狭い箱
彼女は大きさが3メートル四方のその箱から出た事がない。生まれて気がついた時にはそこにいたし、それが当たり前で、彼女にとっては箱の中が世界の全てだった。
食事は、話した事も顔も見た事のない誰かが、壁に設置された小窓から定期的に提供してくれ、それを口にした。排泄時は備え付けられた簡易トイレで用を足し、風呂は箱の大きさからさすがになかったが、やはり小窓から差し出されるウェットティッシュで身体を拭いた。
ある程度の年齢になった時、小窓から算数や国語の問題集、一般教養の本を渡され、それで最低限の知識を得た。
箱には物資が差し出される小窓とは別に、大きな窓があった。大きな窓からは外界の様子が伺え、そこから出ようとすれば可能であったが、彼女はそれをしようとしなかった。箱の世界が全てである彼女にはその必要がなく、また、彼女にとって窓から映し出される光景は偽物だったのだ。
何十年かの歳月が流れた。その日、ちょっとした変化があった。小窓から見た事もない紙の束が差し出され、小窓の向こうから、初めて声が聞こえた。
「今日から君は、この紙を箱に訪れた人達に売るんだ」
訳がわからなかったが、彼女は深くを聞かなかった。聞いたところで答えてくれたかはわからないし、そんな事よりも、この人が今まで差し入れをしてくれた人なのかと思うと、声の主に妙な親しみがわいた。
彼女は、ただ言われた通りに従う。大きな窓から、連日箱を訪れる人々に紙を売った。
「当たったらどうしよう」
そんな夢を胸に、彼女から紙を買った男は、宝くじ売り場を後にした。