幸福な世界では
柔らかな日差しに包まれて朝の小鳥のさえずりを聞きながらの心地よい起床。僕はベッドの上で大きく伸びをするとリビングに向かった。
出勤まではまだ時間がたっぷりあるのでトーストを焼きながらゆっくりコーヒーを淹れる。最近はコーヒーの淹れかたに凝っていて毎朝の楽しみになっている。
トーストにバターを塗ってコーヒーを片手にテレビをつけた。なんて幸福な朝だ。
「本日の天気は晴れのち曇りです。洗濯物は日差しの出ているうちに干してしまいましょう。続いてのコーナーです。本日は不幸撲滅党の代表でいらっしゃる……」
テレビからは今日のニュースが流れている。とはいっても、1年ほど前のあの日より世界幸福は実現してしまったから暗いニュースはほとんどない。
ほんの数年前の僕たちからしたらこんなこと信じられないかもしれないけど、今の世界には不幸な人は一人もいない。主に1年前に現れた二つの大きな存在がこんな信じられないことを実現させたんだ。
一つは人類史上最高の頭脳と名高いとある羽場崎博士の登場だ。博士の登場はありとあらゆる教科書を書き換えなくてはならなくなったとまで言われた衝撃的な出来事で、科学技術の進歩を20年は早めたらしい。
そんな博士の最も偉大な功績は幸福度の数値化だ。これによって人々は何をすれば自分が幸せになれるか分かるようになったんだ。それまではともすれば自分が幸せかどうかさえ分からなかったからね。
そしてもう一つの世界を変えた大きな存在は「不幸撲滅党」だ。彼らは「この世界のあらゆる不幸を撲滅する」ことを理念に台頭し、ついに通称「幸福法」と呼ばれる法律を制定して不幸の根絶に至ったのだ。
僕はカップに残ったコーヒーを飲み干すと幸福を噛み締めながら出勤の準備を始めた。
電車を降りて職場へと向かう途中、「警邏ロボット」を見かけた。このロボットは人の幸福度を判別することで犯罪を予防出来るという優れものだ。これも博士の功績の一つである。
彼らのおかげでこうして幸福な出勤が出来るのである。いつもお勤めご苦労様です。と僕は心の中で警邏ロボットに頭を下げて、職場へと歩いた。
道行く人々は皆幸せそうな笑顔で歩いている。やっぱり幸福法の成果は大きいな。幸せそうな人を見ると幸せになってくる。そうして幸せになった僕を見て誰かが幸せになる。これこそハッピースパイラルだ!そんなアホなことを考えてしまうくらい気分がいい朝である。
「あれ、今日は田中は休みなんですか?」
普段は僕よりも早く着いている隣の席の同僚がいなかったので疑問に思い主任に聞いたところ、
「あー、あいつは昨日帰ったあと幸福法に違反したらしくて『処置』されたよ。だからそのデスクは片付けておいてくれ」
と言われた。
幸福法に違反するなんて今の世の中では考えられないことだと思うんだけどな……。田中ってそんなに変なやつだっけ?
そうしてデスクを片付けていると手のひら大ぐらいの小さな箱が着いている腕時計のような装置を見つけた。
幸福維持装置と呼ばれるこの装置は僕らにとって必需品だ。着けている人の幸福度を測定しつつ、幸福度が下がらないように維持してくれる。田中は何かの拍子にこれを落としてしまったのだろう。運のないやつだな。思わず苦笑してしまった。
自分の腕を確認してそこにあるものを確かめると、僕は自分の業務に戻った。
その日の仕事が終わり、大きく伸びをした。今日も幸せな一日だった。家に帰って寝よう。
そう思って外に出ると流石に外はもう暗くなっていた。少し肌寒くも感じる。もうそんな季節なのか。家に帰ったら温かいものを食べようかな。
そんなことを考えながら歩いていたのが悪かったのだろう。何かに足を取られて転んでしまった。
「痛いな……。えっ?」
道路に強くぶつけたらしく、装置からピシッという嫌な音が聞こえた。どうやら壊れてしまったらしい。
うわー、不幸だな……。
そう思った瞬間、パンッと何かが炸裂するような音が聞こえた。
「え、」
振り向くと、警邏ロボットが腕をこちらに向けていた。その腕からは煙が上がっている。
下を向くと、自分の胸から血が流れてくるのがわかる。
どうやら『処置』されてしまったらしい。
「うわー、今どき幸福法に違反する人なんているんだー」
「まあ、警邏ロボットのおかげでみんな幸福になれるんだけどな」
僕の方を見ながらカップルらしき男女がそう言っているのが聞こえる。
みんなが幸福な世界では不幸な人間はその存在が許されない。
なんてくそったれな世界なんだ。そう思いながら僕は意識が薄れていくのを感じた。