序章 ~炎となりて~ その2
何かがはじけているのだろうか、ぱちぱちと軽快な音が聞こえる。
閉じた瞼に差し込んでくる暖かい光と、頬に触れる冷たい土の感触で洸兵は目を覚ました。
ゆっくりと目を開けてみると、夜になったのか周囲は暗く、目の前で焚き火が揺れている。
――そうか、確か地震が起こったんだった。未だぼんやりとした頭で、洸兵は考え始める。大会で優勝して、トイレに行って、対戦しようとして頭痛が来て……アイツはどうした!?
雷に打たれたように覚醒し、身を起こして周囲を見渡す洸兵。そこで彼の眼に入った風景は、彼が思っているものとは全く違っていた。
「……はあぁ?」
続けるべき言葉を思いつかない。
何か言おうとして飲み込み、そのまま唖然として周囲を見渡す。
まず目に入ったのは焚き火をはさんで正面にいる人影だ。なにやらファンタジー風のコスプレ姿だが、自分と同じ被災者なのだろうと洸兵は考えた。
焚き火もあって当然だ。TVで災害救助リポートを見ていても、避難所にそれはよくある光景だった。でもその周りがおかしい、おかしすぎる。
見覚えのある質感――コンクリートの瓦礫が数個転がっているほかは、視界に広がる風景は紛れも無く草原。ビルの一つも建てられていなければ、地面がアスファルトで覆われているわけでもない。
後ろを振り返ってみれば、数本の木が立っているほかは少し遠くに森らしき影が見えるだけ。特別に変わったものは何もないが、今居るこの場所が草原であること事態がそもそもおかしい――
いや、一つあった。とてつもなく変わったものが。
巨大な人型の何かが、片膝をついて座り込むような姿勢でそこに在ったのだ。
甲冑を着込んだ騎士のように見える、淡いクリーム色の巨体。間接部を守る位置につけられた銀色の装甲が、焚き火の光を鈍く反射してオレンジ色にゆらめいている。
立てた右膝に右腕を乗せ、だらりと下げた左腕には丸みをおびた分厚い盾を持っていた。
熟練した職人の手で細かく施されたのだろう。金と朱を基調とした装飾が全身を彩っているが、全く嫌味にはなっておらず、その巨体を優美に彩っている。
ロボットなのか? いやまさか、こんなもの現実に存在するはずが――洸兵の視線は思わずその威容に惹き寄せられた。
下半身から上半身へ、そして頭へと視線を移した時――洸兵の体が、電撃でも走ったかのように身震いした。
「こ、コイツは……」
銀色の装甲で額と顎を覆われた顔。その暗い眼窩を見た時に洸兵は全てを思い出した。
忘れていた。いや、あまりの非常識な出来事故にあえて思い出すまいとしていた事が一気に脳裏から湧き上がり、体中に脂汗が吹き出る。
そうだ、あの騒動は地震なんかじゃなかった。変な声が聞こえて酷い揺れが起きて、ポッドの外に出たらいきなり目の前にこれがあって……きっとこれのせいだ。あの場所は崩れていたんだから、きっとこれが突然落ちてきたか何かで、あんな事になって、俺はこれにぶつかってそしたら何時の間にか触っててこれと眼が合って光が――
「……####!!」
耳に入ってきた聞きなれない声に、浮遊していた意識が体に戻った。
すぐ目の前にはロボットらしきものの足があった。どうやら無意識のうちに立ち上がり、それに手を伸ばして触れかけていたらしい。またか、また俺は同じ事を……今の声は何だ?
未だ伸ばしていた手を引っ込め振り返ると、揺れる焚き火の向こうから洸兵を見ていたのは、目を覚ましたときに見たコスプレの人物だった。
「あー……どうも、こんちは」
自分と同じ被災者だと思い込んでいたその人物に向けて、洸兵は愛想笑いを浮かべた。
白いローブを纏い、フードを目深に被っているせいで表情はよく見えないが、声と見た目からして女性だろう。
フードから零れた美しい金髪は、焚き火の明かりを受けて複雑に輝いている。
ゆったりとした衣服は所々破れ、煤けているが、おかげで艶かしい体のラインを隠しきれず、端々に見える白い透けるような肌が洸兵の目を吸い付ける。
少し震えながらもきゅっと結ばれていた瑞々しい唇は、洸兵が振り返ったことで開かれた。
「###……####!」
「え、何、ちょっと。何言って……?」
「#####!」
内容が判別できない謎の言語を、女は激しい口調で洸兵に叩きつける。
しかし内容云々よりも、その女の小さくも良く通る声に洸兵は聞き惚れてしまっていた。
これまでに会ったどの女性の声よりも、彼女の声は心地よい澄んだ音色で耳に響く。
これはきっとフード取ったら相当な美人が出てくるぞ、と洸兵が邪な事を考えたのを知ってか知らずか、彼女はどこからか短剣を取り出し、洸兵に向けて詰め寄ってきた。
「###!」
「ぉ、おい、ねぇちょっと……ちょっと待った待った待って下さいお願いしますっ! 何言ってるかわかんないんですって、ねぇ聞いてますか!?」
「…………##?」
すっかりパニックになり、座り込んで涙目になった洸兵を見て彼女は首をかしげた。
切っ先は突きつけたまま、フードの奥から洸兵を見つめている訝しげな視線が感じられる。
仕草だけで絵になるほど美しいのだが、今の洸兵にはそんな事を考えている余裕はない。何の理由があって彼女が短剣を取り出すほど怒っているのかさっぱりわからない。どうやったらこの状況から逃げ出せるんだ――?
「ぁ、あのー……とりあえずそれ下ろして――」
月明かりを反射してきらりと光る短剣に、緊張に耐えられず洸兵が口を開いた時。
耳に入ったかすかな異音に、洸兵の背筋がぞわりと粟立った。
「げぇ、なんだよこの音……ッ」
「……##!?」
まるで空間が軋み、悲鳴を上げているようだ。
とてつもなく異質で、とてつもなく不快な音。最初は小さかったそれは徐々に音量を増し、周辺一体を包み込むような大音響に至った。
「ぅあ――ぐ、おえぇっ……ぅうっ、な、何だよ、何なんだよっ!?」
脳を直接掴んで揺さぶられるような気持ち悪さに、たまらず洸兵は頭を抱えてその場に崩れ落ちた。
頭上からはローブの女が上げる苦悶の声が聞こえた。視界の端で彼女の脚がよろめいている。
怪音がますます激しくなると同時に、暗かったはずの周囲が得体の知れない幻光で照らされ始めた。
あの時の――あのゲームセンターの時の光にどことなく似ているが、しかし優しさも暖かさも微塵も感じない。この光から感じるのは、今この場を満たしている怪音と同じ、圧倒的な暴力の気配。
「や、やべぇ……気持ち悪……ッ」
体中の肌が粟立ち、ゲームセンターの時以上に不穏な感覚が体を駆け巡る。
洸兵は蹲ったままがたがたと震えていたが、その手に柔らかい感触が重ねられると、そのまま掴まれ、一気に引っ張り上げられた。
よろめきながら立ち上がり顔を上げれば、顔に息がかかるほどの至近距離にローブの女が居た。
フードの奥に見える琥珀色の瞳は、怯えと不安を見え隠れさせながらも、強い決意の光を放っている。
逡巡するように首を振り、彼女が呪文のような言葉を呟き出した時だ。
臓腑を抉り引っ掻き回すような轟音と同時に幻光が視界を覆い尽くすほどの光量となったかと思うと、その瞬間に怪音も光も消え去って――変わりにとてつもない重圧を撒き散らす何かが、その場に現れた気配がした。
地面に重たい物を落としたような音が複数、静けさを取り戻した空間を押し潰さんと響く。
ローブの女は焦りを含んだ視線をちらと横へ向け、中断された呪文のようなものを再開する。
洸兵はつられて彼女が見た方向に目を向け、その瞬間、心の底から後悔した。
そこにいたモノは一見、虫のように見えた。
黒く光沢のある甲殻に三対六本の脚。頭部の巨大な複眼がこちらを睥睨し、これまた巨大な顎がぎちぎちと音を鳴らして開閉している。
ご家庭の台所によくいる、茶色いあれに雰囲気が似ているといえなくもない。
それらは昆虫の一般的な形体に近く見えた。それらをただの虫だと、洸兵は信じたかった。
それらが、自分の傍らにある巨体ほども大きくなければ。
それらが、二本の脚で立っているのでなければ。
それらのうちの一体が、人の手にも見える真ん中の脚に人間らしきモノを掴んでいて、今まさにそれをむさぼり喰ってなどいなければ――!
一番近くに居る虫が、頭部を挟む場所についている最上部の巨大な腕、その片方をゆっくりと持ち上げた。
長く、太い豪腕は、先端に人間二人分の大きさはある鋭い爪がついている。洸兵達など一撃で粉砕されてしまうだろう。
そいつの凶悪な複眼と洸兵の視線が交錯する。
ああ、俺はこのままわけもわからずに、こんな変な事に巻き込まれて死ぬのか。いや違う、これはきっと夢だ。夢だから、死んだら起きるはず。ああでも、夢で死んだら現実でも死ぬんだっけ?
立ちすくみ現実逃避する洸兵の目に、迫る爪はやけにゆっくりと動いて見える――
「##!」
「っは……うぉわあああああああっ!」
叫び声とともに手を引かれ、我に返った洸兵はその方向へ跳ぶ。その瞬間、地面に突き刺さった爪は土を抉り、爆発させた。
「わっぷ、ぶほっごほっ……ぶえぇっ」
巻き上げられた土を被り咳き込む洸兵の目に、虫がもう片方の巨腕を上げて狙いを定め、容赦なく振り下ろす姿が映る。
心は逃げたいと思っているのに、脚が震え、体に力が入らない。
もうだめだ、助からない。やっぱり死ぬんだ、俺。
「####!!」
刹那、激しい金属音があたりに響き渡った。
頭上を見上げれば、巨大な盾が振り下ろされた爪を受け止めていた。
「う、動いたぁ!?」
「##!」
「ぉ、おい……乗るのっ?」
ローブの女に手を引かれるまま、降りてきたロボットの右手に乗せられる。太い指が、乗り込んだ二人を優しく包み込むように曲げられた。
手のひらに這いつくばった洸兵を見て、女は足元を指差して何事か言っている。指にしがみつけということか――?
洸兵が慌てて従うのを確認すると、女はまた呪文を唱えた。
「ぅわあぁぁぁ立つのかよォ……っ」
その巨体に途方もない力を込めて、白き鎧はゆっくりと立ち上がる。
じわりと一歩踏み出し、虫に押さえ込まれた盾を一瞬押し返すと――突如後方へと跳び下がった。
「――ッ! お、落ちるっ!」
いくら指を曲げているとはいえ隙間はあるのだから、前触れもなく急な移動は勘弁願いたいものだ。
手を滑らせてあわや地面にまっ逆様かと言う寸前、動きが止まった。
その首元から蒸気が噴き上がったかと思うと頭が持ち上がり、胸の装甲が前へと開いて――
「ちょ、ま、待った。落とさないで、頼むから、本当お願いだからぁァァッ」
腕が持ち上げられ、手首が容赦なく傾く。
必死の懇願も空しくあっさり手のひらから振り落とされ、巨大な鎧の首元にぽっかりあいた暗闇へと、洸兵は転がり落ちていくのだった。