三十六話 ノ
「おっはよー、ライカちゃん! 山登り日和だねえ」
リムダエイムの鐘が朝三の刻を知らせるなか、必要な荷物を持って宿の外に出ると、すでにディーが待っており、雷華に向かって手を振ってきた。
冷たく凍りついた空気を纏っていた名残は微塵もなく、あれは気のせいだったのかとすら思えてくる。そうでないことは分かっているのだが。
「おはようございます、ディーさん。今日はよろしくお願いします」
手は振り返さずに頭を下げる。ロウジュには馬を取りに行ってもらっていた。
「まかせてちょーだい。あ、そうだ。昨日も言おうと思ってたんだけど、俺に敬語使う必要ないからね」
「え、でもディーさん結構年上ですよね」
「そんなことないわよ、俺様こう見えてまだ二十……ってライカちゃん! そんな冷たい眼で睨まないで! ちょっとした冗談なのに。ああっ、犬っころまで!」
がっくり肩を落とすディーの姿は、確かに敬語が必要な相手には見えない。落ち着きがないというか、動作が大げさというか。しかし、それが不自然ではないというのは、ある意味長所なのかもしれないと、溜息を吐きながら雷華は思った。
「分かりました、じゃなくて分かったわ。これでいい?」
「うん!」
ディーの顔がぱあっと明るくなる。
「子供じゃないんだから」
「ライカ、リカンとモクラン連れてきた……どうかした?」
二頭の馬を連れて戻ってきたロウジュが、腰に手を当てて呆れている雷華を見て、不思議そうに訊いた。宿の前を通り過ぎる少女数人が黄色い声を上げたが、彼は彼女たちを一顧だにしなかった。
「何でもないわ。ありがとう、ロウジュ。さ、ルーク入って」
ぷるぷると首を振って木蘭の手綱を受け取り、ぽんと頭に触れて、ルークを皮袋に入るよう促す。木蘭に跨ると、腰の木刀が落ちないかを確かめた。あまり必要になるとは思えないが、念のためと持ってきていた。
「さて、準備はいいかな? まずは下層北区画に行くわよ」
手にしていた灰色の外套を纏い、黒翔馬に跨ったディーは、そう言って馬の腹を軽く蹴った。
『星狩り』のある下層南東区画から下層北区画に移動する。左手に見えるのは中・上層区画。空を見上げるように視線を上げれば、今日も城は陽の光を反射して輝いていた。
行き交う人々は、皆忙しそうで、その表情は様々だ。にこやかな笑みを浮かべている者もいれば、顔から湯気を出しながら怒っている者もいる。若い男性が鼻歌を歌いながら細長い木材を肩に担いで軽やかに歩いていたり、老人が欠伸をしながら道の端で猫に餌をあげていたりもしていた。
城が左手ではなく後ろに見えるようになってしばらくしたころ、リムダ山へと続く門の前に着いた。門は閉じており、前には兵士が五人ほど立っている。門の幅はこの王都に入ってきたときにくぐった門の半分もない。それだけ通る人の数が違うということだ。許可制ということからしても、そのことが窺える。
「おっはよー。山に入りたいんだけど、いいよね? はい、これ許可証」
ディーは兵士の一人に近づくと、相手が何か言う前に懐から取り出した深緑色の細長い筒を、馬上から突きつけた。
「し、しばし待て。確認する」
たじろぎながら兵士は筒を受け取り、帽子を被っている兵士のところに走っていった。帽子を被っているのは五人の兵士の中で一人のみ。おそらく責任者なのだろう。
雷華は待っている間に山の様子を観察することにした。王都に入る前から見えていたので分かってはいたが、やはり緑が多い。鳥や動物の鳴き声も聞こえてくる、自然豊かな山。
だが――どこかおかしい。何故か嫌な感じがする。背筋がぞくりと震えた。
「どうした、ライカ。顔が強張っているぞ」
雷華の様子がおかしいことに気づいたルークが、振り返って小さな声で訊いてきた。
「何だかこの山、変な感じがしない?」
小さな声で訊き返す。ディーや兵士は少し離れた場所におり、聞かれることはないとは思うが念のためだ。
「俺は何とも思わないが……」
「そう」
首を傾げるルークの頭を撫でながら、もう一度山を見上げる。天気はいいのに曇っている。そんな矛盾した感じだった。山の緑が濃すぎるから暗いと思ってしまうのだろうか。嫌な感じの正体が知りたくて雷華は山を凝視した。
「ライカ、かけなくていいの?」
「え? ああ、そうか。そうね、私としたことがうっかりしてたわ」
ぽんと手を叩いて頷く。ロウジュの言うとおり眼鏡をかければ何か分かるかもしれない。もっとも、彼はヴィブゾール山で石碑を見つけたときのように、永劫の園があるかどうか調べないのかといった意味で言ったのだが。
さっそく眼鏡をかけようと懐に手を入れる。と、そのとき、筒を受け取った兵士が帽子を被った兵士を連れて戻って来た。どうやら確認が終わったようだ。見るのは山に入ってからにしようと、雷華は懐に入れていた手を外に出した。
「ディー殿だったか。確かこの前も山に入られたと思ったが、本日は何用であろうか?」
「詳しいことは言えないけど、公爵様から頼まれた大事な用ってとこかな。あ、後ろの二人は手伝いね」
帽子の兵士の鋭い眼差しに、ディーは全く動じることなく、すらすらと口から出まかせを言ってのけた。さも当然とばかりの態度で、くいっと雷華たちを指差す。
「犬もいるようだが」
「その犬っころが重要なんだよね。公爵様がどうしても連れてけってさ。疑うんなら公爵様に確認してもいいわよ?」
首が吹っ飛ぶかもしれないけどねー、とにこやかに兵士を脅すディーの後ろで、ルークが「犬っころと呼ぶな!」と怒り出す。が、雷華以外の人間にはただ吼えているようにしか聞こえないため、兵士がぎろりと彼を睨む。雷華が愛想笑いを浮かべて頭を下げると、兵士は顔を赤らめてさっと眼を逸らした。
一方、ディーに脅された帽子の兵士も――こちらは赤色ではなく青色に、顔色を変えていた。貴族の不興を買えば、ディーの言った脅しが現実になることを、十二分に理解している表情だった。
「い、いやその必要はない。通行を許可する。気をつけて行かれよ」
その言葉で閉ざされていた門がゆっくりと開かれる。門の先は橋、そしてまた門だった。造りは王都の入口と同じらしい。兵士の一人に先導されて橋を渡る。兵士が開門を告げると、今度は外側から門が開かれた。
「今日は凪猫の鳴き声がよく聞こえる。襲ってくることはないと思うが、注意した方がいい」
「親切にどーも。んじゃお二人さん、行きますかね」
兵士にひらひらと手を振ってディーは雷華とロウジュを促した。彼の後を追ってリムダ山に足を踏み入れる。といっても、木蘭に乗っているので実際に足で踏んでいるわけではないが。ヴィブゾール山のように全く人の手が入ってないわけではなく、ある程度整備されていて、馬の扱いに慣れない雷華でも問題なく進むことが出来た。




