九話 狂イ啼
レヴァイアに感じていた恐怖。それは、どこまでもひたすらに昏く、底知れず、いっそ純粋と言っていいほどの、狂気。彼の心の中にはずっと闇よりも黒いものが渦巻いていたのだ。感情を超越するほどの狂気、彼の言葉を聞きお互いの息がかかるほどの距離で相対して、それが初めてはっきりと伝わってきた。
「子供が親を殺そうが、逆に親に殺されようが、どちらでも構わない。子供を攫うのは選択肢があることを教えるためだ。どの道を選ぶかは本人次第……だがほとんどの子供が親を殺すことを選んだ。そして、殺意は伝染する。これがどういうことか分かるか」
「……まさか」
一つのことに思い至り雷華は自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。
親を殺すということは当主が死ぬということ。言い換えれば後継者争いが起きる可能性があるということだ。貴族の仕組みなどよく知らないが、元の世界で大財閥の跡取り候補たちが次期当主の座を巡って壮絶な争いを繰り広げた、などという話を聞いたことがある。それと同じなのではないか。殺意は伝染する、つまり血で血を洗うような争いが貴族の間で起きると、彼は言っているのだ。
「察しがついたようだな。だがそれだけではない。敵対関係にある貴族どもにも狙われることになる。奴らは己以外の貴族を蹴落とすことに積極的だからな。戦が起きるかもしれん」
「そんなこと……とても人間の考えることとは思えない」
「当然だ、俺たちは人間でいることをやめた。この狼を身体に刻みつけたその時からな」
そう言ってレヴァイアが片方の手で服をたくし上げると、彼の左胸には手のひらほどの大きさの狼がいた。目の潰れた、雷華が啼いていると思った狼が。
(ああ、やはり)
「啼いている」
「なん、だと」
レヴァイアの表情が強張り眼が見開かれる。その顔を見て雷華は自分の感じたことが間違いではなかったと確信した。
「その狼が啼いている言ったのよ」
「これのどこが啼いているというのだ。牙をむき出しにして世界の全てに吼えている、これのどこが!」
これまでの無表情、無感情が嘘のようだ。服から手を放すと雷華の顔のすぐ横を勢いよく叩いた。だんっ、という大きな音に身体がびくっとなるが、ここで引いては駄目だと強く言い返した。
「啼いているじゃない! まるで絶望の淵で助けを希うかのように啼き叫んでいるわ。そこから、貴方の慟哭が聞こえてくる。本当は啼きたいのでしょう!? 涙が涸れて、声が出なくなるまで啼いて啼いて、救いの手を求めているのではないの!?」
「うるさい! 知ったふうな口を聞くな!」
レヴァイアはまだ喋っている雷華の頭を鷲掴みにすると力任せに地面に叩きつけた。
「っ、かはっ!」
受け身が取れず一瞬呼吸が止まる。ぶつけた頭がじんじん痛む。それでも、立ち上がろうと床に手をついたが、起き上がる前にレヴァイアに腕を掴まれ仰向けに倒された。レヴァイアは雷華に跨ると右手を彼女の首にかける。その手の下には肌身離さず身につけている、紅玉石のチョーカーがあった。
「俺が啼いている? 救いを求める? はっ! 救いが必要なのはお前の方ではないか。俺がこの手に力を籠めればお前の命など簡単に奪えるのだぞ」
言葉と同時にレヴァイアの手に少し力が入る。だがまだ呼吸に支障をきたすほどではない。
「私にはやらなくてはならないことがある。だからまだ死ねない。だけど、貴方に救いを請うたりはしない。哀しみと憎しみと怨嗟と復讐と、その他の負の感情全てでもってその身に狂気を宿し、現実を受け止めきれなかった貴方には、絶対に!」
強くそう言い放つと、雷華は右腕を持ちあげてレヴァイアの左胸を指差した。
「貴方はこの盲目の狼と同じ。眼は開いているけど何も見えていない。子供を攫って親を殺させても、貴族同士の争いを起こさせても、何も解決などしない。たとえ“ライカ”を見つけて殺したとしても、虚しさが増すだけで、けして心は満たされない。現実を見なさい! 何をしてもフェリシアさんは、貴方の宝は還って来ないのよ!」
「お前に何が分かる!」
レヴァイアの右手にもの凄い力が籠められ息ができなくなる。苦しみから逃れるため、両手で彼の手を外そうともがく。が、レヴァイアに左手で右手を掴まれ、床に押さえつけられた。身を捩ろうにも上に乗られていて動けない。焦れば焦るほど息が苦しくなっていく。雷華は懸命に左手だけでレヴァイアの手を外そうと試みた。
「ぐっ……ううっ」
「フェリシアは俺の生きがいだったのだ! それを奪った奴らを憎むのは当然だろう! フェリシアが還ってこない? そんなことは分かっている!」
雷華の首を絞めながらレヴァイアが叫ぶ。その顔は苦しみに満ちていた。もはや彼自身もどうすればいいのか分からなくなっているのだろう。狂気が、強過ぎる負の情念が、彼をつき動かしている、そんな感じだった。
(どう、すれば……っ)
レヴァイアの行動は本心ではないはずなのだ。しかしこのままでは自分の命が危ない。雷華はこの状況を打破できる方法を必死で考えた。そして苦しさが限界に近くなったとき、一筋の光が見えた。上手くいくかどうか分からなかったが、迷っている時間はない。雷華は残り少ない体力全てを使い意識を集中させた。
未だ自分の意志で使ったことのない力――触れている人の心の声を読み取る力を使うために。




