十八話 煩イ胸
雷華たちがシュローグランの町にずぶ濡れで辿り着き、眼についた宿に駆けこんで部屋を取り、濡れた外套や服を干して風呂に入り、生き返った心地になっても、まだ雨は降り続けていた。
「よく降るわねえ、こんなに降るんだったらもっと緑豊かな土地でもよさそうなんだけど」
髪を拭きながら部屋の窓にあたる雨粒を眺める。濡れるのは好きではないが、ざあぁぁという雨音は心地よかった。それに、分かってはいたが、風呂に入って自分の姿を見て、全身に痣が出来ていたショックを忘れさせてくれる気がした。
「半年ぶりの雨らしい。廊下で宿の客が話しているのを聞いた」
ベッドに腰掛け、同じように髪を拭いているルークが言った。隣のベッドではロウジュが髪から雫をぽたりぽたりと垂らしている。雷華は小さく溜息をついて窓から離れた。
何故、ベッドが二つでロウジュが同じ部屋にいるのか。それは部屋がここしか空いていなかったからだ。突然の雨で宿を求める客が殺到したらしい。お客さんツイてるね、などと宿の主人に言われたが、雷華とルークはとても素直に喜べなかった。ロウジュだけはどことなく嬉しそうにしているように見えなくもなかったが。
「そうなの? だったらこの町の人は嬉しいでしょうね。私としては明日には上がってほしいけど……ロウジュ、髪を拭いたら? 風邪ひくわよ」
近づいて使っていた布を差し出せば、ロウジュはふるふると首を振った。雷華の手に雫が飛んでくる。
「いい、そのうち乾くから。ライカが拭いてくれるなら別だけど」
上目遣いでロウジュに見られ雷華はどきりとした。濡れた髪と紫水晶の瞳が何とも艶かしい。
(な、なんなのこの色っぽさは)
「そんな奴、放っておけ。そうだな、早く止むといいんだが」
「そ、そうよ、ねっ!?」
動揺を悟られまいとそそくさとロウジュから離れたものの、今度は髪を拭き終わったルークの漆黒の瞳に見つめられ、また心臓が大きく脈打つ。これ以上ここにいては心臓がもたないと、雷華はしばらく避難することを決意した。
「わ、私ちょっと食堂でお茶もらってくる!」
「俺も」
「一人で大丈夫だから、二人はゆっくりしてて! あ、喧嘩はしないでよ。宿を追い出されたくはないから。っていうか、ルークは犬に戻らなくていいの? リーレグランで限界までその姿でいたから疲れてるでしょ。早く戻ったほうがいいわよ。じゃ、ちょっと行ってくるから」
ロウジュの言葉を遮って早口で捲し立てると、何か言われる前に雷華は部屋を出た。動悸の激しい胸を押さえながら、階段を下りて一階にある食堂に向かう。頭の中は黒髪の二人のことでいっぱいだった。
(あー、もう、何であの二人は男のくせに色気たっぷりなの!? しかも無意識なんだから性質が悪いのなんのって。落ち着け私の心臓。このままじゃ、とても夜眠れないわ)
「すいません、温かいお茶をいただけますか?」
深呼吸をして気持ちを落ち着けてから、食堂で机を拭いていた恰幅の良い女性に話しかける。食堂に客はいなかった。風呂から上がったときに夕一の鐘が鳴っていたので、今の時刻はおそらく午後四時半前後。昼食の時間ではないし夕食の時間には早過ぎる。客がいないのも頷ける時間帯だ。
「はいはい、いくつ欲しいんだい?」
雷華の声に女性が机から顔を上げて近づいてくる。笑顔が素敵な四十代後半くらいの女性だ。
「みっ、あ、いえ、二つ下さい」
三つと言いかけて、慌てて訂正する。犬に茶は不自然だ。ルークには自分の分を分けてあげればいい。
「はいよ、ちょっと待っとくれね。今、お湯沸かすから」
にこにこしながら頷いて、おばさんは食堂の奥にある厨房へと消えていった。しばらくかかりそうだと、雷華は手近の椅子を引いて腰を下ろす。背もたれに身体を預け、深く溜息をついた。
(逃げないとは言ったものの、二人のどちらかなんて選べないわよ……)
ルークもロウジュも自分にはもったいないくらい魅力的な人物だ。他の人を好きになってくれればいいのにと思ったが、実際そうなれば寂しい気もして、なんて自分は我がままなんだと雷華は机に突っ伏した。
(この旅が終わるまでに私は決められるのかな)
ルークと歩む道、ロウジュと歩む道、そして、元の世界に帰る道。どの道を選んでも後悔しない方法などあるのだろうか。
(無理……よね。きっと後悔する。はぁ、何かを選択するってこんなに難しいことだったかしら)
眼を閉じて子供のように足をぶらぶらさせる。聞こえてくるのは雨の音と食器がぶつかり合う音。それに馬車が石畳の上を走る音。
(何だか落ち着くわ。いい匂いもするし、そろそろお茶が出来る……あぁ、部屋に戻らなきゃ)
もう少しここにいたいような気がしないでもない。そんなことを思いながら雷華は眼を開けて厨房を見た。中には茶を用意してくれているおばさん以外にもう一人年配の男性がいて、何やら忙しなく動いている。
「はいよ、お待たせ。熱いから気をつけてね」
湯気がもくもくと立ちのぼるカップを二つ、盆に載せておばさんが厨房から出てきた。椅子から立ち上り礼を言って受け取る。部屋に戻ろうと階段に向かったのだが、一段目に足をかけたところで歩みを止め、再び机拭きを始めていたおばさんに声をかけた。
「あの――」




