修羅場
拗れた別れ話と新たな男。まあタイトル通りの内容です。
「お、っと……」
入口の機械に鍵を押し込もうとして、目測を誤った。
滑らかに磨かれた大理石のフロアを滑ったそれは――かつん、と誰かの革靴に当たって止まる。
拾おうとするのを片手で制して、私より少し年嵩の男が足元に手を伸ばした。
「どうぞ」
「ああ、すみません。有難うございます」
笑顔で差し出されるキーケースを受け取ろうとしたそのとき、先程別れを告げてきた相手から此処の合い鍵を回収し忘れたことに気づいた。
(面倒なことにならなければいいが……)
「どうかしましたか?」
「いえ、一寸思い出したことがあったもので」
この男も、此処の住人だろうか。朝早く夜遅いという典型的な仕事漬けの日々の所為で、確実に顔を見知っているのは引っ越しの挨拶をした両隣と上下階の住人くらいだ。
改めて礼を云い、男の手からキーケースを受け取る。
手元を見られないよう気をつけながら、鍵を差し込み手早くロックを外して、エレベーターに乗り込んだ。
私と同じ作業をしている男を待つべきかとも思ったが、丁度良く上からもう一基が降りてきたのを確認し、ドアを閉めた。
――だから私は気づかなかった。男が、私が乗り込んだエレベーターの停止階を確かめていたことを。
その晩も、私はいつものようにオートロックを解除してマンション内に入り、自宅の扉を開けた。
「……」
その場で回れ右、部屋を出ようとした腕を掴まれる。部屋には侵入者の姿があった。
「やっと掴まえた」
歪んだ笑みを顔に貼り付けているのは、少し前まで己の情人であった男。
「離して下さい。もう貴方と私は何の関係もないでしょう。さあ、鍵を返しなさい」
掴まれた腕を振り解き、距離を取りつつ対峙する。だが男の顔には笑顔が張り付いたままだ。
「この間は悪かった。仕事が立て込んでいて苛々していたんだ」
馬鹿馬鹿しい。そんな云い訳が通用するものか。此方がまだ情を持っていたときなら兎も角。
抱きしめて籠絡しようと伸びてくる腕を掴んでねじり上げ、痛いと喚き散らすのも無視して廊下に押し出す。
合い鍵を握られたままなので、滅多に掛けない上下の防犯用ロックを施錠し、廊下の様子を窺った。
開錠しても開かないドアに他の鍵の存在を感じとったらしい。ドアを叩いて大声で「開けてくれ」と叫び始める男。
近所づきあいをまめにしてこなかったのが吉と出るか凶と出るか。何処をどう聞いても痴情の縺れ、別れ話が拗れているようにしか聞こえないが、室内に居るのが男だというのは流石に体裁が悪い。
(……ん?)
不意に、声が止んだ。否、先程までとは比べものにならない大きさだが、男は誰かと会話をしているらしい。
そっと覗き窓から廊下を見て、驚いた。男を羽交い締めにして何やら話しているのは、先日マンションの入口で出会った、私よりも少し年嵩の男。
気になったので上下のロックを外し、そうっとドアを押し開けた。
「やあ。何やら不穏な内容が聞こえてくると思ったら、やはり君のところだったか」
私に気づいた男の言葉に、腑に落ちない部分がある。
「やはり、というのはどういう意味ですか?」
きいきい喚く元情人が喧しいので、ポケットからハンカチを取り出すと猿轡を噛ませた。これで漸く静かになる。ついでに廊下で話すような内容でもないので、彼には元情人を取り押さえたまま室内に入って貰った。
タオルなどで手早く元情人の手足を縛り上げる。何の躊躇いも見せなかったからか、男が苦笑いを浮かべているが綺麗に黙殺した。猿轡を噛まされたままでもごもご云っている元情人も同様である。
「で? 先程の『やはり』とは?」
ソファーに座るよう勧め、インスタントだが珈琲を用意して戻ると私は早速切り出した。
「ああ……ここ何日か、君の帰宅時間を確かめるようにこの男が様子を窺っていたんでな、一寸気になっていたんだ」
転がっている元情人と目が合う。もごもご云っているが、もうこの男の言葉を聞くつもりはない。
「成る程。彼の狙いが私だと気づいた理由は判りました。それでは何故、私がこの階の住人だと?」
元情人が私に買い与えたこのマンションは、上下のフロアに音が筒抜けになるような安っぽい造りではない。音が気になって廊下に出て来たという風情でもないのは、明らかに仕事帰りだと判るスーツ姿とアタッシェケースが証明している。
「簡単な話だ。君のキーケースを拾った日に、エレベーターがどの階で止まるのか表示を見ていただけだよ」
「ああ……確かに」
あのとき、エレベーターには私ひとりしか乗っていなかった。止まるのは必然的に、私の部屋があるフロアだ。
「さて、この男はどうするつもり? 見たところ浅からぬ関係のようだけれど」
「それは以前の話です。もう赤の他人ですから、不法侵入だと警察にでも突き出しますよ」
猿轡をされたままの表情が固まり、さあっと青ざめていく。
「なに青くなっているんです? それくらい覚悟の上でしょう?」
「おいおい、いいのか? そいつの襟にある社章って……」
「構いませんよ。莫迦ですよねェ、見ただけで自分の身元が割れるものをつけたままで法を犯すなんて。それだけ私が与しやすいと思ったんでしょうけれど」
お生憎様、だ。
私はそんなに、甘くない。それこそよく知っていただろうに。
取り敢えず合い鍵を回収しようと、転がっている元情人のもとに向かう。
「……触りたくないですね」
思わず呟くと、「合い鍵か?」と男に訊かれて。頷いたら、代わりに探してくれるという。それならばと、元情人のアタッシェケース――ソファーの上に置いてあった――に手を伸ばす。目当てのもの――携帯端末は直ぐに見つかり、私のデータを抹消した。メールから着歴から、何から何まで。
そこまで徹底すると、一応気は済んだ。総てを面白そうに眺めていた男に、頼む。
「警察に突き出したいのは山々ですが、説明が非常に面倒なので、すみませんがこれ、マンションの外に放り出してきてくれませんか?」
捨ててこい、と云わなかっただけ有難いと思って欲しい。
「ああ、構わないよ」
一つ頷いて男は立ち上がり、ひょいと元情人を肩に担ぎ上げた。手足を縛り身動きを封じられているから、その様はまるで大きな荷物のようだ。
先回りしてドアを開け、エレベーターを呼び出す。
「君は部屋で待っているといい。済んだらまたお邪魔するよ」
「判りました」
エレベーターの扉が閉まるのを待たずに、私は踵を返した。
ドリップ式の珈琲を淹れ直す。其程時間は掛からないだろうと思っていたが、用意が調ったところでタイミング良くインターホンが押された。
「捨ててきたぞ。ついでに少し脅しも掛けておいたから、もう現れないだろう。君に相当素気なくされたしな」
「有難うございます」
元情人を拘束していたタオル類を受け取る。猿轡に使っていたハンカチはゴミ箱に放り込んだ。
珈琲を振る舞い、暇を告げた男を玄関まで送る。……そういえば名前すら訊いていないな。お互いに。
「――ああ、そうだ。先程の褒美を貰っても良いか?」
「褒美?」
何のことだろうと見上げた顎を掬い取られる。次いで眼鏡が奪われ、世界がぼやけた。
「何を……ッ!?」
云いかけた言葉は、文字通り男に呑み込まれる。
好き放題蹂躙してから、唇が離れる。気がつけば男の腕の中。
「また来る」
笑みを含んだ声音と共に、頬に口づけられた。抱き締められた腕が解かれ、ドアが閉まる音。
いつの間にか握らされていた眼鏡を掛けながら、笑い顔が見たかったとぼんやり思った。
書き手冥利に尽きる言葉を頂いたので、自分は出来る子、と云い聞かせながら頑張ってみた。
一晩置いたらブレーキが掛かったが、もう一晩置いたらエンジンが掛かった。
気持ちが沈み込んでいるときの文章だな、と客観的に思うも、話の雰囲気からしたらそれもまあ悪くないかと。
こんなん出来ましたけど如何でしょうか、という私信と共に。