中編 物語を築くもの
軽く閉じていた瞼を開くと、今まで他のものに向けていたあらゆる神経が現実と手を取り合って、店にかけられたBGMがゆっくりと耳に流れ込んできた。
焙煎されたばかりのコーヒーの匂いは私の座る場所を思い出させたが、それでも物語の感動の余韻を断ち切るには至らない。
私は一時間前テーブルに置かれたままの姿の読込装置ブックーーーストーリーを読み込む携帯端末ーーーを手に取って停止操作をしようとし、自分の指が震えを抑えている事実に気が付いた。
それは儚くも、心がむず痒くなるような、純粋なラブストーリーだった。
序盤は夏の自然な日常の風景に、淡く溶け込むような青春が少し交じる。1人の中学生の女の子が、幼い頃から兄のように慕っていた高校生の男の子に初めて恋心を抱くところから。
しかし恋心は年の差と妹のような立場という障害に阻まれ、なかなか進展に至らない。
心を燻らせているうちに季節は冬になり、主人公は初恋の彼が都会の大学に進学してしまうことを知ってしまう
...。
筋書きそのものはありきたりでないとは言えない。
繊細な描写であるものの、まだ一歩足りないような気がした。が、それはまだ未熟ゆえによるものが大きいだろう。作品としては充分だ。
しかし何よりの彼の創り手としての才能の表れは、そんな既存のメーターによって測ることの出来るものではなかった。
彼は必ず磨けば光を放つ、ストーリーセラーの原石だ。
それもただの宝石ではない…彼の作品は…。
「やぁ百矢くん、探したよ?」
珈琲を口に運ぶ私の肩に手が置かれた。見上げてみれば中肉中背のスーツの男がこちらを見下ろしている。
スーツ姿なんて初めて見たので誰かと思ったが、銀フレームの眼鏡ではっとした。
「なんであなたが」
「落胆するのは分かるけど、あまり顔に出して欲しくないものだね。なんとも悲しい気分になるな」
「牧田さんは…」
「来ない、というか来れない」
がっかりしたような顔は無自覚だ。てっきり期待通りの人が来るだろうと思っていたのだから仕方が無かった。
私がいつもネタ提供をするライターはどうやら多忙のようで、代わりに同業者である大学時代の元先輩が来たということらしい。
私は内心舌打ちをして、目の前の席に腰掛ける雑誌ライターに恨ましげな視線を送った。
実を言うとがっかりどころではなく、私はこの人がかなり苦手なのである。
彼はスーツの上を脱いで背もたれにかけ、近くにいる店員を見渡して、丁度よく盆を空にしたウェイターを呼び止めた。
追加でアイスコーヒーを注文し、それからネクタイの結び目を下品にならない程度に緩める。
外はまだ冬の面持ちである。
汗をかいているわけでもないのに、屋内に入るととことん身を重くするものを脱ぎ捨てる彼の『性質』のようなものは、大学時代から変わっていないようだ。
「金山さん。牧田さんが来れない、とはどういう?」
「何より優先したい事情があるということだ。そのままだよ」
「その事情について詳しくお訊きたくて質問したのだけれど、そう聞こえなかったですか?」
「その質問には答えられないから上手くはぐらかしたつもりだったんだが、君にはそう聞こえなかったか?」
私は一瞬、ウェイターが運んできたばかりのアイスコーヒーのグラスを掴んで投げかけてやりたくなったが理性がそれを押しとどめた。
氷と琥珀色の液体が入ったグラスがしっかり満ちた状態で金山の手元に置かれるのを、私は凝視する。
「私、あなたのこと、あまり好意的に捉えていないんですよ。いっそ来なかった方がマシだったと思いますね。お互いに」
「あのねぇ…俺だって暇を持て余して君にお呼ばれした訳じゃないんだよ?
それなりの収穫を見込んで、言わば君の才能を買ってるんだ。もう少し暖かい対応をしてくれても良いんじゃないのかと思うけれどね。
君は親しき仲にも礼儀ありという言葉を知らないのか」
「私の才能をかわれても、まず、そんなの無いですから。その諺が適用されるほど親しくも無いじゃないですか」
音声を消して傍から見ると、よく打ち解けた友達か、あるいはカップルが軽く世間話を交しているように見える態度であることに確信はある。
この手の会話を、学生時代の私達は飲み屋で、しかも素面でがなりちらし、軽い警察沙汰(会話の不穏な内容にただならぬ気配を感じた居酒屋の店員が、知人の警官を呼び出して仲裁させようとしただったから、『軽い』と言って語弊は無いだろう)になったことがあるので、互いに学習はしているのだ。
「あなたそもそも、ストーリーの記事なんて書いたことあるんですか?そういうのが一番不得意なくせに」
「あるさ。先週号の特設ページは俺が書いた…って君読んでないのか。新鋭作家の独占インタビューだよ」
独占インタビューが、なんだ。
彼の下手に見せて人を食ったような態度は私の苛立ちを誘うようで、出会ってものの数分もたたないのに、彼の顎にアッパーカットをお見舞いし、即座にこの場から逃走してやりたくなってきた。
「あなたは上手く稼げそうな波に乗っかってただ読者が喜びそうなこと書いてるだけでしょう。
インタビューね…。作品自体じゃなくて、作者のキャラっていうプレミアを上げることになんの意味があるのか私には分かりかねますね。それとも、作家をアイドルと一緒みたいに考えてらっしゃるの?」
「…」
機関銃攻撃がなかなかに効いてしまったらしく、彼は1度片手を上げ休戦を提案し、近くのウェイトレスに珈琲を注文する。
大学時代は文芸サークルに所属していた彼だったが、その時より幾分も日に焼けて、粗暴な男らしさが増したようだ。
野生に近付いているとも言っていい。
学生の時の文系男子の面影はほとんど消え失せてしまって、今では紙やペンよりも工事現場でロードローラーを操作しているのがしっくりきそうな感じだ。
彼はプロテインでも吸収するように珈琲を半分まで飲み、顔を顰めてそれをテーブルに戻す。
そして一言「苦い」
甘いとでも思ったのか。
ブラックコーヒーを。
「ま、記事を書くのは俺ではないから安心しなよ。俺はあらかたの下地となる情報を集めて牧田先輩に提供するだけ。それも無償で。献身的すぎて泣けるだろ?」
「次にホラ話をするときは眼鏡に手を添えないように意識しておいた方がいいわ」
ぎょっとした表情で男は眼鏡から手を離した。先程からブリッジの部分をずっと弄っていた指が、所在なさげに空を彷徨う。
どんなに軽い嘘であれ、それが嘘であるならば隠そうという心理が働くものである。ゆえに表情を隠して筋肉の緩みや緊張を悟られまいと、口、鼻、あるいは眼鏡を触る動作で顔と相手との間に遮るものを作ろうとしてしまうのだ。心理学を少し齧ったものならすぐ分かる、無意識な嘘のサインだ。
「…やれやれ」
「前にも言ったと思うんですけど、意識した方が良いって。
それで?どこまでがあなたのうそっぱちな情報で、どこからが事実なんですか?」
「牧田君が忙しいというところまでは本当だね。詳しくは不明だが。
時期を考えれば、今はちょうど創特社のストーリー新人大賞の応募受付期間だ。
彼はその選考委員なんじゃないかってうちの社内は噂立ってるよ。
…その様子じゃ、君は新人賞があることすら知らなかったみたいだな」
「浅学ながら」
「でまかせなのは記事を書くのは牧田先輩が、ってところだね。
今の彼には、とてもじゃないけど記事を書く時間なんてないさ。今朝なんて一分顔出しただけですぐどっかに消えちった」
「じゃあ…当分お会い出来ないんですね」
冷めかけた珈琲の最後の一滴を喉に流し込んだ。
私が親しくしている牧田というライターは、もともと文芸小説を取り扱う分野から、ストーリーというメディアの登場と同時に新地開拓者としてその部門に送り込まれた敏腕ライターである。
編集長の指一振りで明日にでも首が飛んでもおかしくない金山とは格が違う。
そして新人大賞の選考委員に選ばれるという噂さえ立ってしまう、彼の業界での地位は言うまでもない。
だからこそ、なのだ。
「そういうことなら、私は帰ります。わざわざ御足労頂きありがとうございました」
「おいおい、君は話を聞いていたのか?わざわざ来たと思ってるなら情報を落としていけよ」
立ち上がって肩に掛けかけた鞄をぐいと引っ張られ、後ろにたたらを踏む。
使い回しているやつで良かった、と思いながら無理やりそれを引き剥がした。
「残念ですが今回は、ネタ提供じゃないんです。一方的なお願いがあったのでお呼びしたんです。でもあなたでは力不足なので」
「じゃあそのお願いとやらを伝言してやるよ。疚しいことじゃなきゃあ言えるだろ?」
妙な含ませ方をすると思った。
上目遣いにこちらを見上げる金山の目は、猛禽類のように鈍くこちらを睨み据え、口元はつり上がっている。
暗い光が私を捉えて、その場の気温が一気に下がったような感覚とは裏腹に、額にじわりと汗が浮かんだ。
しまった、反抗し過ぎた。
拒絶された興味が頓狂な方向に向いていっているのを私は察した。
この言い回しはほとんど脅しに近い。
こいつはともかく、信頼するライターとの関係が気まずくなるのは御免である。
ここは折れるべきか。
「そうね…。疚しいことではないから言うわ。ただ、誰にも言わないで欲しいんです。
ごく内密にしたいことですから」
私は椅子に再び座り直し、金山はウェイトレスを呼んでカプチーノをふたつ注文した。
「追加はそっちで持って下さいね。経費とかで降りるでしょ」
「残念ながら。
売れそうな波に乗ってる割には、会社からの扱いはぞんざいでね。経費なんて流れてこないし、仮にあってもここは奢らせてくれよ」
「根に持ってるんですね。さっきの」
これは半ば意地悪で、残りは常の悪口で言ったつもりだった。金山は眼鏡のフレームを少しずらして、皮肉そうに唇を歪めてこちらを見た。
「根に持ってるというか、そういうわけではないけど。君の言葉は刺さるからね。なにせ本当のことなんだから」
さて、俺にもあまり時間は無いんだ。
金山はそう言って会話を切った。
私は彼の言葉の続きを待っていたが、彼が会話の主導権を全く握ろうとしないのを見て諦めた。
上着のポケットから覗く読込装置のコードの先が、ぶらんと揺れている。
…ごめん。恨まないでね。
「潰してほしい作家がいるの…」
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【三時間前】
ポピュラーなチェーン店やビルが立ち並ぶ街の大通り。
それを小路で隔てた裏通りのまた隅の方に、ポツリと立つ小さな店を、ストーリー専門店であると知る人は少ない。
立地はともかくとして、シックでありながらシンプルな外装の中には看板さえ取り付けられておらず、洒落た民家に見えないこともないが、それではまず客を呼び込むのも難しい。
どうやって経営が成り立っているのか、うっかりしたら都市伝説が作られそうだ。
私は短く嘆息して木造のドアを押した。例の心地よい音が耳に響き、「いらっしゃいませ」の声が出迎える。
街の喧騒が遠ざかり、店の世界観に包まれる。
その感覚は、物語に意識を沈めるときによく似ている。
「百矢さん...」
私の顔を見てカウンターから立ち上がった成人男性は、他でもなくこの店の店長だ。
常連である私はすっかり名前を覚えられてしまっている。
裾に店名が刺繍されたエプロンを外し、店長はこちらに近付いてきた。
近付いてくるごとに圧迫感が増していく。
この店の店長はかなりの大柄だ。
三十路手前と聞いたことはあるが、全盛期のラグビー選手みたいな体格をしている。
褐色に焼けた筋骨隆々な腕が慣れた動作でエプロンを畳んでいくのははっきりいって脳が誤作動を起こしそうな光景だ。約2年通ってやっと最近、その齟齬に慣れてきたところである。
「お久しぶりね、店長さん」
「陵から聞きました。すみません。品物を切らしていたみたいで...」
陵?と一瞬疑問符が湧いたがすぐに思い至る。
あの少年か。
さっと店内に視線を巡らしてみたが、今日はどうやらいないらしい。
私はおよそ三日前に陵少年と交わした約束を思い出して、この場合どう対応していいのか迷う。
『店長さんには秘密にしておくから』
とは言ったが。
唆したのは自分ではあるけれど、下手な演技を続けるというのも恥ずかしい。我ながら大人気ない臆病さだ。
幸いなことに、この様子からすると気付いてはいないらしい。
…気付かないフリをしていなければ、だが。
「陵くんは店長さんの息子さん?」
「あぁ…いいえ。少し説明が難しい間柄でして。色々な事情が重なって、一ヶ月ほど前から私が引き取って面倒を見ているんです」
「きっと学校ではモテモテね。とても可愛いかった」
「どうでしょうねぇ…。そうだとまだマシですけれどね」
私が訝しげに首を傾げると、店長は身を屈めて、小さな声で、コビトみたいでしょうあいつ、と囁いた。私はおかしくてくすくすと笑った。
「いじめられていやしないか心配で」
「そんな感じには見えなかったわ。初対面だったけど」
店長は眉を八の字にして少し恥ずかしげに笑顔を浮かべた。過保護になりがちなのを自分でもどうにか均衡を保とうとしているのだろう、そういう葛藤が垣間見える一瞬だった。
「ところで、どうでしたか?
陵のストーリーは」
「…え?」
「あの子が口を割ったのではないんですよ。ただ、ケースが一つ減っていましたから。
こんな物好きは、百矢さんくらいですよ」
「分かってらしたのね」
人が悪い、と他人のことを言えたものではない。私は素直に、すみませんと謝っておく。
「お代は必ずお払いしますから」
「ああ、いいんです。そんなことよりも感想がお聞きしたくて…あと、お願いもひとつ」
「お願いの方からお聞きしてもいいかしら。
感想は、あの子に最初に聞いて貰いたいから」
もちろんですよ、と目を細めた店長は、すぐ側の木製の椅子を引き寄せて私にすすめた。てっきりアンティークだと思っていたそれは、ちゃんと実用のきくものだったらしい。この店に来て、新しい発見が無い日は無い。
「あまり驚かずに聞いて下さい。
…陵を、潰してほしいのです」




