8 森を進めよ、歩めや生命
それはそれは哀しい曲だった。
弦楽器と機械のように繊細な声だけではきっとその哀しさを表現できはしないだろう。でも、だからこの曲なのが良いとあの錬金術師は微笑んだ。あそこで眠っているはずの小さい彼女はきっと、この曲に込められた意味や物語をしったら変更なんてことをしたかもしれない。
彼は彼らしくにやりと笑ってくれた。哀しみを表現できないのならば、好き勝手にしてしまえばよい。自分がキュリキュリとこの楽器を鳴らす事…今にも途切れてしまいそうな白亜の声を、哀しみ以外に作り変える立役者にしてみよう。
頼りがいを満たした声で、散らかした部屋から見つけ出した楽譜を彼は引き抜く。
「で、今日はどうするんだ?」
彼の見立てではおそらく明日の朝程度はないか、そう彼女は告げられた。背後には食事を終えてもまだまだ眠気を取り去ることができずに眠りこけたアイネがこくりと頭を動かしていた。
「最後なんですよね? なら、私はお別れの挨拶を皆さまにしに行かねばなりません」
「ほう」
「喫茶の皆、食材を少しばかりまけてくれる目抜き通りの皆様……ちょっとばかり短い生涯でしたが、沢山の人がいつの間にか周りにいましたから」
「なんと言うつもりだ? それはお前に任せるが」
「そうですね……やっぱり正直には言えません。錬金術師様のように何処かへ旅に出るというのはどうでしょうか」
「仕度もしてないのにか」
彼女はちょっぴり黙った。挨拶はすると考えていたものの、まだ内容が浮かんでない。ギオゼッタもその筋での助言は考えていなかったようで、顎の綺麗に剃り揃えられた髭の名残をさらさらと撫でながら隣で同じように悩んでいた。
「あはは…すみません、こんなトコでこんなことでお手をかけてしまいまして。大丈夫です、なんとかします」
「それならそれで良いのだが、まぁ…僕にできることなら言ってくれよ。残りは立った数える刻だ」
彼はいつかみたいに弱弱しく、わざとそう見せかけて笑ってみせた。それは彼なりの敬意なのだと、リリンは言葉にならないような小さな嗚咽の様なものと共に気付き、飲み込んだ。
「そうかね、達者でねぇ」
彼女は結局、旅に向かうと喫茶店のオーナーへと別れを告げていた。こちこちと時を刻む時計の音も何故か寂しげに聞こえている喫茶店はまだ開店してはいなかったが、オーナーである老婆は彼女とその奥に立っていた錬金術師を招き入れた。
「はい…突然こんなこと…」
「なーに申し訳なさそうな顔してんのさ、旅ってんだから、良い旅にしないとね」
「えっ…あっはい…そうですね、そうですよね」
「それでそれで、そっちの人が…そうなのかい? こういう子だからね、優しくしといてくれな」
「………、ん?」
突然話題に上がってきょとんとするギオゼッタを見て、彼女も老婆はくすくすと笑った。旅の案内人なんて表現もあながち間違っているとは言えないが、哀しい冗談になってしまう前に彼女はそれを笑いに変えようと必死に笑った。
それを察したギオは必死に笑う彼女の肩にポンと手を置き、オーナーに向けて小さく一礼をすると、彼らは店を去って行った。振り向けはしなかった、誰かが言った言葉なのだろうか違うのだろうか、でも確かに…泣けないのなら、笑えばいいのだろう。
「まぁ別れは辛い。辛くない別れ…と言うのは片方が別れたと思っていないことを示しているのだ」
「アッハ…アハハ…分かります、分かります…」
自分を納得させるように噛み砕きながら彼女はその言葉を飲み込んだ。決して美味ではないだろうその言葉を、喉へと心へと押し流した彼女の表情は見ることができなかった。でも、見る必要もなければ、誰も見たいとは思えなかったろう。
こうして彼女は次々と街の人々に別れを告げていった。老店主のようにギオゼッタに目を向ける者はそう多くはなかったが、すべからず彼らの目は寂しそうだった。
随分と思われているではないか。彼はその言葉を己の中で反芻し、納得した表情で一飲みにしていたのだった。こうしてちゃくちゃくとその時間は近づいてきているのだと、二人の……いや、彼女に理解させていくのだ。
「ちゃんとご飯食べるんだよ!」
「コレ、持って行っておくれ」
「あんたの茶は美味かったぜ、じゃぁよ」
人がまた別れの言葉を吐くたびに、自分の中の人間が、確かにそこに居てくれている事を彼女は再確認し続けていく。苦しい言葉を飲み込んでえづきそうだった顔は、その時へ近づくにつれて人間へと変わっていくように思えた。
そして、終わる時が来た。
「行くぞ」
「ギオさんギオさん、森に来て何するの?」
「座っておいてくれ」
騒ぐアイネの頭に空いた片方の手をぽんと置き、撫でながら手ごろな切り株に座らせる。それを遠目に羨ましそうに見つめる彼女と少女の目が合ってしまわないように、遮りながら。
そこは屋敷からも近い森、川がしっとりと流れ街の中を目立たぬように通っている。その上に架かる橋をギオゼッタもアイネもリリンも皆覚えたことが無くても歩いたことがあるのだ。ギオゼッタは是非ここにさせてくれと言い、彼女はそれに反対もしなかった。彼女はその理由も聞かずにアイネと手を繋ぎ、楽しそうにその地へとやってきた。
彼は適当な幹にバッグを置き弦楽器を取り出すと、ほんのちょっぴり鳴らしていじるのを繰り返し、満足そうな声を出した。それに応えるように森に溶け込みそうな程薄い彼女は鈴の様な声を静かな森に響かせていく。
「もういいか」
「ハイ、私は、もう大丈夫です」
「そうか。俺も十分だ」
「あっ……その……」
「どうした」
「楽器、上手いのですね」
褒められたのは初めてだったような気がする。本当はよくわからない、独りで引いて練習していたし、始めたのはこの終わりが始まった時だ。
「わるくないな。始めるぞ」
そして、全ては始まった。
アイネは子供らしく、先に何があるのかは一切知らず。ただ流れる細い絹糸のような旋律に耳を澄まし、好物を咀嚼しているかのように瞳を閉じて身体をちょいと揺らしていく。
この小さな自然のホールの中、瞳を開いている者は一人もいない。それぞれがそれぞれの目蓋を下ろし、身体を動かし、喉を鳴らし、音を響かせている。
錬金術、今この話をするべきではないかもしれない。だが、絃を鳴らす彼の脳裏には未だその葛藤が生きていた。錬金術という名前は古い起源のものであり、もはや現代のこの術は金を産むことなど容易いとされている。すでに科学という技術を取り込んだこの術は、不可能を可能にしようとする狂気の道へ入り込んだ。
見合う技量と運さえあれば、きっと終わる世界を蘇らせることだって理論上可能だと、そう言わせるのが現代の錬金術である。つまり、ギオゼッタという存在が死を待つ不完全な命を完全な生命にすることなど、楽器を上手にならす事よりは楽だったのかもしれない。
「僕はそうでなくて良い」
彼のつぶやきは、誰にも届かない。
完全な……そうでなくても、不完全でない生命とはなんだろう。力強く生きているたくましい身体だろうか、それとも頭脳明晰といえる賢さであろうか。
彼の答えは、そう。
他の命……誰か一人にでも、ほんのちょっぴりの影響を及ぼせれば、それは生命なのだろう。
彼はそっと下ろしていた腰を持ちあげて、瞳を開ける。眩しい陽光を遮る葉達の下で、彼女は唄っている。
目が合った。薄らと目を開けた彼女は、はっとすることもなく、その瞳の先から近づく一人の錬金術士に柔らかい笑顔を向ける。
「…………」
「…………」
言葉は不必要だった。
曲の終わりが近い事を知っている二人だけが、まるでそこに取り残されているかのように頷き合う。
楽器の音が消える。彼の出番は終わった。あとはほんのちょっぴりのフレーズを、その声が歌い上げるだけ。
ギオゼッタの手が楽器を撫で、零れ落ちた楽器は地面にたどり着く前に粉末と化し、風に吹かれて消えた。その手は流れるままに彼女の胸に当てられる。
手から、皮膚から。彼女が生きている証拠が伝わって来る。息をしている、胸をならしている。目の前の少女の全てを終わらせる。
最後のフレーズが途切れた。
「ギオさん、次の街まで、どれくらいかなぁ」
「知らん」
次の街への道中、二人は景色のいい広場で座り、休憩を取ろうとしていた。
「ギオさんは、なんで馬とかに乗らないの?」
「うるさいからだ」
前の街であったことなぞ、何もなかったかのような二人。ギオゼッタは草原に寝転びながら、うっとおしそうに小さな虫を払いのける。アイネはと言うと、大きい鞄の中でかちゃかちゃと鳴らしながら、もたもたと紅茶を淹れる準備をしていた。
かちりと火を着ける。草原に火が飛ばないようにと注意しながら小さな火がまだ明るい空の下で、目立たないよう小さく熱を持つ。
「ギオさんって、物大事にしないよね」
「作れば良いし、買えば良いだろ」
「わーリッチ」
「どこがリッチか、わからないな。貧乏でも、錬金術があればどうとでもなる」
「魔法使い」
「違う」
もうここからではあの街は欠片さえも見えない。相当遠くへ来たんだろう。あの屋敷は売りに出された、その利益はある錬金術師の名で、自然保護に使われるそうだ。そう仕組んだもう一人の錬金術師は今ここでくだらないような言い合いをしているわけだが。
「魔法とどこが違うの? 教えて、ギオ先生!」
「無くなる物だ」
「わからないー」
「ここまで言ったんだ、後は自分で考えろ」
「うぅ……いいもん、紅茶あげないもん」
「…………」
「良い葉っぱ使うもん、あげない」
「教えてやろう」
しぶしぶ起き上がり少女の方に向き直った先生の前には、すでに淹れられていた二つのコップが置かれている。多少険しい表情に変わったギオゼッタにも怖気づかず、犬が尻尾を振るかのように答えを今かと待つ少女に会話は続く。
「錬金術において、無くなる物は存在しない。理論上はな」
「へー」
「答えまで教わったんじゃ、何もわからないだろ」
「うん」
「じゃあ、なんでそんな答えが出るのか考えておけ」
「雲の問題も?」
「……あれは、そういう問題ではない」
コップを取り、景色を眺めながら思案に頭を捻っている少女の隣で紅茶を啜る。が、ギオゼッタのその手は何故か、すぐに止まった。
考え事を閃いたのか、顔は先ほどと同じぐらいに険しくなり、そしてすぐに解けるように元へ戻る。
「アイネ、良い茶葉だと言ったな」
「うん、そうだよ」
「紅茶葉は買ってないはずだ」
「…………」
「持ってきたのか」
「うん」
「…………」
「い、淹れ方も……真似てみたよ……」
少女の声は雲っていく。怒られているのではないかという恐怖がすぐにでもわかるほどに。顔も俯き落ちて、ギオゼッタの表情を見る事はできなかった。
そうしながらただただ上手くもない言い訳を重ねている少女は、途中から彼の返答が無くなっているのに気付きはっと顔をあげる。
次に見た彼は、同じように落ち着きながら紅茶を飲んでいたままであった。
どういうことだろうかと悩む少女を後目に、味わうように丁寧に紅茶を飲んでいる。その光景のギャップはアイネの頭の処理の力をはるかに超え、彼女の頭に煙を吹かせるには充分な流れであったろう。
「え、えっと……?」
ギオゼッタは彼女の頭の上に、あの時のように手を置いて優しく短く撫でた。
「行くか?」
「えっ」
「次の街だ」
「まだここにいる。わかんないし」
「あの時も、そう言いたかったし、止めたかったんだろ」
「だって……でも……そう、だよ」
顔は見れなかった。優しい声だけが目を瞑って何かを抑えている彼女に届いて、彼女は哀しくではなく……嬉しくでもなく……何でか泣きそうになった。
「きっと感謝している。その感謝を伝えれない奴は、きっとこの世界にごまんといるのだ」
「リリンさんも……?」
「うむ。そしてそいつらから命を奪っているのも、錬金術かもしれない。そんな術を、俺はお前に教えたくはない」
「…………ごめん、なさい」
「だが」
意味のない、間だ。きっと彼は言葉に詰まったのだろう。似合わない台詞を吐くものだから、仕方がない。
「その感謝を伝えることだって、錬金術はできるはずだ」
「理論上?」
「理論上」
「あはは……」
「そんな錬金術を、俺はお前に教える」
空っぽになったコップを草原に置く。彼女が試験管から生まれ、還り着いたところだ、汚いハズなどない。むしろ綺麗なんだと……気付ける人のほうが少ないだろう。この有象無象ともいえる土粒の中に、彼女は居る。彼女だけではない、多くの人が居るのだ。
何故、僕はそう考える?
違う、そう教わったのだ。
誰にだ?
居るはずの両親? 記憶にない教師? いや、そのどちらであろうと、土粒に命の海を見ろとは教えてくれやしないだろう。
ギオゼッタは気付けば、一握りの土粒を持って静かに立ち上がっていた。さらさらと握った掌から零れ落ちた土粒たちはココアパウダーのように緑の上に降り注ぎ、平の上に残った粒たちはほんのちょっぴりだけだ。
それを再びぎゅっと握りしめ、目蓋も同じくらいにぎゅっと閉じる。真っ暗闇、鳴るのは風の音だけのはずのこの丘で、耳をすませば聞こえてくるような気がするじゃないか、ありがとうありがとう、と。
掴むのだ、それを。大気に散らばる感謝を。誰かが残してくれた想いを。錬金術とは『命を作る技術』でも『金を生み出す能力』でもない。
「錬金術とは……」
彼の脚に力が入る。滑りそうなその靴底を、たくさんの土粒たちが掴み、支えてくれている。そして彼は大きく振りかぶった。
「『より良い結果を目指す可能性』だ」
手から放たれたそれは、握りしめて固まった土ではなかった。ひらりひらりと現れ、風に乗って踊る花弁を、アイネは可愛らしい顔つきで見つけ、心から嬉しそうな表情をしながらギオゼッタの背を見る。
「片付けろ。行くぞ」
「えっ、教えてくれるんじゃないの?」
「道すがらだ。いきなり全部教えるわけがない」
ギオゼッタは風が吹いてくる方へ、道を外れ歩き出した。いそいそとアイネが片付けをしながら、どうしてその方向へ勝手に進むのだろうと悩みながら追いかける。
そう教えてくれた誰かに会える日はまだきっと遠いだろう。
しかし彼は歩き始めたのだ、自らが美しく変えた幾万の感謝の花弁とは真逆の方へ。
また始めようと思う。構想は完結までできていたけど、もっと素晴らしくして戻って来た。
これは僕の物語でもあるのかもしれない。
また次章で会おう、待っていてほしい。