鍵の行方
途中で視点が切り替わります。
「――どうぞ」
最上階。エレベーターを降りると、住居用の扉はたったひとつ。表札の出ていないそれの鍵を開け、男は私を招き入れた。
「屋上へは出たこともありますが、もうひとつの扉は?」
「ああ、備蓄倉庫だよ。食料品については、期限が近づいたら居住者に分配して新たなものを購入するから」
来年か再来年くらいかな、と云う男。
関西、中越、東北……幾つかの大きな震災を遠くからではあるが知る身にとっては、自らの備えと合わせ万一の場合も安泰だろう。
そして――もうひとつ、この男がマンション自体の所有者だという話が真実なのだと知れた。まあ、知ったところでそれがどうしたというところだが。恐らく此方の動揺を誘ってあわよくば……と目論んだのだろうが。心は既に無いものを。
室内はとてもシンプルだった。必要最低限の家具、けれどモデルルームのように作り物めいてはおらず、その一つ一つに主のこだわりを感じさせる。
大きく切られた窓からの風景は、自室よりも高層だからか、同じ眺めの筈なのに眺望が良く感じられる。
「夜景を売りにしたからね。この眺めは自分でも気に入っているよ」
窓の外を眺めていると、いつの間にか隣に男がいた。渡されたグラスに口をつけ、肩を抱く手に促されるまま、革張りのソファーへと腰を下ろした。さも当然、と隣に座る男に内心で笑う。
グラスの中身は酒ではなく、香りの良いアイスティー。何処で私の好みを知ったのか、ストレートで供するとは。ちらりと男の顔を見遣ると、総て判ったように唇が緩く弧を描いていた。
「――さて、君の用件は何かな?」
とりとめのない話を続け、グラスが空になった頃。漸く男が切り出した。私は内心笑みを浮かべる。一体何時まで、腹の探り合いが続くのだろうと思っていたから。
「単刀直入に申し上げますと、我が家の鍵をお返し頂きたいのです」
そう痛くもない出費だ、鍵など取り替えてしまえばいい。それこそ、大人しく返却されたあとにだって。万が一、合い鍵の合い鍵を作られていたら困る。
それなのに、こうしてわざわざ逢いにまで来た理由は、ただひとつ。
この男の口から、聞きたい言葉があるから。
もしそれが聞けなかったら、鍵を受け取って、帰るなり錠前屋を呼ぶ。もし聞けたときには――
**
彼が俺の部屋に居る。まるで奇跡のようだ。
珈琲も好きだがアールグレイのアイスティーを特に好むというのは、とある筋からの情報。間違っていなかったことは、満足げな表情から直ぐに判る。
さて……これから、どうしようか。
レンズの向こうの瞳には、間違いなく俺と同種の焔が熾火のようにちろちろと灯っている。だからといって交わす言葉もなしにベッドに連れ込む訳にはいかない。今までの相手なら兎も角、彼だけは駄目だ。
鍵を返してくれ、と。とうとう彼が切り出したのに、どう返すべきか。
口元に浮かべた笑みはそのままに、脳味噌をフル回転させる。けれど浮かんできたのはたったひとつ、とてもシンプルなものだった。
「勿論。これは君のものだ。……けれど、ひとつ条件がある。俺に、君の傍に居る権利をくれないか」
「ほう……何の為に?」
面白そうに吊り上がる唇。判っている癖に。
「君のことをもっと知りたいし、俺のことも知って欲しい。見かけではなく、中身を」
一目惚れだったんだ、という告白は、吐息が触れ合う距離で。
笑みを深くした彼は、自ら残りの距離を詰めてきた。
合い鍵はどうなったのかって? 俺のキーケースに鍵がひとつ増えたよ。そして、彼のキーホルダーにもひとつ。
あれだけ脅しをかけたのにも関わらず、彼に接触した誰かさんには、ちょいとキツいお灸を据えさせて貰ったけれど、明日は我が身にならないように気をつけなければとも思った。
まあ、それはないと断言できるけれど。それくらい彼は魅力的だし、俺は色んな意味で自由に生きているから。彼を哀しませるようなことにはならない。
今は、有能な彼をいかに我が社に損失が出ないよう俺の近くに置けるか、思案に思案を重ねている。
最後までお付き合いいただき有難うございました。