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短編

もしも願いが叶うなら

作者: 小野チカ


 もしも願いが叶うなら、明日の彼に伝えたい。

 ————本当は出会った時から好きだった、って。



 ◇ ◇ ◇



 それはきっと、彼の気まぐれだったのだと思う。

 雨に打たれる捨て犬を見過ごせないように、たまたま視察に出た先の滅びた村で、濡れ鼠になっていた私を見過ごせなかった。


 彼の愛護精神に、ただ、触れただけ。

 私が生きてきた中で、一番の奇跡。


「俺と来るか」


 その光景は今でも覚えている。目を瞑れば色鮮やかに思い出せるほどに。

 その色すら、灰色と黒色と茶色だけだったはずなのに、私の心の中ではいつまでもきらきらと輝いている。


 大きな黒い馬の眼光は鋭く、その馬に跨がる彼もまた威圧感が凄くて、木の根に小さく丸まっていた私から、彼も彼の馬もとてつもなく大きなものに見える。


 そんな彼が伸ばした無骨な手は、何故かとても綺麗なものに思えた。

 手を取ったのが何故か、今でも私は説明できない。けれども、彼に連れていって欲しいと思った。


 私をここから、連れて行って欲しいって。



 ◇ ◇ ◇




 私は最初からいらない子だった。

 魔力の強い血筋の生まれだった父と母の間には、五人の子供が居た。

 四番目の子が私だった。


 二人の兄も、姉も、妹も、両親の自慢の子供だった。


 一番上の兄は辺鄙な場所にある村の生まれにも関わらず、その力が認められて、将来は王城へ上がることを許されていた。村での兄は英雄だった。

 二番目の兄は先々代の治癒力を受け継いで、村医者になった。どんな病気でも治してくれると重宝されて、村一番の美人と婚約を交わしていた。

 姉は大魔術師と名高い先生の何番目かの弟子になり、妹も、いずれはそういう道を進むだろうといわれていた。


 “十六の年を迎えるまでに、全ての民は力を得る”


 そう言い伝えられている通り、この世に住まう人は成人までに力を得る。

 例外は、ない。

 ないはずだった。


 生まれ持った力の量は決められていて、どれだけ努力しても身の丈に余る力は手に入れられない。だからこの世は、少しでも魔力の強い血筋を家系に取り入れようと必死になる人が多くて、政略結婚も犯罪率も高かった。それで起こる戦争も一つや二つじゃない。


 成人するまでと言いながらも、生まれて間もなくすれば大抵の子供には鮮やかで生き生きとした魔力が目覚め、その子供を守った。生まれて間もなくではなかったとしても三歳までに魔力の目覚めない子供は一千万人に一人と言われている。


 もしくは、魔力を持たないゼロの子か。

 そして私は、一歳をすぎ、二歳、三歳と年を重ねても魔力が目覚めなかった。


 父はそんな私を生んだ母を責め、

 母は親戚に頭を下げて回っていた。


 力のない子を産んでごめんなさい。


 魔力が全てのこの国で、親戚であってもゼロの子が居るのは恥でしかなかった。

 今ならそれがわかるけれど、当時は何故、母が父に叱られ、小さな妹を抱きながら母は頭を下げて回る日々を送るのだろうと不思議に思っていた。


 それが全て自分のせいだと気付いたのは、そんなに遅くなかったと思う。


 母は私をあまり家から出したがらなかったし、妹が学校に行っても、私は行けなかった。文字の読み書きは母が教えてくれたし、料理もお裁縫も本で得た知識も私が兄弟の中で一番だったのに、母以外、誰も褒めてはくれなかった。父は、私と目すら合わせてもらったことがないように思う。


 近付くと、寄るなうつると言われたこともあった。


 母は泣いていた。

 色んな人に謝って、頭を下げて、私に向かって泣いた。


 力のない子に産んでしまって、ごめんね。


 その度に、私は料理もお裁縫も得意だから、力がなくても全然いいのと答えた。

 私の刺繍を褒めてくれる母がいてくれたら、それで全然構わない。


 母さえいれば。

 そう思って、幼少期を過ごした。


 けれども母は、私が七歳を迎える頃に儚くなった。


 私は悲しくて泣いた。

 冷たくなった体に縋り付いて、行かないでと叫んだ。


 そんな私に、父は言った。

 お前を生んだせいだ、と。


 兄は言った。

 お前に力がないせいだ、と。


 姉は言った。

 何故私が死なずに、母が死んだのか、と。


 妹は口をきいてくれなくなった。


 母がいなくなって、私の小さな小さな世界は呆気なく壊れた。


 話し相手がいなくなり、私は部屋の隅っこで刺繍と読書にいそしむ日々が続いた。

 来客の時は地下室に連れていかれた。嫌だと父に泣いてすがったら、我がままを言うなと頬を叩かれた。


 我がままな私の言うことに、耳を傾ける人なんていなかった。


 その日の朝も、来客があるからと起き抜けの私に父が言った。

 暗に地下へ行けと言われているのは魔力のない私にもわかる。その時、私は十歳だった。


 私以外の家族がダイニングで温かそうな朝食を頬張り、楽しく会話している横を通り過ぎる時に何の痛みも感じなくなったのはいつからか。私は籠にパンと牛乳を詰めて、ランプを片手に地下へと下りる。地上へ続く階段の蓋を閉めるのも忘れない。


 母がいなくなってからは、誰も見送りなどしてくれなかった。

 それが普通になっていたし、何とも思わないようになっていた。


 下へ下へと続く階段は、私が居るとばれないように深く造られている。

 だから私にも階上の音は聞こえないし、何より勝手に出ることは許されなかった。


 いつもは聞こえない大きな音がし始めたのはいつだったか。

 窓もなければ時間を知る手立てもない地下室で、どれほど時が過ぎていたのかもわからない。


 私はその時、編み間違えたニットの編み目を直すのに必死で、そうなるとどれほど時が経ったのか分からないのが常だった。私が地下に下りてすぐだったかもしれないし、随分経っていたかもしれない。


 こんなに大きな音がするなんて、ただ事ではない。

 そう理解しているのに、地上へと続く階段に足を乗せることができなかった。

 勝手に出るなと言われているし、実際に出たら叱られる。


 最初は気のせいかもしれないと、編み目に目を落としたけれど、その後すぐにまた大きな音と振動が伝わる。


 どうしよう。

 どうしよう。

 どうしよう。


 地上へ出るか?

 力も持たない非力な私が、地上へ出て何の足しになろう。

 恥さらしと言われて罵られるのは目に見えている。


 私は恥じさらしで、我がままで、いらない子。


 その時、部屋の隅で丸くなるしかなかった私の判断は、正しかったのだろうか。

 今思い返しても、どうすれば正しかったのかはわからない。


 ランプの火がつきて真っ暗な中、ただ呼ばれるのだけを待っていた。

 けれども、音が静まった後も呼ばれることはなかった。


 少しずつかじっていたパンも尽きて、空腹にお腹が痛くなった頃、私は恐る恐る階段を上った。もう何の音も聞こえない。


 怒られてしまうかもしれないけれど、その怖さよりも、餓死の方が怖かった。食べなければ死んでしまう。盗み見て、何か食料を調達することはできないだろうか。そんなことを思いながら地下の蓋を上げる。いつもより少し重い感じがするなと思ったけれど、構わずに開けた。


 そこは、かつてあった長い絨毯敷きの廊下ではなく、既にくすぶりはじめた火と、木の燃えた後と、私を濡らす雨粒だけだった。




 ◇ ◇ ◇




「俺の生まれた町は五月蝿いかもしれない」

「うるさい?」

「お前にとっては雑音が多いかもしれないが、活気があり、空がここよりも青く高い。そこだけは俺も気に入っている」


 そう言いながら私の頭を撫でる大きな手は、ほんのりと温かかった。

 そんな些細なことが本当に嬉しかった。


 そうして始まった彼との生活は新しいものでいっぱいだった。

 外に出てもいいと言ってくれ、野山を駆け回る私を叱ることもなかった。

 馬に乗ることも、弓の使い方も、剣の使い方も、街の華やかさも、教えてくれたのは彼だった。


 魔力の持たない私を叱らない、無口な彼の少したれ目がちな瞳が好きだった。

 客人が来ても、もう隠れなくていいからと、抱きしめてくれる大きな手が好きだった。


 彼と過ごした六年の日々は、私には眩しすぎて贅沢なものだった。

 忘れていたわけではない。

 ただ、一瞬忘れてしまうことは多々あった。


 私が力のない子供だから。

 それが世の中で、どういう扱いを受けるか。


 私を保護している彼が、どういう扱いを受けるか。


「来週は記念日だろう。今年は何が欲しい?」


 私が彼の家に来た日を記念日と言い、毎年贈り物をしてくれる。

 最初は上質な絹のワンピースだった。薄桃色のワンピースを着た私に、彼は似合うと微笑んでくれた。


 短く切りそろえられた黒髪は彼によく似合っている。背の高い彼は、よく冷たいという印象を持たれのだと、彼の友人に教わった。私にはよくわからない。あの日。六年前の雨の日、彼から差し出された手はとても暖かく、抱き寄せられた衣服からはお日様の匂いがした。


 雨の日なのに、お日様みたいな人。

 冷たいと言われる彼は、本当は優しく温厚な人だ。


 幸せな日々の裏側で、彼がどんな評価を受けているか。

 彼は私に聞かせないようにしてくれているけれど、人の無意識の悪意というのは厄介で、彼一人で到底防ぎきれるものではない。


 どこの馬の骨かもわからない私を引き取る彼に、彼の周りが反対したことも。

 力のない私を囲う彼を、幼女趣味だと蔑む人がいることも。

 その豪腕で、力のない子供を奴隷にしてるという根も葉もない噂も。


 彼の婚約も破棄されて、お嫁さんも見つからないことも。

 これ以上の彼の昇進が、難しくなったことも。


 私が知っていると聞けば、彼は悲しむだろうか。


「————が、欲しい」

「ん?」


 優しげに細められる瞳に語り掛けたくなるときがある。


 どうして、私なんかを拾ったの?

 力がない子供だと知って、がっかりした?


「力が欲しい」


 生まれて初めて、そう思った。

 それまで母に守られてきて、力があれば兄弟達と一緒に食卓を囲めたのかもしれないと思ったことはあったけれど、それでも私は幸せだった。あの閉鎖的な空間が絶対だったうちは、私は確かに幸せだった。


 家族だけを怒らせなければ、私は平穏な日々を手に入れられる。


 彼のところに来て広がった世界は、華やかで刺激があり、そして、平穏から少しだけ遠かった。彼が紹介してくれる彼の友人。その友人と広がった交友関係は、必ずしも良いことだけではなかった。現に、彼が世の中からどういった評価を受けているかは、次の日には私の耳に入ってくる。


 彼を守るための力が欲しい。

 私は、力が欲しい。


「それは——」


 言葉に詰まる彼に、私は小さく嘘、と呟いた。それこそが、嘘だった。


「嘘。冗談だよ」


 そう言った私を、彼はただじっと見つめていた。


 私の日付の感覚が間違っていなければ、もうすぐ私は十六歳になる。

 とうとう魔力が目覚めなかったと、嫌でも認めなければならない。


 ずっとこんな日が続けばいいのに。

 でもそんなのは無理だと、私が一番よくわかっている。








 だから、十六になる私に力が目覚めた時は、私は居もしない神に感謝した。

 昨日まではなかった、力のみなぎる感じが痛いほどよくわかる。最初に触れた野鳥の足は以前よりも丈夫になったらしく、広大な空を伸び伸びと飛び回っていた。涙をこぼしながら嗚咽交じりに話す私を、彼は背中を撫でながら優しく聞いてくれた。


「よかったな」


 あと十六年早かったら、もっとよかったな。と言った彼の言葉は聞かなかったことにした。


 あと十六年早かったら、彼と私は出会っていない。

 彼が私と出会ったことを後悔しているのかもしれない。

 それが事実だったらと考えると、私は聞かないふりしかできなかった。


 これから役に立つから。

 絶対、彼の役に立つから。


 二番目の兄と同じように、私は治癒の力があった。

 遅咲きのその力は驚異的で、どんな傷でも触れるだけで治すことができた。


「私が治すから」


 彼はこの国で、武神とまで言われる騎士の一人だった。

 戦が起これば、彼は傷だらけで帰ってくる。

 今までは毎日安否を気遣う日々だったけれど、これからは、私が。

 私が、彼を治すことができる。


 けれども、彼はいつも通りやさしく微笑むだけだ。


「対価のない魔術などない。今はその代償が何かはわからないが、魔術を使えば必ず“何か”が奪われる。俺の傷は放っておけば治るものだ。お前が気にすることはない」


 それは優しい拒絶のようにも聞こえた。

 初めて、彼の優しさを疎ましく思った。私の名を呼んで、撫でてくれる無骨な手も。

 抱きしめてくれる、筋肉質な体も。


 代償はすぐにわかった。

 けれども、分からないフリをして過ごしていた。


 彼に見つかってしまえば、必ず力を使うなと言われることがわかっていたから。

 でも私は、もう鳥かごの鳥になるつもりはなかった。


 昔とは違って、今の私はふくよかになったし、筋肉もたくさんついた。

 他人の悪意を笑顔で乗り切る術も、嘘をつくことも上手くなっている。


「お転婆というよりじゃじゃ馬だな。山に行くのはいいが、あまり傷をつくるなよ。嫁にいけなくなる」


 彼が気付いたかどうかはわからない。

 それに、彼が傷を負った日は、家に帰ってこなかった。


 私がお嫁に行けなくなるより、彼がお嫁さんをもらえないことの方が心配だ。

 そういうと、彼は決まってこう言う。


「俺はこんな職業だから、いつ命が終わるかもわからない。悲しませるくらいなら、いっそいないほうがいい」


 じゃあ、何故私を拾ったの?

 その問いは、答えが怖くて聞けないでいる。


 私は卑怯で臆病者だ。

 聞かなくても、わかりきっている答えから逃げている。


 ただの気まぐれ。

 捨てようと思えば、いつでも捨てれる存在。


 悲しませるくらいならと思って貰えない、取るに足らない存在だと、彼の口から言われたら生きていける自信がなかった。私の人生の彩りをくれた彼なしに、私はもう生きてはいけない。


 彼が戦争に赴けば、一月も、二月も。長引けば、一年帰ってこないことも、彼にとっては普通だ。その日々の中で、私は魔術のコントロールを取得し、むやみやたらに触れなくても魔術が発動しなくなった。


 でも、それを報告したい彼はいない。

 山賊に村が襲われた時から、ゆっくりと、着実に、世界は崩壊に向かっていっていた。

 滅びた国も沢山ある。

 落とした命はそれ以上にあるだろう。


 最初は優位だったこの国も、着実に攻められていた。

 途中、一時帰国した彼は使用人達を里に返した。子供の私には誰も教えてくれなかったけれど、この国が、彼が、確かに劣勢であるということを、私はちゃんと知っていた。


「ねぇ……」


 私も一緒に連れていって。

 絶対そんなことは出来ないってわかっている。そこまで私も子供ではない。

 喉元まで出かかった本音は、言えないままずっと胸の中でもやを作る。


「大丈夫。俺は負けない」


 よほど私が心配そうな顔をしていたからだろうか、彼はいつも通り目尻をさげて、私の頭を撫でた。


「お前を一人きりにさせるつもりはない。安心しろ」


 ねぇ、それは。どういう意味?

 私の保護者だから?


 それとも、

 それとも。


「お前のために、俺は戦う。だから、お前も生きろ」


 そんな台詞言わないで。勘違いしてしまうから。

 彼にとって私という存在が何なのか、確認したくなってしまうから。


「うん。待ってるね」


 臆病な私が言えたのは、たったこれだけ。

 真実を確かめることが怖くて、彼の広い背中をただ見送っただけだった。


 それから何度も日が昇っては沈み、彼と二人で駆け回った山にも戦の火の手が伸びてきた頃、邸をはじめ周りにはもう、人がまばらにしかいなかった。


 それは私の力の目覚めから、二年が経っていた。



 ◇ ◇ ◇



「お嬢ちゃん、命惜しければ逃げるんだ! 早く!!」


 最後まで町に残っていた人が、窓から外を見る私に叫ぶ。

 その叫びに、私は静かに首を振った。


 私が帰る家はここだけだ。少なくとも、私にとっては。

 彼と過ごした八年間が、私の全てだ。


 止まない爆音と土煙。金属のぶつかり合う音と怒声。

 それらが間近に聞こえても、私は邸を出なかった。出れなかった。私の全てだから。

 彼を待っていたかったから。


「会いたいよ……」


 力が欲しかった。

 彼の役に立てるような力が欲しくて、欲しくて、仕方がなかった。


 彼に褒められたかったから。

 大きくて傷だらけの手で、頭を撫でて欲しかった。


 でも、彼がいないのなら、どれだけ力があったって意味がない。


 じっと自分の手のひらを見つめていると、視界が歪む。

 ぽつりぽつりと手のひらに落ちたものが、涙だと分かるのに随分とかかった気がする。


「会いたい」


 爆音を壁越しに聞きながら、私は彼の部屋の隅で小さくなっていた。

 戦争なんて嫌い。

 魔術なんて嫌い。


 自分の膝に額を乗せて、流れ落ちるまま涙をこぼしていたその時、甲高い笛の音が聞こえた。顔を上げて窓を見上げる。灰色の煙に紛れて青空が見えた。彼が好きだと言った、生まれた町の空だ。


 馬の蹄の音と、何かを読み上げる男の声が聞こえる。


「西の騎士よ! 我等東の国王が、西の王の首を取った。直ちに武器を捨て降伏せよ!! これ以上の争いは無意味だ」


 それまで劣勢だと言われ続けた東国の呆気ない勝利を宣言する声だった。

 それと同時に東の軍と思われる男達の歓声が空に響いた。


「嘘……」


 嘘だ。

 そう思いながらすがる思いで窓枠を掴んで立ち上がる。

 東の国の勝利。それはすなわち彼の勝利だ。


「あぁ」


 彼が帰ってくる。

 その思いで私の心の中は一杯だった。


 よく知る愛馬に跨った彼を見つけて、

 それがゆっくりと傾くまでは。


「…………!!」


 歓声が一気に静まる。

 私は震える自分の足を叱咤して、駆けた。


 あぁ、早く。

 早く彼のところへ行かなくちゃ。

 なのに足は思った以上に鈍く重い。


 こんな時に早く走れなくて、足がある意味があるのか。

 彼を助けなくちゃいけないのに。

 今は、その力があるのに。


「————————テナー!」


 二年ぶりに呼ぶ名前は、乾いて響く。

 まさか邸に残っている者が居ると思っていなかったのか、彼の周りを囲んでいた騎士達がぎょっとしていた。つい先ほどまで争っていた相手国ですら、私の存在に驚いている。


 でも、私にとってそんなことはどうでもいい。


「テナー。テナー!! しっかりして」


「お前……テナーのとこのガキか」


 咄嗟に私の腕を掴んだのは、血まみれの騎士だった。彼がよく、将来が楽しみだと零していたうちの一人だろう。薄橙色の瞳が珍しいと、何度か彼から聞いたことがあった。その騎士の手を払いのけて、私は倒れたまま動かない彼に抱きつく。


 命の鼓動は、頑丈に付けられた胸当てでわからない。でも、まだ暖かい。

 ねっとりとした感触に驚いて自分の手を見ると、真っ赤な鮮血がついている。


「武神と言えど、人の子よ! 我が国は、まだ負けてはおらぬ!! この場所で我々の首を落とさなかったことを、後悔するがよい!」


 高笑いをしながら宣言するように言い放つ男は、西の国の騎士だった。ぼろぼろになったマントの色は隊長色を現している。


「嫌だ、嫌だテナー。せっかく会えたのに」


 激しくむせた彼は、大量の血を吐き、その後小刻みに呼吸を始める。


「やめろ。下手に動かすな!! おい、魔術師の援軍はどこにいる。救護班はどこだ!!」


 八年前の、雨の日が蘇る。

 誰もいない焼け野が原で、村一番の大木の根元で、ただ死を待っていただけの自分を。


 今、この身が朽ち果てても構わない。

 この命は、彼が拾った、彼のものだ。


 彼のものだ。


「私がする」


「何言って……だって」


 力がなかったのは、二年前の私だ。


「私が、テナーを守るの」


 無口だから、最初の頃は彼が私をどう思っているのか心配で仕方がなかった。何か粗相をしていないか、怒らせていないか、邪魔をしていないか、それだけが心配で、捨てないで欲しいとずっと思ってた。


 そんな私に、彼はいつも心配するなとだけ言った。


「心配するな。お前は俺が守る」


 その言葉がどれだけ嬉しかったか、彼は知っているだろうか。

 乱雑に頭を撫でる手がどれほど暖かかったか、彼は知っているだろうか。


 私がずっと、彼を慕っていることすら、気付いていないかもしれない。


 慕っているから、守られるだけの鳥籠の鳥は嫌だった。

 隣に並んでも、胸をはってもらいたかった。


 彼の姿勢の良い真っ直ぐな背中が、憧れだったから。

 小さく縮こまっている私の、憧れだったから。


 テナー。

 テナー。

 大好きなテナー。


 お願いだから、


「もう私をひとりぼっちにしないで」


 淡く光る彼の体に命の水を送り込む。それは徐々に彼の体に馴染み、至る所についた傷は、まるで逆再生のように閉じて行く。


 感嘆の声が上がる中、私は日が沈むまでずっと、彼を治療し続けた。


「…………アルト?」


 男の子みたいな名前を、恥ずかしいと思っていた時期もあった。

 でも、彼と一緒に住んでから、彼に名前を呼ばれることが好きになった。


 うっすらと瞳を開けたテナーの手をぎゅっと握る。


「おかえり、テナー」


 そう返した私に、テナーは微笑んだ後、気を失った。

 彼の微笑なんて、いつぶりに見たのだろう。



 ◇ ◇ ◇



「……え? 帰る?」

「はい。突然お邪魔した挙げ句、無断で魔術を使いご迷惑をおかけしました」


 不思議がる彼の愛弟子も、私の治癒能力を目の当たりにして引き抜こうとする魔術師の師長も交わして、私はまだ戦争の傷跡が痛々しい、彼の邸に戻って来た。


 これでいい。

 まだ、明日の日は登っていないのだから。



 ◇ ◇ ◇



 隅から隅まで見渡して、今までの思い出を辿る。

 すぐに終わらす筈だったのに、気がつけば地平線の向こうが明らんでいた。


 私の治癒能力の対価。

 それは日の出とともに始まると、今までの経験から知っている。


「言えば、何か違ってたかな」


 もしも願いが叶うなら、今日の彼に伝えたい。

 ————本当は出会った時から好きだった、って。


 瀕死の重症だった彼を治癒した私の対価は大きい。

 けれど、私に後悔はない。


「何も、違わなかっただろうな」


 彼は私を今でも小さな女の子としてしか、扱わない。

 時折香る、女物の香水の匂いが、どんな意味かも知っている。


 妹や子供に代わることはできても、きっと彼の隣に並ぶことはできなかった。

 いらない子だった私が見るには大きすぎる夢だとわかっている。

 だから、彼の役に立ててよかった。


 自己満足やおごりでも。

 望んでいないと彼に言われたとしても。


 焼けた木々の匂いが痛々しい森の中へと足を進める。

 その途中からもう、体中の血がはち切れんばかりに熱く膨れているのがわかった。


 日が、もうすぐ顔を出す。


 私の魔術の対価。

 それは他でもない私自身。


 相手の傷を、自分の傷に。

 彼の傷を、私の傷に。


「……っあ!!」


 ドクンと体に音が響いたかと思うと、ただ歩いているだけだった私のそこかしこから血が吹き出す。内臓のえぐれる音がして、鈍い痛みが背中を襲った。きっと彼は、背後から切られたのだろう。


 背中が寒いのではなく、骨が寒いと思った。


 彼に初めてもらった、薄桃色のワンピース。

 森に来る前に、着替えたのは私なりの決意だった。

 これさえあれば、私はどんな苦痛にも耐えられる。そんな気がして。


 山腹で跪いた私の足下には血の海ができる。

 むせかえる鉄錆のような匂いに、私は体を抱えて倒れるしかなかった。


 戦の終わった森はしんとしていて、濃い緑の匂いと焦げ落ちた木々の燻った匂いが鼻をかすめる。奥歯を噛み締めて耐えるしかない痛みに、頭はもう白いもやがかかっていた。


「————ルト! アルト!!」


 きっとそれは、私が望んだ幻聴。

 なんて幸せで、都合のいい幻聴だと思った。


「お前は俺が必ず守る。だから、死ぬな」


 最後の記憶はそれだけだった。



 ◇ ◇ ◇



 朧げにたゆたう意識は、幸せなようで悲しい。

 真っ白な空間に足を投げ出して、真っ白な空間をただ見つめていた。


 彼のいない、真っ白な世界。

 あぁ、死んだのだ、と思いながら私は涙した。


 目を瞑る度にこぼれる涙。

 本当は、どれが手で、どこが目で、どちらが上か下かもわからないのに、涙がこぼれて作った跡は、確かに湾曲していた。頬を滑り落ちる感触がある。


 ずっとそうしていたかもしれないし、そうでもなかったかもしれない。

 突然壊れたラジオのように、耳の中に雑音が響く。

 でも、その雑音にひどく安心した。その時に、私は不安だったのだと気付いた。


 彼のいない、私だけの真っ白な世界。


「……きろと言っただろう————————ト」


 何か聞こえるけれど、雑音がひどくて聞き取れられない。


「お前がいない世界など、守る価値すら俺にはないんだ」


 それが聞こえて、その声の主が誰だかわかった瞬間、私の体は凄い勢いで落ちた。

 どこに落ちたかはわからないけれど、真っ白だった空間は真っ黒に変わる。ただたゆたっていた体は、徐々に鈍い痛みを感じていた。


 痛い。

 それは、死んだはずの私には感じることができない感覚。


「…………ナー。テ……ナー」


 掠れた声は自分のものではないと思ってしまうほど、しゃがれている。

 視界は相変わらず真っ暗なのに、彼の名を呼べる嬉しさで、私の目から涙がこぼれた。


 もしも願いが叶うなら、


「好き」


 たった二文字。

 それだけを後生大事に温めていた。

 口にすれば、こんなにも簡単なことだったのかと呆気に取られるくらい。


「ずっと……好きだった」

「知っている、馬鹿が。早く治せ」


 彼が泣いている。

 声は確かに気丈だったのに、何故だかそう思った。


 左の手に感じる暖かさに思わず笑みをこぼしながら、私はまた暗い黒い空間に身を任せてたゆたう。

 幸せな夢を見たと、喜びながら。


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