一話 痛ム頭
がたがた がたがた がたがたんっ
月明りさえない真っ暗な夜、一台の荷馬車が暗い森の中を疾走している。地上に顔を出している木の根や石ころの上を通るたび、荷台が激しく上下に揺れる。しかし、御者台に座っている男は速度を落とすことなく、必死の形相で馬を走らせ続けていた。
がたがたっがたんっ
「いっったいっ! ちょっと、もう少しゆっくり走りなさいよ!」
荷台には一人の人間が、手と足を縛られた状態で転がされていた。馬車が大きく揺れるたびに、身体があちこちにぶつかっている。今までは声を出さずに堪えていたようなのだが、頭をぶつけたことで限界が来たのか、ついに御者台の男に向かって叫んだ。
「うるせえ! 静かにしてろっ」
男が前を睨んだまま叫び返してくる。
(後で覚えてなさい!)
荷台に転がされた人間――紫悠雷華は、何故自分がこんな目に遭う羽目になったのか、ずきずきと痛む頭で思い返した。
遡ること十日前、王立書庫の一室、知識の泉に再び訪れた雷華は、三百年以上前にいた《黒い神の宿命を持つ者》が書いたと思われる本、『黎明と黄昏』をもう一度手にとった。傍では今現在の《黒い神の宿命を持つ者》であるルークが、真剣な面持ちで雷華を見つめていた。
眼鏡をかけて本を開きページをめくっていく。何も見えないなと思いながら白紙のページまで辿り着くと、そこに黒い文字が浮かび上がった。
背徳の大地 忘れられた城
慈愛の緑 永劫の園
声に出して読み終わると、強烈な光が部屋を包んだ。これで三度目になる。今度は何が起きるのかと思いながら眼を閉じていると、ルークが慌てた声で眼を開けるなと言ってきたので、これは最初のときと同じ現象が起きたのだと雷華は理解した。少し離れた場所に立っていたリオンが、「早く犬の姿に戻りなさい!」と声を荒げていた。
「もういいぞ」
ルークの声で雷華は閉じていた眼を開けた。リオンの前でルークに蹴りを入れることにならなくてよかったと、ほっと溜息をついた。仮にもルークはこの国の王子なのだ。いやしかし、もしかするとリオンは雷華がルークに一撃をくらわせていたとしても、咎めたりしなかったのかもしれないが。それを確かめる勇気はなかった。
「忘れられた城はもしかするとイシュアヌにあるのではないでしょうか。マーレ=ボルジエには放置された城などありませんし。確か五十年ほど前に一つの町が滅んだと聞いたことがあります。詳しい場所までは分からないのですが」
リオンの言葉により、雷華たちは隣国イシュアヌに向かうことになった。準備をするために宿に戻る。宿に着くとアフェダリアに帰っていた、ロウジュが待っていた。
「ロウジュ、久しぶり」
「次の目的地、決まった?」
「ええ、イシュアヌに行くことになったわ」
「俺も行く」
「来なくていい!」
吠えるルークをなだめながら、ロウジュがいなかった間に起きた出来事を簡単に話した。そして自分の正体も。黙っててごめんなさいと謝ると、雷華の話に驚いていた彼は首を振って謝る必要はないと言った。そして、俺も手伝うと言ってくれた。ルークは猛反対したが、ロウジュが一緒に来てくれれば心強いのは確かなので、本当にいいのかと一度だけ訊ねてから申し出を受け入れた。
ルークによると、イシュアヌとの国境までは馬でおよそ六日かかるとのことだったので、雷華は馬を一頭買った。乗合馬車でも国境まで行けるらしかったが、その先の移動手段が不確かであったし、いつまでもロウジュの馬に乗せてもらうのも悪いと思ったからだ。それにルークが人間の姿に戻ったとき、馬があった方がいいと思ったのもある。ゾール村のときのように、都合よく馬を貸してくれる人間と出会えるとは限らないのだ。侯爵より頂戴した高額の報酬のおかげで、良い馬を手に入れることができた。
ルークとロウジュに手ほどきを受け、何とか少し乗りこなせるようになったので、国境にある砦に向けて出発した。八日前のことだった。
「この馬なんて名前にしようかしら。そういえばロウジュの馬は何ていうの?」
「こいつか? 特に名前はない」
「え、そうなの? じゃあよかったら私が付けてもいい?」
「ああ」
「うーんとねえ、何がいいかな……そうだ、璃寛なんてどうかしら」
「リカン?」
「色の名前なんだけどね」
「面白い響きだな。でも気に入った、今日からこいつはリカンだ」
「璃寛も気に入ってくれればいいんだけど。さて、この馬は……木蘭にしようかな」
「それも色の名前か?」
「そうよ。これからよろしくね、木蘭」
そんな話をしながら順調に国境まで辿り着いた。途中二度ほどルークが人間の姿になり、二人乗りをしたりもした。
ルークとロウジュの仲は相変わらず良好とは程遠いものだったが、もうその状態が普通になりつつあるなと、他人事のように雷華は思った。原因が自分にもあることは分かっていたが、口に出すことは躊躇われた。ルークにはもう逃げないと言ったものの、己の気持ちがどこを向いているのか、自分でも分からなかったからだ。感情の天秤は都度傾きを変え、まだ止まる気配はなかった。