三十二話 カ
はぁ、と溜息が口から零れる。男と同じで無駄足だったかと思うと気持ちも暗くなるというものだ。腕を組んで唸っていると、服の裾をルークが前足で引っ張っぱったので、屈んで頭を撫でる。ふさふさの手触りに少し心が和む。
「一応その男の過去を見てみたらどうだ? 意識がなくても問題はないのだろう?」
「そうねえ、万が一ってこともあるし、やってみて損はないわよね。問題は――」
屈んだまま灰色の髪の男を見上げる。男は、ん? と首を傾げて雷華を見返してきた。
「あの、お願いがあるんですけど、少しの間その人をお借りできませんか?」
立ち上がってカダリを指差す。不審がられるかもしれないが、この男と二度と会わなければ問題ないだろう。
「んん? ねえ、いま犬と会話してなかった?」
「してません。全く、ただの、完全な、独り言です」
必要以上に否定する雷華を、心配そうにルークが見上げる。
「そうかなあ? なぁんか話してるように見えたんだけど。まあいいか。それで、こいつを貸してほしいって? どうするつもり? 殴っても起きないと思うけど」
「なんで暴力前提なんですか。ちょっと身体に訊くだけです」
「それってつまり殴るってことじゃないの」
「違います! えっと、何と交換ならいいですか? といってもお金くらいしかないですが」
男と話すのが面倒になってきた雷華は取引を持ち掛ける。人間を金銭でやり取りするのは人買いのようで抵抗があるが、他に渡せるものがないため仕方ない。
「こいつは金を払うに値する男じゃないと思うけど……ふうん。そうね、じゃあこいつを渡す代わりに、後ろの殺気立ってる兄さん、ちょっと相手してくれる?」
「相手、ってつまり戦うってことですか?」
男の視線を追って後ろを振り返り、戦闘に入る一歩手前のような目つきをしているロウジュを見る。
「当然でしょ。他にどんな意味があるって――はっ! いやいやいやいや、俺ってばそっちの趣味はないから!」
「誰もそんなこと訊いてません! はぁ、なんかすごく疲れる……。ロウジュ、どう? やってくれる?」
眉間を人差し指で押さえながら訊ねると、すぐにロウジュは頷いた。
「うん、殺る」
「なんか今、殺すって聞こえたような気がしたけど、手合せよ、手合せ。分かってるわよね?」
「大丈夫。任せて」
外套を外して雷華に渡し、もう一度こくりと頷くロウジュ。本当に大丈夫なのかと不安になるほど綺麗な笑顔だ。
「へえ、相当腕に自信があるみたいね。こりゃあ楽しみだわ」
灰色の髪の男は肩に担いでいたカダリをぽいと地面に落とすと、うきうきした様子で剣を取ってくると言って柵に繋がれた馬へと向かっていった。
「あの男はおそらく相当の手練れだな」
「そうね、カダリさんを一撃で気絶させてたし。何者なのかしら」
ロウジュが怪我をするようなことにならなければよいが。
戻ってきた男は、見るからに重そうな極太の剣を手にしていた。雷華なら持つだけで一苦労しそうだ。
「お待たせ、始めましょうか。と、その前に、自己紹介しとくわね。俺はディー。しがない賞金稼ぎよ」
「雷華といいます。ただの旅人です。今からディーさんの相手をするのがロウジュ、黒犬はルークです」
「ライカちゃん、可愛い名前ね。野郎の名前に興味はないから。まあ、俺より強い奴なら別だけど」
「お前に名を覚えてもらう必要などない。さっさと始めるぞ」
「おおこわ。それじゃまあ、お手柔らかにお願いするわね、っと!」
鞘から剣を抜きざまにディーはロウジュに斬りかかった。ロウジュは後ろに跳んで剣先をかわし、短剣を放つ。それをディーは極太の剣を振るって弾いた。軌道を変えた短剣は雷華の髪をかすめて彼方へと飛んでいく。
「ひぁっ! 私を殺す気!?」
「ご、ごめん、だって兄さんが」
「お前が悪い」
「馬鹿どもが! 俺たちから離れろ!」
「おわっ、犬っころが急に吼えだした」
「ルークが馬鹿って言ったの初めて聞いたかも……じゃなくて、二人とももっとあっちに行って下さい!」
眉を吊り上げて丘を下った先の崖付近を指差すと、ロウジュとディーは素直に頷いて駆け出した。美しい黄金色の草はらが見る間に踏み荒らされていく。
「景観を大事にしようとか考えたことないんでしょうね……はぁ」
「どうかしたか、ライカ」
額に手を当てて溜息を吐く雷華を、ルークが首を傾げて見上げる。
「ううん、何でもないわ。さっさと済ませましょう」
雷華は首を振って地面に転がっているカダリの傍に屈んだ。




