第二話
力いっぱいペダルを踏んでも、ほんの少ししか坂を上れない。自転車の歯車があと何回転すれば、博物館に到着できるのだろう。平らな道を走っているときならば爽快感も感じるだろうが、山道の今では全くそれも感じ得ない。本来、山の中腹にある自然博物館まではバスが走っており、しかも非常に安い運賃で乗車することができる。それでも私たちがなぜ、この午後の日差しの中で苦行のような行動をしているのかと言えば、学校が自転車通学を義務付けているからだった。一昔前の中学は、家が遠い生徒は自転車通学を許可され、近い生徒は徒歩で通うというのが普通だったらしい。それが今では自転車で通うのが「義務」になってしまった。エネルギー革命が始まった頃に、バスの値段が随分と安くなり、結果近い距離でもバス通学をする生徒が急増した。運動不足を憂いた当時の校長がこれを問題視し、今の自転車義務制度が始まったそうである。だから私たちは、自転車を学校に置いておく訳にはいかなかったのだ。
「ちょっと、香澄ー。この位でヘバってどうするのー!」
前を進む友達から声が降りてくる。学校から自然博物館までは、平地で二十分、この上り坂で十分走る必要がある。この十分が曲者だった。太ももがピリピリし、全体重をかけてペダルを踏み込んでも、踏み込みきれない。
「ごめん霧ちゃん……。先行ってて……」
「まだ若いんだから、そんなんじゃダメ!」
中二の私たちなのに、そんな言い方をする霧ちゃん。彼女の台詞はどこかおかしく、それでいて温かい。
霧ちゃんと初めて会ったのは中学校の入学式の時だ。壇上でいろいろとしゃべり続ける大人をぼんやり眺めるだけの退屈な時間。その時に、偶々隣に座っていたのが霧ちゃんだった。勿論、式の間は静かにしていたが、それが終わってからすぐに話しかけられた。
「やっと終わったねえ。長かった長かった」 初対面の私に何の屈託もない笑顔で、しかも丁寧語も使わないで普通に話しかけてきた。驚きもあったが、嬉しかった。うわべだけを取り繕うことを覚え出した私にとって、霧ちゃんの裏のない性格は、神様みたいに感じられたのだ。神様はそれからも同じクラスで、私のことを照らし続けてくれた。しかし、その光は私に闇を作っていたのも事実だった。
「どうして私は霧ちゃんみたいに、素直に明るくなれないんだろう」
この想いは、霧ちゃんには絶対に言えなかったが、私の中で徐々に強くなるのは、わかっていた。
結局途中で自転車を押しながらも、何とか自然博物館に到着した。学校を出たのは二時くらいだったか。既に時計は三時を少し回ったくらいを指していた。
建設されてから七年しか経っていない自然博物館は、やはり小奇麗に感じられた。日本経済がよくなった頃に地元の政治家の鶴の一声で建てられたもので、開館した時には私も両親にせがんでつれてきてもらったのを覚えている。それっきり一度も訪れたことはなかったが、うっすらと記憶には残っていた。
霧ちゃんは何回も来たことがあるようで、入館してから真っ直ぐに受付に向かい、係の女性と話している。どうやら知り合いらしい。
「お待たせ。うちのいとこ、今視聴覚ルームにいるみたい。とりあえず行ってみようか」
一般の見学ルートではなく、明らかに関係者しか通らなそうな薄暗いほうへ躊躇いもなく歩いていく。
「霧ちゃん、ここによく来るの?」
「まあ、ね」
どんどん先に進む彼女は、微かに笑みを浮かべていた。自転車で坂を登った影響か、あるいは今、早歩きをしているためかはわからないが、ほんのり頬が上気しているように見える。歩き始めたときは隣にいたのに、軽くゴムで結わえられたセミロングの黒髪は、暫くして私のななめ前を歩くようになり、そして一枚のドアの前で立ち止まった。
「ここだよ!」
ドアの上には「視聴覚ルーム」と無機質に書かれていた。真っ白な扉は、むしろそれを清潔感の一部だと、好印象で捉えさせてくれる。おそらく外部開放はあまりされていないのだろう。周りの廊下には段ボール箱がいくつか積み重ねられ、ぽんと置かれたロッカーの中には論文や雑誌が整理されていた。
霧ちゃんが軽くドアをノックする。が、返事はない。今度は強めに叩く。
「ヨウ君ー。霧だよー」
いつもと同じ明るい声。ただ、少し作ったような声。それが私の右側で響いたとほぼ同時に、前方が開いた。
「ああ、いらっしゃい」
中から一人の男性が出てきた。一言で言えば、いかにも「理系っぽい男」といったところだろうか。少しクセのある髪、細めの眼鏡の奥でほのかに光る瞳、白衣につつまれた痩せ型の体。
「こちらが電話で言っていた…」
「大山香澄です。はじめまして」
「どうも、霧のいとこの宇和水葉一です。よろしくね」
相変わらずおずおずとした目だったが、それが逆に優しい雰囲気を伴わせている。
「さあ、中に入って」
葉一さんに案内されて視聴覚ルームに入った。
「え……これって……」
「へっへー。すごいでしょ!」
部屋に入った私の目に飛び込んできたのは、全く想像だにしない様子だった。私たちの学校の視聴覚室は、少し大きめの3Dテレビと付属するHD、古いプロジェクターとスクリーン、あとは学校らしくパソコンが数十台あるくらいだったと思う。それがこの部屋には何もなかった。いや、正確に言うならば色が無かったのだ。部屋の内部には目一杯に“テント”が広がっていた。天井は丸く、壁にまでずっと白い布が続いている。その頂点からは、タコ糸か何かで丸いボールがぶら下がっていた。一面の白い世界の中で、目に入るのは葉一さんと霧ちゃんだけだった。
「私も最初来た時はすごいびっくりしたよ。でも驚くのは、もうちょっと待ってね」
霧ちゃんはリモコンを天井に向けた。