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六十七話 惑イ深

「……で、なんでこんなことになったのかしら」


 深紅のドレスに深い蒼色の首飾りをつけ、念入りに化粧を施された雷華は、鏡に映る別人にしか見えない自分の姿を見て、何度目になるか分からない溜息をこぼした。




 リーシェレイグの滞在している迎賓館から戻ったルークは、すぐに黒犬の姿に戻った。どうやら人間の姿でいられる限界が来たらしかった。

 彼がリーシェレイグに言われたことを聞いた雷華は、それは出来ないと反対した。最後までは無理でも、せめて宰相がどうなるかまでを知ってからこの国を離れたかった。

 ルークやロウジュは、後からでも事の顛末を知ることが出来る。だが、雷華にその機会があるとは限らない。いつ旅が終わって元の世界に戻るか分からないのだ。気掛かりを残したまま、この世界を去ることはしたくなかった。

 そう力説すると「ライカのしたいようにすればいい」と少し寂しそうな顔をしてルークが言った。危険なことはさせられない、と付け加えられてしまったが。

 ロウジュのことで頭がいっぱいだった雷華が、フィエマ商会のことを思い出したのは昼を過ぎてからだった。無断欠勤をしてしまったと顔面蒼白でクレイの許に行けば、とっくに休む旨を伝えてあると言われ、彼の手際の良さに舌を巻いた。

 それから、ルークと話したり侍女の手伝いをしたりして気を紛らわせながら日中を過ごしたが、時間が経つにつれて不安で胸が押しつぶされそうになっていった。ロウジュが帰ってこない。夜になりベッドに入っても、まんじりとも出来なかった。朝日が昇るころに少しだけうとうとしたが、すぐに眼が覚めてしまい、朝三の鐘が鳴った時点で眠ることを諦めた。

 次の日は何も手につかなかった。クレイに外の空気でも吸ってこいと言われ、ルークと共に迎賓館の周囲を散策したりもしたが、綺麗な鳥も可憐な蝶も香しい花も気持ちの良い風も、雷華の不安を和らげてはくれなかった。

 ロウジュが帰ってきたのは夜遅くだった。今日も眠れない夜になりそうだと、バルーレッドが用意してくれた精神を落ち着かせる作用があるというお茶をクレイの私室で飲んでいると、部屋の窓が開いて音もなくロウジュが滑りこんできた。


「ロウジュ!」


 長椅子から立ち上って駆け寄る。夢ではないことを確かめようと、ロウジュに触れようとしたところで雷華の手が止まった。顔が強張る。彼の外套は血に染まっていた。


「お前……怪我してるのか」


「いや、これは俺の血ではない」


 眉を顰めたクレイにロウジュは首を振って外套を外す。怪我をしているわけではないと分かり、雷華の全身から力が抜けていった。寝不足だったこともあり、ふらりと身体がよろめく。抱きとめてくれたのはロウジュだった。


「ライカ、大丈夫?」


「ええ、ごめんなさい。安心したら力が抜けちゃって。ロウジュこそ大丈夫なの?」


「俺は平気。ちょっと眠いだけ」


 そう言って眼を擦るロウジュは、とても今まで命懸けで城に侵入していたとは思えなくて。こちらがどれだけ心配したか分かっていないのかと、安堵とともに怒りが込み上げてきたりもしたが、すぐに頭を振って打ち消した。今、彼に向ける言葉は一つしかないではないか。


「そう……良かった。お帰りなさい、ロウジュ」


「ただいま、ライカ」


 思わず顔が赤くなるほどの、とても綺麗な笑顔だった。

 それから雷華たちは、ロウジュが持ち帰った証拠――主に手紙だった――と彼が見てきたことについて夜を徹して話し合った。手紙はすぐに見つけたらしい。知らない者が読めばなんの変哲もない文章だが、知っている者が読めば囚人を化け物に殺させる日程が分かるようになっていた。

 証拠としては十分だったが、万が一自分が書いたものではないと白を切られた場合のことも考えて、ロウジュは宰相ゼヤフを尾行することにしたのだという。帰りが遅くなったのはそのためだった。何度か見つかりそうになったが、危険を冒した甲斐あってゼヤフの私室に地下に通じる隠し通路があることを発見した。


「そいつが寝たのを見計らって地下に下りてみると、様々なものが置いてあった。そのうちの一つに日記のようなものがあったのだが、そこにそいつが抱いている野望が克明に書かれていた。どうやらゼヤフとかいう男は、イシュアヌを手中に収めるつもりのようだ。それどころかヴォラヒューム大陸全土を支配したいらしい」


 度し難い阿呆な奴だと、ロウジュは冷笑した。全くその通りだと思った。人を、国を、世界をその手に収めることに、どれほどの意味があるというのか。雷華には分からなかったし、分かりたいとも思わなかった。


「隠し部屋を出て戻ろうと思ったが、ライカが言っていた化け物のことが気になったから、山に入ってみた。前に血の付いた袋を持った兵士と会った場所、あの先にいるはずだと思ったからな」


 間違っていなかった。吐き捨てるように言うロウジュの顔は、なんの感情も浮かんでいなかった。

 道なき道の先にあったのは洞窟。そして中にいたのは焔蛇ほむらへび腐猿ふえんだった。見張りの兵士たちが会話しているのを盗み聞くと、腐猿は焔蛇の唾液の臭いに反応するらしかった。腐猿は生きている人間は襲わない。だから囚人の服に焔蛇の唾液を付けるのだという。次にどちらが焔蛇から唾液を採取するか、その話題で盛り上がっていた兵士はロウジュが洞窟に入っても気付く様子はなかった。

 洞窟に充満する血と腐臭に眉を顰めながら奥に進むと、十数匹の焔蛇と巨大な猿の化け物、腐猿が三匹、別々の檻に入れられていた。ロウジュは一瞬、檻を開放して兵士たちを襲わせようかとも考えたが、雷華が喜ばないだろうと思い止めた。最初に腐猿を殺してから焔蛇を殺す。全てを終えるのに時間は掛からなかった。

 

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