9 アンバー・タッチダウン
ちくたくちくたく、生憎此処は煩いが、僕の目的の為には必要不可欠な音だ。
ちくたくちくたく、見えるかい? 良い景色だろう。一面、蒼だ。
ちくたくちくたく。
そう、ここは絶対の領域。蒼の琥珀に沈められた、僕の小さな小さなアトリエ。
「ついたねー」
「あぁ」
「聞いてたより倍かかったよー」
「あぁ」
「………ねーねー、ギオさん!」
「あぁ」
「……あーあー」
二人は小舟の上に居た。
あの後、道を外れ真っ直ぐに突き進んだ先にあったのは、森と、その奥にある海原であった。ひーこらと森を突き抜け、彼らが見た物は海とその先にある島国であった。
アイネの旅人へ行った積極的な情報収集によると、あの島国はまたもいたって平和なのんびりとした国であり、大きな建物も城壁もなく、あるものと言ったら大きな港とちょいと高い時計塔ぐらいだと言う。もちろん島国なのだから、陸続きで歩いて行こうとなどはいかないわけで、浜を沿うようにしてたどり着いた、唯一の入国口と言える渡し船の港を使うのだ。
森側の海はお世辞にも綺麗とは言えなかったが、それを通り越して島の周りの海は青に澄み渡って、アイネの好奇心をぴょんぴょんと刺激するに充分であった。
一方のギオゼッタはと言うと、別に何の興味も示さずに舟を船頭に任せたままにどっさりと木の床に背を預けている。
「いいもん。ついてからはしゃぐもん」
「あぁ」
内心ギオゼッタは、普段身につけている高尚な制服のような服が熱を持ち、正直はしゃぐ気など毛の一本にも無い。ただただ暑くてしんどいだけなのだ。そしてアイネはどちらかというと旅に向いた薄着なのであり、舟の上で小さく跳ねて、初老だろうかの船頭と仲良く会話をするにも適しているような趣なのである。
つまりは、静かにしてほしいのだ。
この小舟の乗客は四人、ギオゼッタとアイネ、商人らしい男性とギオゼッタと同じくらい厚い服装に浅黒いコートを着込んでいる細く凛々しい初老の男性であった。船頭は特に珍しいことではないと、慣れた手つきで舟を進め、四人の眼前にあの遠巻きに見えていた港が近付いていた。
「つきましたぜ」
船頭がぎしりと小舟を木の小橋につける。商人らしい男が荷物の入った鞄を背負いながら、手提げの鞄を木橋にあげる。それを横に重々しい足取りで薄ら黒い老紳士が橋を革靴で踏みつけていく。
アイネはぴょんと木橋に跳ね乗りながら、ギオゼッタがゆったりと降りるのを待っていた。
「とりあえず宿だ。船頭、何処かいい場所はないか」
「へぇ。なんとも狭い島国ですから、宿場は一つか二つでさ。ここから近いのと言えばハニルのとこですな」
「そうか」
ギオゼッタは彼にとって聞きたいことだけを聞くと、さっさと歩きだしてしまった。場所も聞かずに歩きだしてしまった彼をアイネは必死に追いかけていく、それを船頭はすっかり訳が分からないと言ったように見つめていた。
ハニルの宿というキーワードだけを使ってギオゼッタがそこへたどり着くのに長くはかからなかった。それもそうだ、狭い島の上で住民たちはどこに何があるかなど知り尽くしていた。人柄もよく、実に温かい気候……ギオゼッタには嫌なぐらいに暑いのだが、旅の中間地点としてではなく、常夏の療場として利用する者も多いそうだ。
海のギリギリに建てられた比較的高い時計塔は、国のほとんどから見ることができる。迫り出した時計塔の人工的な根元は波に当てられ白くなりながら、少しずつ削られている。
その宿は、時計塔の近く……というよりほとんど根元にくっついているようだった。すぐさま部屋を取り、丁寧に鞄を置き窓から海を眺めるギオゼッタは、潮風をうっとおしそうに見つめている。
受付の女性は恰幅も良く、この国の安定した生活を示しているようだった。一見痩せぎすだと見られがちなギオゼッタも決して細いわけではないが、この国で考えるとすると中の下ぐらいだろう。
船の旅が長かったのか、それともチェックインに滞ったか、陽は真上に立っている。なお忌々しそうに太陽を睨みつける彼は、時計台の麓に目をつけた。
行くぞの一言もなしに彼はドアを開け、半ばアイネを置き去りに部屋を出た。残されたアイネはぱたぱたと荷物を残しかちりと鍵をかけて彼の背を追う。
「ななな、何しに行くのギオさん!」
「何もすることがない退屈な島だ。せめて、上から眺めてやろうと思った」
「えぇっ、それでも教えてくれなきゃわかんないよ」
「わかってどうする」
問答を少しうっただけで、時計台へたどり着いた彼らは鍵のかかったドアをガチャガチャと鳴らす。諦めの悪いギオゼッタは錬金術で無理やりにでも入り込んでみようかと考えたが、そこまですることはないと引き返そうとした。
周りに合わぬブーツを塩に吹かれた地面で鳴らし振り返った彼の瞳に、一人の人物が映った。それは自分らと同じ渡し船に乗っていた浅黒いコートの老紳士であった。
老紳士は少し離れた場所で暑さも知らんとばかりに、ただただ時計台を見上げている。あの男に何の用があるかは知らないが、気候の熱を忘れる程度に彼は、それに熱中しているようだ。
「………気になるかね」
意外にも、老紳士は白中からこちらに語り掛けてきた。
「ただの時計塔だ。白い煉瓦……潮風が直に当る方向は、とうの昔にボロボロになっている」
彼は懐かしそうに、またはそれを初めて見聞し分析するかのように言の葉を放つ。ふいにコートの中へ左腕を差し込み、シガレットのケースを差し出してきたが、ギオゼッタは丁寧にそれを断った。
「私も、気になってね。こんな機械細工とはかけ離れた場所で、こんなものが建っている」
「……随分、詳しい様子だ。宿は、ハニルの?」
「そうだ。この時期、風はこちらから吹く、きっと夜風は心地好いと思ってな」
「……それで、島の詳しい事はどこで訊いたんだ? 役所でもそこまで把握はしてないだろ」
マッチをしりっと擦り、シガレットは薄白い煙を上げ始める。心落ち着いたと言わんばかりにシガーの煙を吐き出す老紳士は、僅かに若々しくも見えた。
確かに彼の顔にはしわも少なく、綺麗に整えられたヒゲが口元にあるものの、年齢とは関係のない、何か活力があると分かる。そんな活きている顔をしている。
「この島にマトモな役所などないよ、大きな医院もない。訊くなら古株を掴まえるか、酒場の衆しかないだろう」
「貴方が昼間に酒場へ赴いたとは感じられない、かと言って、渡って宿を取ったとしたらいつ掴まえたのか。そこがちょいとわからない」
老紳士はシガーを持つ右手で口元を隠しながら、小さく確かに笑った。別にそれがギオゼッタの癪に障ったというわけではないが、二人の間にある空気がちょっぴりだけ変わったのを、全く蚊帳の外にされていたアイネですら感じ取ることが出来た。
「時間だよ。君とは似た感性だ、涼しい夜は実に長い」
夜は長い、だから考えるのだ。そういうことだろう。そうしてはまた時計台の針たちに目を向け直した老紳士をわき目にギオゼッタは歩き出し、部屋へと戻りベッドに居座って口元を抑え動かなくなった。
勿論、その間のアイネがじっとできるわけもなく。彼女は退屈な部屋を飛び出した。
この街は広いとは決して言えなかったが、道中にあった街々よりも活気と声に満ちていた。獲れたてであろう魚がぴちぴちと跳ねる中。奥に少しだけ見える厨房でふくよかな女性が活魚に包丁をいれている。
ギオさんもくればいいのにと、三歩歩くたび膨らませた口の中でもごもごとそんな言葉を呻かせた。彼女にはまだ彼がどんなことを考えていているのかはわからない。しかし、悩む考え込むということはわかっている。
ここで一つ差し入れでもと、飛び出しついでに持ってきた鞄の中から小銭入れを取り出し握りしめては見たが、当りに見えるのは活魚や貝という海の幸。きっと宿のご飯もこれらを使ったとても美味なものだろう。それを差し入れに買ってしまうのはどうだろう、流石に幼い彼女でもそう考えた。
「おや、あなた」
反射的にネコ科の動物のように警戒をする。
アイネにふと話しかけてきたのは、同じ船に乗っていた商人の男であった。
「覚えてますよ、同じ船に乗っていた。私の事、覚えておいでですかな」
こくりと頷く。それを見た男は嬉しそうな顔をしてアイネの顔に合わせて脚を休める。
「お嬢ちゃんはここの島の方ではないでしょう。きょろきょろ見ておられましたからね、私もなんです」
男は道中で喋るのもなんだと思ったのか、どこか適当な土産屋にアイネを案内し店内の小さな椅子に彼女を座らせた。
「おじさんは商売に?」
「はいはい。此処に来る商人は少なくて……活魚が売りの島ですからね、旅人商人にとっちゃぁ手の出しようがない品です。けどね、噂を聞いたんです」
「噂? お魚じゃない、お品の?」
「えぇ。ですが、その噂の是非を聞こうにも。ここの方々は皆知らない様子で……そう言えば、お嬢ちゃんと一緒に居た彼は?」
「宿で考え事」
「難しそうな人でしたからね。差し入れなら、ここのお店で小物を選ぶのも良い、ではでは」
商人はアイネが噂のことを尋ねる前に去っていった。どう考えても興味が尽きないアイネはこのことをギオゼッタに尋ねて彼の悩み事を増やすだろう。
アイネは土産屋で男に言われた通り棚の隅から隅を眺めまわし、小さな小瓶に入った香水を買った。ギオゼッタの趣味には絶対に合わないが、これぐらいしかなかったし、いらないそんなものとつっぱねられるような仲ではないと思ったからだ。
大して時間は立ってはいないが、アイネは宿に向けて歩き出す。
そこで再びあの背中を見ることとなった。
路地裏に、あの老紳士が消えていくのだ。件の酒場か、物知りでもがあの先にいるのかもしれない……彼女は先ほど聞いた噂のことも相まって、やはりころっと路地裏に吸い込まれて行った。
この癖が治る日はいずれ来るのであろうか。
別に忍んで追う気はなかったが、こういうのは雰囲気。こそこそと足どり軽くその背中が進んだであろう道を進む。
幸運なことにその路地は一本道で、遙か遠くにあのコートの背が視えている。
「………!」
曲がり角近く、老紳士が振り返った。
急いで近くの隠れられそうな箇所に身を当てるが、先ほど幸運かと思った路地は狭く、そんな場所は無い。
「君」
「あわわわわわ」
あっけらかんとしている間にすぐ見つかり、逃げようにも背に梁か何かの柱が見つかってひっかかる。
アイネとは打って変わって老紳士はひどく冷静に彼女の元へ寄ってきた。
「君、そこまで騒がしくすることじゃないだろう」
「ええええ。えっ? 何もしない?」
老紳士はふぅと息を吐き、やれやれと肩を揺する。
「すると思われていたのか。心外だな」
「しない、しない……えーと、じゃあ」
「おっと、時間はないのだ。彼によろしく言っておいてくれたまえ」
そう言えば老紳士は寄ってきた時から少し忙しい様子だった。
彼は身をひるがえし路地を進むのだが、少し進んだところで顔を追うか追うまいか悩んでいたアイネに向け、彼女を制した。
アイネはそのままギオゼッタが待つ部屋へほいほいと戻っていくのだった。
「で、そのまま戻ってきた、と」
「うん!」
「…………」
帰ってきたアイネは少し楽し気にそのことを話していた。が、どうもそれを訊くギオゼッタの顔がほぐれないので、少しずつその場の雰囲気を理解しだす。
「………二三いいか」
「う、うん」
「商人の男が言っていた噂、これについてはそれだけか」
「あっ」
「それと。追う追わないにしても、路地の先になにがあるか……なんてのは宿の従業員にも聴かなかったのか?」
「………それはー、今から」
「………」
「ごめんなさい」
「謝ることじゃないとは思ったが、今しがた嘘をついたろう。それで、だ」
「まだあるの!?」
「………なんで香水」
「ぁぅ」
今日、彼女は気になったことをメモしようと思ったのであった。
もっとも、それを覚えていられるかが今一番の問題なのだが。
彼は香水を鞄の小さなポケットにしまい込むと、月がコッパーブルーの海面から出ようとしている景色をただただ眺めていた。
時計の針をいくら必死にいじろうが、時間はほんのちょっぴりでも巻き戻りはしない。
時間は全ての意識にとって、共通の財産だからか。それとも、誰の手の介入も許さない完全なものだからだろうか。
また、それとも針を弄るという発想が、稚拙で、まだその段階ではないということだけだろうか。
しかし、しかしそうとしか言えないのだ。時計が時間の象徴であるから、針が進むから時が進むと言えるのだから。
その絵空事を現実にするのが、我々、錬金術師だったりするのではないだろうか。
時計の針も、太陽と月の追いかけっこも。円じゃないか。
円、円、円円円……そこにきっと答えがある。
お久しぶりです。
また一歩づつ、初めていきたいと思います。