7 君につらさを
それからの日々はゆったりと流れていた。
ギオゼッタは屋敷のアトリエを整えレポートを回収し、屋敷中の本を読み漁っている。
「おはようございます」
朝日が心地よい。アイネが上等なベッドで眠り、こうして起きるのももう三日目になろうか。すぐそばにはリリンが立っていて、またいつものように朝食の場へ案内されるのだろう。
「おはよー、ギオさんは?」
「今日も、お出かけになりました」
三日目、彼女の知らないところで全ては動き始めていた。
「四から五…と言ったところだろうな」
「……そうですか」
「僕にかかれば、早める事も遅らせる事も可能だ。だがそれは主義に反する」
「………わかっています」
「ここまで完璧に自然な生命を謳歌してきた君に、今更手を加える錬金術師は一人もいないだろうよ」
まるで錬金術師全てが彼女を見殺す事に賛成しているかのような言い方であったが、それに反論を交える者はその場に一人もいなかった。
ここは常夜、連れ添いの少女は寝静まった二人しかいないベランダ。
「私は、このまま平凡に生き、死ねばいいのですね」
「は?」
「え?」
今までそういう話だったんじゃないのか? リリンはそういう風に表情で伝えようとした。が、目の前にいるギオゼッタはこれまた何言ってるんだコイツと言った風に顔を作っている。
そうだ、忘れてはいけない。この男が世界一意味不明なのかもしれないという事を。
「君は日常、いやいや自然に生きる命というのを履き違えているな」
講義だ、間違いなく教鞭を持つ話がくる。そう、リリンが身構えた時だった。
ギオゼッタは顔を見せぬように表情を夜の青に溶かし、ぽつり呟く。
「堅実に生きて、最後に何もない人生は不自然だ」
ぽっかり話題に穴が空いたようであった。
それからしばらく沈黙を挟み、彼はそのまま続けた。
「後の人生は、君の好きなように生き、理不尽な死を待つと良い。願いがあれば言いたまえよ?」
また沈黙、夜の藍色はその立ち込めた哀しいをどろどろに溶かしながら、次に来る言葉を待っている。誰も彼らの表情は知らない。たった二人の空間で、彼らは互いの顔など見ずに言葉を交わしている。
「それでいいんだな」
「はい、よろしくお願いします、錬金術師様」
「またぁ? リリンちゃんはギオさんが何処に行ったかわかる?」
「それは把握していません…すぐにお茶を持ってきますね」
着席し、今日もまた綺麗な朝食を綺麗に平らげる。旅の道中ではこんな食事ありつけない……と、嬉しいっちゃ嬉しいアイネなのだが、あんなに急いで旅に出たギオゼッタがこうもここに居続ける事に関してはずぅっと疑問符を頭に浮かべているのだ。
どうもおかしい、けどそれ以上わからない。どうしようもないもやもやに彼女は悩まされ続けていた。
「どうしました?」
リリンが優しく問う。これも今日で三日目のやり取りだ。それに対してアイネはぷすぅと息を吐き、また彼に対する不平不満を漏らすのだ。
食事を終えたアイネは今日こそとギオゼッタの寝泊りしている部屋に突入するが、やはりそこは本の虫。積まれた厚い本達はおそらく読破されたのであろう。それ以外に見つけられるものはない、それは三日間で良く知っている。シーツの裏やベッドの裏さえ探したがそこには何もない。出かけているのだから彼の私物である鞄は当然ない、ないので見る事はできない。
行方の分からなくなった鳥を探すが如く、それは難航であった。途中なんども「むむむ」や「ぐぐぐ」と嗚咽を漏らしながら部屋をくまなく探すが新しい発見はない。
彼女の心には強く思い込んでいる事があった。そしてそれは正解なのだ。
ギオゼッタさんは何かを企んでいて、それを私は知らされてないんだ! そう思い込んでは部屋に入る。三日間、彼女はその背中を見続けている。
「つまりは、まずいつも通りの寂しい日常ではなく楽しい日常をと」
「えぇ、どうでしょう」
「僕らはまだ滞在する。アイネを見ていろ、飽きないぞ」
リリンはクスクスと笑った。それに対しやっとギオゼッタは青のカーテンを剥ぎ顔を見せる。
「錬金術師様は、彼女をそう思っていたのです?」
その顔はまだ笑っていた。
「楽しいだろ? 人間っていうのはな、独りで寂しいとコロッと死んじまうんだ」
彼はケタケタと笑った。
その願いは簡単に叶えられた。
「行こうリリンちゃん!」
三日間も同じ行動を繰り返すアイネではなかった。ついにリリンの手を引き街にギオを探しに出たのだ。彼女は心の中で、本当に飽きさせないなと感嘆すると共によとよととその足をアイネに続かせる。
彼女の勤めていた喫茶にも、あの倉庫にも、宿泊施設のある通りににも、街の目抜き通りにも彼はいない。この街はそう広くなく、アイネのようにここまで街を走り回れば遭遇してもおかしくないのだが彼らが出会うことは無かった。
「つ、疲れますね…」
「そうだね…ホント、何処に行ったのギオさん」
街を粗方回り終え、なら次に彼が居るならば何処だろうか。そう、何処かの建物の中である。手始めにリリンが手伝っていた喫茶に顔を出したが、そこに涼しい顔をしてティーを楽しんでいるギオゼッタの姿はない。次に向かったのは旅の糧食や小道具を揃えるのに役立つ店…出店は走り回った際に見えた事にしてそちらに飛び込んでみたが、結局そこにも宿の食堂にも彼は居なかった。
「次はこっち!」
勝手に他人様の家に入る事は流石にしない。が、漏れ出す音を盗み聞くのは罪ではない、レンガや薄塗りの壁に背中や頭を合わせ静かにちょっぴりとだけ息を止める。そうして静かになった世界で零れた音を聞く。
こんな状況や街の一角でなく、此処が森や小川の隣であればさぞ素晴らしい想像や嬉しい気持ちを湧き立たせるような事なのだが、残念ながらそんなことは無く彼女はしぶしぶ街を回る事になった。
肩を降ろしへとへとになった二人が屋敷に戻ると、そこには平然とした顔でベランダに出て読書をするギオゼッタの姿があるのだった。
「にゃあぁぁぁぁあっ!」
大荒れである。
「やめろ、暴れるな。何がしたいんだ、おい」
彼が少し焦っているのも見ものだが、ネコ科の小動物のようにはしゃいでいるのか騒いでいるのかのアイネも中々に不思議だった。
「見てないで止めろ。リリン、抑えろ」
「ずるい! ギオさんばっかり!」
「何がだ」
この日は大荒れであった。荒れ狂うアイネを二人係で捕獲し、なだめると今度は小さく泣き出しそれにギオゼッタがまた困る。激動のそれではあったが、確かに彼女の心は躍っていた。
ぐずぐずと涙をぬぐいながらアイネは心中をぼろぼろと零しはじめる。だがギオゼッタも話そうとはしないし、話せる内容ではないのだろうとリリンも察し言葉が出せなかった。
日常はこうしてみると、いつまでも続けてみたいほどに温かいものであるのが、今更になって彼女の心へ語り掛ける。生きたくないというのは嘘ではないが、本当ではない。だが考える時間はもうない。なんで自分はこんなに短くしか考えられず…生きられないのだろう。
そんな哀しいの中で、勝手をやっても泣いても何も起こりはしない。時間はちゃんと過ぎていく。ただそれだけが今の真実に違いはなかった。
「おい」
その言葉で視界が開いた。
「どうやらアイネも落ち着いたようだ。食事の準備を頼む」
「あっ…わかりました」
逃げるようにその場を去った。逃げるように? 何から? それは間違いなく自分が呟きかけた言葉からであった。辛いのだ、苦しいのだ、きっと彼もそれはわかっている。そんな事知っている。
………でも、ちょっとの我儘は言葉を止めない、止めてくれない。もう一日、あと一瞬…きっとそれを許してくれる人じゃないし、言えばきっと見放される。寂しいのは嫌だ。
いつの間にか彼女には、そこが暗がりにしか思えなくなっていた。沈んだわけじゃない、潜ったわけじゃない、でもそこに光は無い。道は見えない、目を瞑ったかのように何もない。
「寂しいのは嫌だ」
独りで台所にそんな言葉を落とす。闇の中は誰だって怖いはずなのに、私だってそこに行くのは本当は怖いんだ。心がそう弱音を吐くと、心は自分をきゅぅと締め付けた。
「苦しいのは嫌だ」
溢れていたのは確実に無機質な人形が持ち合わせていない感情だった。意味なんかなくたって誰かと手をつなぎたい、それで独りじゃなくなるなら。震える手は、ただの板切れさえつかむことを拒んでいる。
「消えるのは…」
「嫌か」
彼は、理由もなくそこに居た。助けに来てくれたわけでもなければ、殺しに来たわけでもない。
「食事の準備が滞っているようなんでな、まぁ、こんなことだろうと思った」
「……戻ってください、私は」
「生きたいか」
ぶちまけた。その言葉が落ちた言葉にこつりとぶつかり弾けた。闇の中に現れた姿も形も映さないまた新しい影は彼女の心を絞めつけている心を見ると、何のためらいもなくその心に言葉を放つ。
「そうかそうか。お前はアイネを三日間見て、どう思った」
「え…それは勿論楽しそうだって…嬉しそうだって…!」
魔術師はケタケタと笑う。この男もそう笑ったのだから、つまり錬金術師とは魔術師でもあるのだろう。素人目には違いがわからないかもしれないのだから、それが答えで間違いはない。
男は無作法に麻袋へ腕を突っ込み、珈琲の豆をむんずと掴み自分の口へ二三放り込みバリバリと音を立てた。リリンはそれを呆気にとられたように見ることしかできない。
「苦いな、だが苦しくはない。でも俺は甘い果実より好きだ」
「………」
「お前はこの数日が本当に楽しかったんだろうな。でも、良いのか?」
「……何が、です」
魔術師はまた豆を齧った。良い臭いがちょぴっとだけ台所に広がって、空気に混じって消えた。
「今までお前が生きた全てを否定しているのに、等しいのだ」
「………」
初めは意味がわからなかった。やがてまた光が亡くなったように思えて、見えてきたのは誰かの顔だった。次第にそれは通り過ぎ、また誰かの顔が見える。
喫茶店、笑い声。初めて見る種類の茶葉に、合うかわからないクッキーを。誰も知ってる人はいなかったけど、次第にそれは逆になった。誰もかれも私を知って、貴方を知っている…間違いなくそれは日々そのものだった。
一番初めに見た顔は誰だっけ…そうだ、お父さん…じゃない、錬金術師様だ。アレ、私何処で生まれたんだろう…あの部屋の…ぴかぴかのフラスコ、割れちゃったけど…違う、割ったんだ、生まれたんだ。抱きしめてはくれなかったけど、確かにそこには有った…忘れてた? 違うよ、違うよ、違う。
光が無いんじゃなくて、多分、気付いてなかったのかな…わからないや、どこにも無かったのかも。きっと錬金術師様なら答えを知ってるんだろうけど…聞けないや、間違ってたら…恥ずかしい。
なんでだだろうね。
いつの間にか台所から彼は消え、コトコトと鍋が揺れていた。
その日の食事は、美味しかった。アイネは泣きすぎたのか疲れて黙々と食べ、ギオゼッタは行儀悪く本を読みながら片手でちくちくと器用に食べていた。静かな食事だった。
彼らが部屋へ向かう背中を残されたお皿と共に見送ると、やっぱりどうしても哀しくなる。なるけど、彼女は思い出していた。生まれて初めてちゃんと喋れた日を。フラスコを割って、そこから出た日を。
台所で乱雑に扱われた麻袋から珈琲豆を取り出して、夜だというのに飲み始める。やっぱり私にはちょっと苦い。こんな素敵な舞台を降りるのはちょっと悔しいけれど…行きたい場所が出来たんだ。
陽はまだ上ってはいない。
ただただ暗くもない青の中でギオゼッタとリリンは立っていた。温かな湯気を上らせるカップもなければ、小難し古書もない。ただ、そこに立っていた。
「……私、行きたいです」
「そうか……そうか、お疲れ様」
彼は一回り小さい彼女の頭に手を乗せ優しく撫でた。何故だろうか、それは心地好く幸せそのものであるかのように彼女には感じられた。
「叶えて…もらえますか…?」
「任せてくれ」
それを聞くと彼女はにっこりとほほ笑み、屋敷の中へ戻って行こうとする。それを見ずに彼は、彼女の背中に言葉を投げた。
「なぁ、雲は…千切れて流れて溶けて消えても…雲だと思うか?」
立ち止まりなんとか答えようと考え込む彼女を風が優しく撫でていく。またあの日のような質問、もしかしたら自分はこれに囚われているのかもしれないとギオゼッタは考えていたが、それでも彼のいる檻は広く明るく間違いなく楽しいのだ。
棒立ちで返答を待つギオゼッタのレンズは冷えていた。
「…雲…じゃないと思います。でもソレにだって向かうべき先があって、何処からか生まれてきたんです」
「………」
「雲じゃなくなったからと言って、終わるわけじゃないでしょう?」
満足そうな顔はその青の中に溶けていた。誰にも見られることは無く、ただ真実に時間は過ぎて行った。また朝食を食べ、そして自由な時間がやってくる。そしてこれが間違いなく最後になる。
いつもと変わらない食事であったかもしれない。だが、二人の顔はすっかり変わりちゃかちゃかと食器を鳴らし二人で同じ音色を奏でているかのように交えながら時計の針は進んだ。
まぁその代わりではあるが泣くに泣きすっからかんになったアイネはのたのたと起き、ちょっとばかし遅れて目を覚ましこんがり焼けたウインナーにたどり着いた。
これは三日間の出来事だ。
アイネとリリンが屋敷に居たり、街を走り回っていた裏と言っても良い。いや、それが大正解なのかもしれない。まぁ、そういうことだ。
ギオゼッタはアイネが攫われて置かれていた倉庫の扉をがらがらと鳴らし開け、入り込む。今ここには何もなく、人の気配はあの時からすっかり無い。
そして椅子の代わりにと何かがつまった木箱に腰を掛けたギオゼッタはアイネも見た事がない新しい鞄からひょいと楽器を取り出すとその細い絃に弓を当て、同じフレーズを何回か繰り返した。
従業員か誰かがいれば顔をのぞかせたに違いないが、残念ながら客になるような人もおらず、次第に繰り返されるフレーズの長さとバリエーションが増えて行った。
彼の趣味が音楽であったかは誰も知らないが、真摯に取り組むその姿と上達していくスピードは誰しもが認めるような一種の芸術品ともいえる姿のままである。三日も経てばどの段をすっ飛ばして上り詰めたのか、一級とも疑われそうな程の腕前を彼は欲しいがままにしていた。
どうも、木目丸です。ほとんど一か月に一章更新、これでは一生かかるのではないかと心配になりそうですが、そんな事はありません。大丈夫です。
本職の人…雑誌やそういう公募の審査をしている人と話す機会が増えまして、参考になるような事も二三聞く事がありました…いやぁ、活かせてるかなぁ。
さぁ、あとがきが長くなりまして…また次章おあいしましょう! 卯月木目丸でした。