世間体
別れ話を切り出された男の独白。自サイトより転載、微妙に修正。
「別れてくれ」
突きつけられた、いつかは投げかけられると予想していた言葉。
だがそれは、想像していたより――痛くも痒くもなかった。
世間体
毛足の長いソファーに座り、組んだ足の上で苛々と指を動かしている。
焦ったり、追いつめられているときの男の癖だ。
「――随分と、突然ですね」
眼鏡のブリッジを押し上げ、普段通りの無表情で対応する。
……こんな男を愛人として長いこと傍に置いていた辺り、彼も相当変わった人間だったと改めて思いながら。
「妻が感づいたんだ。それに、社の人間も危ぶみだしている。俺の世間体も考えてくれ」
「……」
セオリー通りの答え。
予想と違わぬそれに、乾いた笑いが溢れる。
「何が可笑しい!?」
苛立たしげな男に、口元から笑みを消し、努めて冷徹な視線を向ける。
「いえ……『妻には絶対に気づかれないようにする。世間体なんて糞食らえだ』と私を口説いたのと同じ人間の台詞だとは、到底思えなかったもので」
「お前……ッ!」
頭に血が上った様子で立ち上がった男。
――もう、興味が失せた。
「何処へ行く!?」
腕に掛けていたジャケットを羽織り、身を翻すと男の声が追いかけてくる。
「別れて欲しいんでしょう? 帰るんですよ。
……ああ、あの部屋は手切れ金代わりに頂いておきますからね。もともと私名義ですから、問題はないでしょう?」
「ッ!」
一度だけ振り返ると、ポケットからこの部屋の合い鍵を取り出し、男の足元に放り投げる。
「では、失礼」
それっきり、振り返ることはせずに部屋を出た。
「……ふぅ」
閉めたドアに寄り掛かる。
捨てられた、という感覚はない。
寧ろこっちから切り捨てた、というところか。
世間体ばかり気にして、覚悟のない男となど付き合うつもりはさらさらない。
そんなものが気になるなら、愛人など作らねばいいのだ。
「さて、帰るか」
スラックスのポケットに手を突っ込み、淡い照明が灯された高級マンションの廊下をエレベーターに向かって歩き出す。
あの部屋を難癖つけて取り上げるような真似をしたら、今までのあれやこれやを全部ぶちまけてやるぞ、と心に誓って。
――恐らく、あの男はそんなことが出来る程肝が据わってなど居ないだろうが。
サイト公開は2006年4月。
……まさかあんな仕事をさせられるとは思わず、初めて送り出した卒業生への感傷を引きずっていた頃の作品か。
十代後半のものより、もう既に己が書いたものだなァという半ば諦めにも似た心地がする。何故だ。
自分が切り出した別れを引きずりまくりの人間が書いたとは思えない割り切り振りがまた笑える。