ぶたの脳
ブタの脳みそ。
おおよそ、成人した人間の十数分の一ぐらいの大きさ。
成熟しても、出産された人間の赤子より小さい。
※
どうも体調が悪かった。
頭は熱っぽく、全身がダルく、足関節の辺りがズキズキと痛む。昨日までは普通だったハズなのに、目が覚めたら急に悪化したのである。さっきからジリリリっと、枕元の目覚まし時計が鳴り続けているが、手を伸ばして止める事すら億劫で仕方なかった。
「……気のせい、ではないよな」
と、私は呟いた。
できれば、今の不調が間違いであって欲しい、と思ったのだ。学校や会社を休むために仮病をするならまだしも、本当に体調が悪くなって得をすることは殆ど無いだろう。誰だって、健康の方が良いに決まっている。しかし、そういう私の小さな願いを否定するように、また足関節の辺りにズキッとした鋭い刺激が走り抜けていったのであった。
「はぁ」
つい、私の口から溜息が漏れる。
これは、もしかしたら大きな病の前兆なのかもしれない。とりあえず、面倒でも早めに病院で検査した方が良さそうだな。そう考えつつ、私はけたたましく鳴り続けていた目覚まし時計に、やっと手を伸ばしたのだった。
「……ねえ、顔色が悪いわよ、最近。大丈夫なの?」
隣で寝ていた妻のジェニファーが、心配そうに話し掛けてきた。私が仕事に行こうとしないので様子を伺っているみたいだった。別々のベッドで寝ているので、私の顔色を覗き込むように近寄ってきた。
「あぁ、平気だよ」
「……本当に大丈夫?」
「だから平気だと言っただろ」
「あ、あなた、本当に大丈夫? ねえ、それで大丈夫なの?」
「おい、しつこいぞ。鬱陶しいから、何度も何度も同じ言葉を繰り返すな」
と、つい私は怒鳴ってしまった。
言葉と仕草だけで判断するのなら、間違いなく妻のジェニファーは心配をしている。だが、それは上っ面だけ。妻の青い瞳は、遅刻して仕事がクビになったらどうやって生活するのよ、と問い詰めているようであったのだ。
そういうのは、こっちの体調が悪い日ぐらい勘弁してくれ、と私は思った。
「……とにかく行ってくるよ」
私は準備を済ませ、気怠い体を引きずりながら家を出た。そして、ガレージに止めてあった車に乗りこみ、会社まで走らせたのである。その道中、会社で食中毒が起これば仕事を休めるのにな、とバカげた妄想を膨らませていったのであった。
私の職場はアメリカ南東部の片田舎にあった。そこは昔から精肉業が盛んな土地であり、大型倉庫や工場が無数に並んでいる事から俗にスパムの町と呼ばれていた。凡そ人口の半数ぐらいが肉関係の会社に関わっているので、殆どの人間は肉の仕事に始まり肉の仕事に終わるような所なのであった。
かくいう私も精肉加工工場に勤めていた。いや、正確に言うのなら、他に選択肢はなかったというべきだろうか。このスパムの町で生まれた人間は、かなりの金かコネか才能がない限り、みんな同じ低賃金の職業に集約されていくのであった。
「やあ、ジョン、おはよう」
と、会社にたどり着いた私は、同僚に挨拶していた。だが、こちらに直ぐ振り返ったジョンの顔色は優れなかった。まともに血が回っていないらしく、肌は鬱血したように白く、額から茶色い汗を滲ませていた。私もダルかったが、それ以上にジョンは体調が悪そうであった。
「……やあ、おはよう」
「どうしたんだよ、ジョン。元気がないな。もしかして、病気にでもなったのか?」
「……あぁ、そうみたいなんだ。この間から急に体がダルくなってな。しかも、冬でもないのに足関節の辺りがかなり痛むんだよ」
その身に覚えがあるような話しを聞いて、私は少し驚いてしまう。
「え、お前もなのか。実は私も同じ症状があるんだ」
「……へー、そうなのか。2人揃って体調が悪くなるなんて、奇遇というか、珍しいというか、何というか」
「ああ。お互いついてないよ」
「まったくだ。俺達みたいな低賃金労働者が重い病気になったら、今晩にでも妻に殺されちまうよ。死んでくれた方が酒代も浮くーってなぐあいにさ」
「あはははは。そうだな」
「……それで、お前はいつから体調が悪くなったんだ?」
「私は今朝ぐらいからだよ。目が覚めたら急にダルくなっていたんだ」
「ははは、それぐらいなら、まだマシだろ。俺なんて、今朝は足が痙攣して直ぐに立ち上がれないぐらいだったぜ。しかも、体が動かせないわ、脂汗が出るわ、隣で妻が早く仕事に行けって文句を言ってくるわ。最悪な状況だったよ」
「ははは。本当についてないな」
「ああ。この前、会社でやった健康診断じゃ、お互い何もなかったハズなんだがねぇ」
そう世間話をしつつ、私とジョンは職場に向かったのであった。
私が工場に足を踏み入れると同時に、ムワッとした異臭が漂ってきた。血飛沫と細かい肉の粒が、大量に空気中を舞っていたのであった。遠くまで見渡せないほど濃い霧状になっているので、息を吸おうとしても慣れていない人間だと喉で酸素が止まってしまうだろう。そこを私は平然と歩き、中央に敷かれている長いベルトコンベアーの所まで進んだのであった。
ゴトゴトと音を立て、目の前を肉が流れていく。
天井のLEDランプで強く照らされ、まるで腐った油のようにヌルヌルと輝く塊が転がっていく。とても柔らかそうな豚の一部が、ベルトコンベアーで大量に運ばれていたのだった。そういう普通の人が目を背けたくなるような悲惨な光景を見ても、私の顔色が変わることはなかった。
「……よし、やるか」
作業場にたどり着いた私は血だらけの前掛けとゴム手袋を付け、ワゴンで運ばれてくる豚の頭部を一つだけ無造作に掴んだ。そして、水が流れているステンレス台に置いた後、ドスンと刃の太いナタを下ろす。豚の顔の前面はゼラチン質が多いので、少し裏側から叩き割るが解体のコツだった。
ごっ。
ずずずず。
びちびちびちびち。
むち。
か、ぱ。
私は刃で少し亀裂の入った隙間に指をねじ込み、豚の固い頭部を強引に開いた。ネットリとした血が糸を作り、薄い膜状に覆い隠していた薄皮が音を立てて破けていく。熱処理が済んで少し白色に濁った脳みそがポッカリと姿を現したのだ。それを確認してから、私はホースから送られてくる圧縮空気で部位を綺麗に取りだすのであった。
バシュッ。
激しい音が一瞬だけ響き、細かくなった大量の血と脳の欠片が空中に飛散する。そして、豚の頭部からむき出しになっていた白い脳みそだけが、ベルトコンベアーの上まで転がっていったのだ。頭蓋骨を開いただけの状態だと、まだ線や肉が繋がっているので、脳みそだけを風で吹き飛ばした方が効率的なのであった。
この一連の作業を、一日10時間、数百個分を繰り返すのが私の仕事だった。
「……さて、次々やらないとな」
それは、私が新しい豚の頭部を掴んだ時だった。
近くで同じ仕事をしていた男性が、唐突に奇声を上げたのであった。騒がしい工場内でも聞こえるぐらい大きく、まるでブタみたいに甲高い声で叫びだしたのだ。そして、血みどろの床に倒れ込むと左右の肘が貼り付くように脇を締め、手足の指を小刻みに痙攣させていた。顔面は硬直し、だらしなく舌とヨダレを垂れ流し、眼球の黒点が縮んだり膨らんだりを繰り返していたのだ。
その姿は、まるで解体される前の豚みたいだ、そう私は思った。
今は法律で殆ど禁止されているが、昔の養豚場では電気ショックで動けなくしてからバラしている所があった。生物は極度に硬直すると、強い筋肉繊維に引っ張られて、歪な姿勢を保ったまま動けなくなる事がある。確か、そういう変な格好をした豚を祖父がよく解体していたな、と私は幼い頃のことを思い返していた。
「……あ、いけない」
私は少し呆然としていたが、ハッとして倒れた男に駆け寄ろうとした。このまま放っておくわけにもいかないし、まだ工場内の誰もが動こうとはしていなかったのだ。だが、その前に近くで働いていた友人のジョンが、私を止めてきたのであった。
「おい、あの手のは無闇に関わるとやっかいだぜ。ほっとけよ」
「し、しかし、職場の人間が倒れたんだぞ。救急車を呼んだ方が良いだろう」
すると、ジョンは肩を竦めていた。
「……何だ、お前は知らないのか」
「何をだ」
「最近、この工場で多いんだよ。あの手の演技をしているヤツ」
「演技?」
「ああ。さっきみたいな感じで倒れたヤツが今まで何人か居たんだが、みんな病院で検査されても健康だと言われたんだぜ。何ともないんだったら、みんな演技に決まってるだろ」
「……しかし、なぜそんな事をしているんだ?」
「そんなの、金に困っているから、病気のフリでもして会社から労災を貰おうとしていたんだろ。人間が本気で努力するのは、利益がある場合だけだしな。きっと誰かが、この演技で成功したからマネをしてるんだよ」
「……しかし、私には演技とは思えなかったが」
「それだけ金が欲しくて必死なのさ。まったく、迷惑な『ヤツら』だぜ」
そうジョンは話し掛けてきたが、私は返事ができなかった。それよりも、まだあの男の事が気になっていた。理論的な根拠があるわけではなかったが、どうしても視線を外すことができなかった。なぜなら、あの奇声を上げて倒れた男は、私と全く同じ所を痛がっているように見えたからだ。
ズキっ。
私の足関節に、体中の熱を奪っていくような冷たい痛みが走り抜けていった。
※
翌日、私は病院に向かうことにした。目が覚めたら、私の体は更に弱っていたのである。息を吸うだけでも辛いし、頭の奥がジンジンと痺れるし、足関節の痛みが奇妙なぐらい増していた。もう面倒だとか言ってられるような状態ではなく、一刻も早く何かしらの治療が必要だったのだ。
しかし、病院で私を診断してくれた医者は、予想外のことを口にし出したのであった。
「……んー、あなたは健康体ですよ。殆ど問題はありませんね」
その言葉を聞いてた私は、つい怪訝そうに尋ねてしまった。
「ほ、本当に健康なんですか?」
「背骨の一部に軽い炎症がみられますが、特に問題は無い程度ですよ。それとも、何か気になる点でもあるのですか」
「……えぇ」
「そうですか。しかし、私には何ともないように思えますね。それでも気になると仰有るのでしたら精密検査をする方法もありますが、保険も適用されませんし、かなりお金が掛かりますよ。どうしますか?」
そう医者に問われるが、私は何も言えずに俯いてしまった。
分からなかった。
これは、どういう事なのだ。
私の体が健康だというのならば、この気怠さや痛みは何だというのだろうか。
病気じゃないなら、この足関節のズキズキとした疼きは気のせいなのだろうか。
それとも、この医者は簡単な病気も見分ける事ができないのだろうか。
しかし、この医者は丁寧に診察してくれたじゃないか。
まてよ、そもそも病気を見付ける能力と、他人に対する親切は別の問題か。
いや、もしかしたら、私の容姿が気に入らないからバカにしてるのだろうか。
もしくは、支払が遅そうな低所得の労働者に、嫌がらせでもしているのだろうか。
分からない。
私には何も分からなかった。
ただ、確かな事は2つだけである。それは、この足関節の強い痛みと、金が無い私には精密検査は受けられないという辛い現実だけだった。私は診察してくれた医者に頭を下げると、重い体を引きずって病院から帰宅したのであった。
※
「……ねえ、あなた、大丈夫なの? 大丈夫なら、何か話せる?」
翌日、出勤時間になっても私が寝ていると、妻のジェニファーが話し掛けてきた。心配をしているような言葉や態度をしている。ただ、その瞳は、動物みたいにグズグズしないで働きに行け、と本音を語りかけてくるようであった。
「ああ、平気だよ」
そう私は吐き捨て、逃げるように家を後にした。体調は昨日よりも悪いし、動くだけで皮膚の穴からトロリとした脂汗が滲み出てくる。しかし、家の中に残っている方が、もっとイヤだった。
「ん?」
いつものように車で会社に向かうと、私は駐車場の入口に人垣ができているのに気が付いたのである。しかも、その辺りには社員達の車が大量に待機しており、かなりの渋滞ができていたのだった。
「何かあったのか?」
と、私は道路の脇に車を止めから、同じように立ち往生している同僚に話し掛けた。
「ああ。病人がいるんだよ」
「病人? もしかして誰か倒れたのか?」
「そうなんだよ。しかも、ブタみたいに奇声を上げてな。まあ、無視するわけにもいかないから、今は救急車が来るのを待ってる所なんだわ。駐車場の入口なんかで倒れたから、こっちの車も入れなくてスゲー迷惑なんだがなぁ」
「……なら、倒れたヤツをベンチに移動させないのか?」
「俺も、そう思ったさ。それが、お互いのためだってね。でも、何でだか知らないけど、動かそうとすると何人かの『ヤツら』が怒り出すんだよな。たまんねぇよ」
「怒る?」
と、私は訝しげに呟きつつ、駐車場の方を振り向いた。次の瞬間、足下から崩れ落ちそうになる。うすきみ悪い光景を目にして、足関節に鋭い刺激みが走っていったのだ。
ズキっ。
痛い。
あ、アレは何なんだ。
駐車場の入り口では1人の女が倒れており、ビクビクと痙攣を繰り返していた。その直ぐ回りを、年齢、性別、人種、様々な『ヤツら』が取り囲んでいる。誰も近寄っておらず、介抱すらしていない。間違いなく心配をしている所ではなかった。あれは、観察だ。全員で、倒れた女が徐々に弱っていくのをジーッと眺めているのだ。
それを見て、私は。
ズキっ。
痛い。
ズキっ。
でも。
ズリっ。
私も―――。
「……あ、なんて事を」
私はハッとした。
そして、また息を飲む。いま自分がしようとした事が信じられず、目をむき出しにして足下を何度も確認してしまった。どうして、どうして、いま私は前に向かって歩き出そうとしたのだ。そういう疑問の言葉だけが脳の中でグルグルと転回していたのである。
次の瞬間、私は慌てて自分の車に飛び乗っていた。その途中、痛みで足が縺れ、ドスンと転んでしまったが気にもならなかった。顔が砂まみれになったが、そんなのはどうでも良かった。
「遅刻しそうなので別の駐車場に行くよ!」
と、同僚に言ったが、それはウソだった。
滴り落ちるぐらい濁った汗が滲み、ハンドルを握る私の手は微かに震えていた。歯の根が噛み合わず、口が聞き慣れない異音を立てる。ハァハァと野犬みたいに息が荒くなる。落ち着かない。どんなに冷静なフリをしようとしても、ズキズキとした足関節の強い痛みが本音を教えてくれる。
私は一刻も早く、この異様な場所から逃げ出したかった。
ただ、怖かったのだ。
それは『ヤツら』が集まっている歪な光景を見たからではない。
気が付けば、『ヤツら』の場所に向かおうとしていた自分が。
一瞬でも、『ヤツら』と居れば心が安らぐように思えた自分が。
そう思えてしまった今の自分が、私は何よりも怖かったのだ。
※
翌日、また私はベッドの上から動けなくなっていた。
体調は回復するどころか悪くなる一方だし、全身の疲れが全く抜けていかない。そして何より、昨日の光景が忘れられず、とうとう一睡もできずに夜が明けてしまったのだった。今は体は眠気を欲しているのに、脳みそだけが激しく回転をしていた。昨日と比べれば少し落ち着いてきたが、まだ額を触ると熱くなっていた。
「……くそ」
と、私は苛立った。
こんな酷い状態で会社に向かっても、満足に仕事ができるとは思えなかった。いや、むしろ危ない。刃物やローラーなども扱う精肉の解体工場では、一つのミスが命取りになりかねない。眠気やダルさを引きずったまま出勤するのは、自殺をしに行くようなものだった。
普通なら、仕事を休んでいるだろう。
でも、私は足を引きずりながら、ゆっくりと家を出たのであった。それは、働かなければ仕事がクビになるという気持ちからではなく、それ以上に妻のジェニファーと一緒にいるのが苦痛で仕方なかったのだ。
今日だって、私が目覚めると同時に妻は尋ね続けてくるのであった。
大丈夫なのか。
起きられるのか。
責任が取れるのか。
働かないのか。
ダラダラとしているだけなのか。
ナマケモノなのか。
もしくは本当にブタなのか。
そう、耳元で妻に永遠と話し掛けられたのだ。
ベッドの上で寝ている私には苦痛で、拷問をされているとしか思えなかった。体は鉛を飲み込んだように重いし、『ヤツら』が集まっている職場だって恐ろしく感じている。本音で言えば、もう行きたくはなかった。しかし、それよりも結婚している人間から精神的に追い詰められている今の状況がたまらなくイヤだったのだ。これ以上、以前は愛していたハズの妻を嫌いたくない、そう私は思った。
「……行ってくるよ」
ジェニファーに挨拶をしてから、私はゆっくりと会社に向かった。
その道中、薬局で頭痛と痛み止めと眠気覚ましのクスリをミックスしたヤツを、純度の高いアルコールの力を借りて飲み干していた。家にいるのもイヤだったが、どうしても普通の神経のまま職場に入るのも耐えられなかった。
弱い私には、何か別の形で誤魔化すしかできなかったのである。
※
「やあ、ジョン。おはよう」
会社にたどり着いた私は、早々と同僚に話し掛けていた。ワケの分からない『ヤツら』と鉢合わせるぐらいなら、誰かと一緒にいた方が安心できると思ったのだ。しかし、なぜかジョンは、声を掛けても直ぐに反応をしてくれなかったのである。
「……どうしたんだ、ジョン?」
と、私は訝しむ。
少し嫌な予感がした。理論的な根拠は無かったが、ゾクッとした冷たい刺激が背筋から脳に向かって走っていたのを感じていた。いや、感じるだけではなく、直ぐにその違和感の正体に気が付かされたのだ。歩いていたジョンが踏み止まり、こちらの方に振り返ったのである。ただ、その視線は定まっていない。まるで、目の前を虫が飛んでいるかのように、眼球の小さな黒点がユラユラと蠢いていたのだ。しかも、バラバラ。完全に両目の焦点が合っておらず、見えない何かを追っているかのようだった。
その姿を見て私はゾッとした。
つい、『ヤツら』みたいだ、そう思ってしまったのである。
「……ど、どしたんだよ、ジョン。元気が無いじゃないか」
私は、できる限り自然な笑顔を作って、再び話し掛けていた。脳の奥からしみ出してくる不安を、必死に塞き止めようとしていたのだ。ジョンが『ヤツら』と同じワケがない、私の勘違いのハズだ、そういう幼稚な言い訳で、心のざわめきを落ち着かせようとした。
しかし、ダメだった。
ジョンは反応せず、無意味な言葉を繰り返したまま工場の中に入っていった。その後ろ姿を、私は呆然と見送る事しかできなかった。友の変わってしまった姿を前に、どう言葉を続ければいいのか分からなかった。まさか、お前は『ヤツら』になったのか、なんて聞けるわけもなかった。
しばし呆然と立ち尽くしていたら、ジリリリという始業の合図で私はハッとした。
「……何をしているんだ。私は、あいつの友達じゃないか」
私は直ぐに反省し、ジョンの後を追いかけた。
最初は驚いたが、冷静に考えてみると、さっきのジョンの姿だけで全てが判断できるワケじゃないだろ。誰だって疲れていて、満足に返事もできない日だってあるじゃないか。体調が悪くて、つい変な行動を取ってしまう事だってあるじゃないか。少なくても、もう一度ぐらいは友のために事実を確認するべきだ、そう私は思ったのだ。
でも、それだけが本音ではなかった。
友を心配すると同時に、別の不安も脳裏を掠めていた。心の奥底から、冷たい疑惑が浮かび上がっていた。論理的な思考ではなかったが、ジワジワと脳の中に広がっていく黒い感情が止められない。私も、ジョンみたいになるんじゃないか、そう心配せずにはいられなかった。もしかしたら、あんな風になって、生活の全てが壊れるんじゃないか、そう恐れずにはいられなかったのだ。
「ああ……どうか、どうか」
どうか間違いであってくれ、と私は走っている間に願っていた。
現状で何が起きているのか分からないし、分かった所でどうすることもできない。ただ、私の気のせい、ミス、妄想、思い過ごし、何でも良いから最悪な結果だけにはならないでくれ、と祈るしかなかった。しかし、希望とは儚く、個人的な願望をきれい事でまとめているだけだと、数秒後に私は思い知ってしまう。
「……あ」
工場の中に足を踏み入れると同時に、ヒュッと私は息を飲んだ。
目の前には見たこともない、異様な光景が広がっていたのだ。全ての作業員達が2つのグループに分かれ、徒党を組むように集まっている。しかも、お互い距離をとって、常に監視し合っていたのであった。まるで、人種差別が絶頂期だった頃に戻ったような、殺伐とした空気が広がっていた。
その中に、ジョンの姿があった。先程みたいな虚ろな顔はしておらず、楽しそうに『ヤツら』と同じグループに混ざっていたのである。始めから仲間でいる事が自然に思えるぐらい、親しげな態度をしていたのだ。
1時間後か数日後かは分からないが、もう間違いなく、それは未来の私の姿でもあった。
あぁ、なんて事だ。
私の耳に、ガラガラと何かが崩れ落ちる音がした。工場の地面はコンクリートで作られているというのに、足下が不安定になっている気がした。私は、一歩、また一歩と踏みしめるように後退ると、急いで会社から逃げ出したのだった。
※
結局、『ヤツら』は何なんだろうか。
仕事、食事、移動、排泄、外見、表情、しぐさ、体臭、声、性格までもが今までと同じなのに、中身だけが別だと確信させられてしまう。私達とは、何かが決定的に違うと思ってしまう。姿形は人間なのに、『ヤツら』を見ていると川の中の魚を眺めているような気分にさせられるのだ。
もちろん、こんな考えはバカげている。とても現実的な考えとは思えないし、他人に話したら笑われるのがオチだろう。そう、頭では分かっているのに、どうしても全ての疑いを捨てることができなかった。心の中に植え付けられた黒い疑惑は、細胞の隅々にまで広がっていたのであった。
もしかしたら、私の脳は狂ってしまったのだろうか?
辛い現実に嫌気が差して、有り得ない妄想に取り憑かれているのだろうか。
いや、それはないだろう。この違和感を察しているのは私だけじゃなかった。まだ残っている普通の同僚達も、『ヤツら』の事を訝しげな瞳で遠くから見ていたのだ。数名ならまだしも、一つの工場内で何十人も同時に狂ってしまうなんて可能性は限りなく低いだろう。
なら『ヤツら』の脳が狂ったのか?
気が付かない内に体内で何かが変化し、人格にまで影響を及ぼしているのだろうか。
いや、それもないだろう。仮に心や体に異変があったのなら、会社で定期的に行われている健康診断で医者が何か気が付くハズである。しかも、ジョンも言っていたが、倒れた後に病院で検査されているのだ。数名の町医者が病気を見逃すなんて可能性は限りなく低いだろう。
「……じゃあ、他に何があるっていうんだ」
と、私はポツリと呟いた。
先の見えない不安と恐怖だけが、グルグルと脳の中で渦巻いていた。大量の汗が滴り落ち、足の苦痛と相まって脳が燃えそうなぐらい発熱した。答えが欲しくて仕方ないというのに、何も分からない状況が私はもどかしかったのだ。
しかも、こんな事を誰に相談しろと言うのだろうか。
家族、友達、上司、同僚、警察、弁護士、役所の人間と話し合っても、結果に繋がる行動だとは思えなかった。専門家である医者達が診断しても分からなかった時点で、他の答えを見付けられるはずもないのであった。
「あぁ……」
頭がおかしくなったのは、こっちなのか、あっちなのか、それともこの世界なのだろうか。
分からない。
そんなの、しがない作業員である私に分かるハズもなかった。
ただ、怖くて、恐ろして、私は全てから逃げ出したかった。
「……でも、それもムリだ」
と、私は自虐的に呟いた。
この町で生まれた殆どの人間は、この町で人生が終わってしまうのだ。それは出生の地を愛している等という情緒的な理由ではなく、ここから逃げ出すには金か人脈か権力という武器に頼る必要があるからだった。何も無い人間は、この町で耐えるしかなかった。
私の、祖父も、父も、そうであったように――。
スパムの町という実情を、今になって私は痛感していた。
あぁ、神様。
私は子供のように指を咥えると、血が滴り落ちるぐらいかみ締めていた。ポタポタと赤い雫が床に広がっていく。足の痛み、苛立ち、恐怖を誤魔化すため、それよりも強い刺激を体に与え続けたのだった。もうこうやって耐えるしかない、そう私は思った。
だが、次の日、全てが一変したのだ。
※
「何なんだ、これは」
私は呆然としていた。翌日、出勤すると会社の状況が元に戻っていたのだ。以前のように同僚達が談笑している姿があるだけで、職場に不穏な空気は無くなっていた。そんなの始めは信じられずに会社の中を走り回ったのだが、本当に変わっていた。まるで始めから存在していなかったと思えるぐらい、『ヤツら』は完全に消えていたのだ。
「……あ、あはは」
現状に戸惑っていたが、その内、私は笑いだしてしまった。緊張の糸がプツリと切れてしまったように、ゲラゲラと1人で腹を抱えていた。
そうなのだ。始めから、変なことは何も起こっていなかった。今までの出来事は全て妄想に過ぎなかった。『ヤツら』なんて居もしない架空の存在に、私は1人で勝手に怯えていただけだったのだ。
何てマヌケな話しなんだろう。
バカバカしすぎて、こんなの笑うしかないじゃないか。
私は今まで追い込められてきた反動から、しばし笑い続けたのだった。もしかしたら、仕事でかなり疲れが溜まっていたのかもしれない。もしくは、この町から逃げ出したいという欲求が歪な形で現れたのかもしれない。具体的な原因は分からないが、少なくてもこんな下らない妄想に取り憑かれるなんて私は自分が情け無かった。
「いや、もう何でも良いか」
と、私は呟いた。
体のダルさや足関節の痛みはまだ残っていたが、全て元に戻ったのである。今更、過去のことを気にしてもしかたない。今が幸せなら、それで十分じゃないか。
「おはよう! やあ、おはよう!」
「おう。今日はやけに元気だな。嫁さんでも死んでくれたのか」
私が普通に挨拶すると、あのジョンが前みたいに返事をしてくれたのだ。私はたまらなく嬉しかった。この気持ちが永遠に続いて欲しくて、他の仲間にも挨拶をして回ってしまった。そこには敵意や不安や怒りといった感情はない。誰しもが楽しそうに話し、そして活気が溢れる以前の工場に戻ったのだ。
その日、私は幸せのまま仕事をして、何事もなく帰宅したのであった。
「ただいまー」
と陽気に言って私は家のドアを開けた。
今の幸福な気持ちを、妻に別けてあげたかったのである。きっと、今までのことを全て伝えれば、妻にバカな話しだと笑われるのだろうが、それでも良かった。ほんの少しだけでも心が通わせれば十分だ、そう思っていた。
だが、私は部屋に入るなり、足を止めていた。そこには暗い顔をした妻のジェニファーが立っていたのだ。まるで『ヤツら』のように、無機質な瞳を向けてくるのであった。
「……どうしたんだ?」
怪訝そうに私は尋ねた。
しかし、ワケの分からない言葉をブツブツと呟くだけで、妻のジェニファーは答えてくれなかった。何か嫌な予感がして背筋の辺りがゾクッとする。そう、私が怯えていたら、妻のジェニファーが急に歩み寄ってきたのであった。そして無造作に私の胸ぐらを掴み、大きな奇声を上げたのだ。もう、妻の言動の意味など、分かるハズもなかった。
「どうしたんだ!」
私は強引に妻の体を押さえた。すると、また妻は何かを叫んだ。今度は知っている言葉だったので、つい私は聞き直してしまった。
「何だって」
「ねえ、バカにしてるの?」
「……何の話しだ」
「ほら、また、そうやって。ちゃんと返事ぐらいしなさいよ!」
「何がだ。ちゃんと返事をしているじゃないか」
「どうしてよ!」
「おい、いい加減にしろ。どうしたんだ」
「どうして、何日も何日も何日も、そんなマネをするの! どうしてよ。どうして、――ずっと私に動物の鳴きマネをするのよ! お願いだから、人間の言葉で喋ってよ!」
「え」
何だって、と私は言いかけた所で止まる。ゾクッとした。汗が凍る。喉の奥から出てきた声は、とても自分のモノでは無かった。違和感のある音が鼓膜を刺激した。まるで、ブタのような奇声が、口から留めなく漏れていたのだった。
それに気が付いた瞬間、私の脳は真っ白に染まっていく。
何も考えられなくなっていく。
でも、白くなる頭の片隅では、ああ、やっぱりな、そう少し納得している自分もいた。
なんて事はなかった。
今になって冷静に言動を思い返してみれば、妻だけは気が付いていたのだ。
私が始めから、『ヤツら』になっていた事に。
※
後日、工場の様子に我慢できなくなった別の人間が警察に通報し、保健所からの査察が工場に入ることになった。その過程で私達に何が起こったのか色々と発覚していった。
まず、従業員の体を検査をした医者の説明によれば、こうである。
解体時に発生した粒子状の豚の脳組織を吸い込み続けた結果、体内で異常な抗体が作られていった。つまり、豚と人間の脳みそは重複する部分が多いので、それが蓄積し続けたら自己免疫機能が狂って自らの神経を攻撃したのだ。これは、いわゆるBSEなどの伝達性海綿状脳症と似ているが、今回の病と同じ発症例は世界的にみても殆ど確認されていない。だから通常の検査では見抜けなかったし、完全な治療法はないとの事だった。全ては不衛生な職場と、作業効率を求めすぎて結果であった。
ある種、特殊な環境下における人体実験の例が確認できたと医者達も喜んでいた。ただ、どうして発症した人間達だけが共通意識を抱き、他のグループに対して拒絶的な態度をとったのかは医者達にも分からなかったようであった。
そして、私達の会社は倒産した。まあ、色々と不手際が発覚したのだから仕方ないだろうが、それで何かが変わるわけでもなかった。ここはスパムの町なのだ。一つの会社が潰れたとしても、工場はそのまま右から左に転売されるだけだったのである。
私は退院後、発症が軽度だった事もあり、その会社で再びブタの脳みそを取りだす仕事を続けていた。新しい職を探す余裕もツテも無いし、今の私には仕方ないと割り切るしかなかった。
ただ、そうは言っても、一つだけ気がかりな事はあったが……。
仕事中、私が豚の脳みそを取りだしながら振り返ると、新しく就任した社長が叫んでいた。
「おい、誰が勝手に清浄機を回して良いと言った。こんなの電気を食うだけなんだから切っておけ。使うのは保健所の査察が入る時だけだ。肉さえ清潔なら、お前達なんて汚れたまんまで良いんだよ」




