き抵抗していた美智枝の手が垂れ下がると研次は我に返った。
やがて静寂が支配する室内で彼は悔いた。
だが、それは自分の行いではなく、上手く事を運べなかった自分に対してだった。
「くそ!・・くそ!」
半狂乱になりながら棚にある洋酒を瓶ごと呷ると、タンスからタオルを引っ張り出し、ドアノブにそれを掛けて研次はその生涯を終えた。