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三月三十一日、午後三時の教室

作者: トミヤマ
掲載日:2026/02/18

一.



 目を開けた。


 それは覚醒というよりも、突然この世界に放り込まれたような感覚だった。まぶたを開いた瞬間から意識はすでに完全で、夢の残滓も、眠気の霞も、何ひとつなかった。ただ、気がついたら、そこにいた。


 最初に視界に飛び込んできたのは、天井だった。


 白い。何もない。感情を持たない、無機質な白さだ。蛍光灯がいくつも、等間隔に、規則正しく埋め込まれていた。それらはすべて点灯していた。外の光がどこから差し込んでいるのかも分からないのに、室内は奇妙なほど明るかった。


 しばらく、その天井を見上げたまま動けなかった。


 自分の体が存在することを、少しずつ確認するように、指先から感覚を確かめていった。指が動く。腕が動く。背中の下に、硬い何かを感じる。


 起き上がった。


 見慣れた黒板が正面にあった。緑がかった黒の、あの色だ。白いチョークで、何かが書きかけのように、ほんの少しだけ文字の跡が残っていた。ほとんど消えかけていて、何と書かれていたのかは読み取れなかった。


 机が、規則正しく並んでいた。縦横、きっちりと整列した木製の机と椅子。どれも同じ高さで、どれも同じ向きを向いていた。教室の後方には、鍵のかかったロッカーが壁一面に並んでいた。


 学校の教室だ、と気づいた。


 しかし、なぜ自分がここにいるのか、まったく分からなかった。自分がどこかで眠っていたという記憶も、ここへ来た経緯も、何もない。あるのはただ、今この瞬間だけだった。


 そして、周囲には、誰もいなかった。


二.



 私は、と思いかけて、そこで止まった。


 名前が、出てこなかった。


 喉の奥まで出かかっているような、あの感覚。しかしいくら探っても、手がかりすら掴めない。自分の名前を忘れるということが、こんなにも足元をすくわれるような感覚だとは思わなかった。名前というのは、自分が自分であることの、最初の証明なのだと、失ってはじめて気がついた。


 では他には何を覚えているのか。


 瞼の裏を探ると、映像が浮かんだ。


 どこかの事務所だった。会社、だろう。古びたビルの一室で、天井の蛍光灯がここと同じように白白と光っていた。窓の外はいつも夜だった。東京のどこかだと思う。もしかすると東京ではないかもしれないが、とにかく、夜になっても街が明るい場所だった。


 私は、その会社の事務員だった。


 毎日、夜遅くまで残業した。日付が変わっても机に座っていた。朝食も、昼食も、夕食も、まともに食べた記憶がほとんどない。かろうじて摂取していたのは、デスクの引き出しに詰め込まれたお菓子の類いだった。仕事をしながら食べる。画面を見ながら食べる。味なんてほとんど分からない。それでも、手だけが機械的に口へと運んでいた。


「……お疲れ」


 そう言って、お菓子を箱ごとくれる上司がいた。


 男性だった。年齢は覚えていない。声のトーンは穏やかで、いつも少し疲れたような顔をしていたが、部下への気遣いは忘れない人だった。


 こんなにたくさんいただけません、と遠慮する私に、上司はよく言っていた。


「俺、一人っ子だからさ。何でも箱ごとじゃないと気が済まないんだよね」


 どこまでが本音だったのだろう、といつも思っていた。そういう性分なのか、それとも遠慮する私に対する、精一杯の優しい嘘だったのか。どちらであっても、ありがたかった。その箱の重さが、夜の職場で感じる唯一の温かみだったから。


「これ、買いすぎちゃったから、もらってくんない?」


 そう言ってお菓子を渡してくれることもあれば、別の日には、ネットオークションで落札したバッグがよく見たら女性用だったから、と、きれいな革のバッグをくれたこともあった。黒くて小ぶりで、でも仕事には十分な大きさの、品のいいバッグだった。


 そのバッグでよく出張に行った。


 私の担当している取引先は少なくとも五件以上はあった。新幹線に乗ることもあれば、飛行機に乗ることもあった。知らない街の知らない駅のホームに立つたびに、自分がここで何をしているのかが分からなくなった。


 出張して、会議をして、打ち合わせをして。


 我ながら、慣れないことをしていると思っていた。


 私は人前で発言することが苦手だ。自分の意見を声に出すことが、昔から恐ろしかった。考えが整理されていないまま口を開くことへの恐怖と、整理していたはずなのに言葉にした瞬間に崩れ落ちる感覚と、両方が怖かった。


 そんな私に、取引先への出張という仕事が回ってくるのだから、世の中というのはずいぶんと気まぐれだと思う。


 取引先の入り口では、毎回、持っているスマートフォンを全て取り上げられた。代わりに、紙製の入館証を渡される。薄いそれを首にかけて、案内された会議室へ向かう。セキュリティの厳しい取引先だった。社内の情報を外部に漏らすことを、針の穴ほども許さない、という意志を感じた。


 会議資料は、先方が用意する時もあれば、私が用意する時もあった。


 私は資料作成も得意ではない。情報を整理して、分かりやすく可視化して、他者に伝わる言葉を選ぶという一連の作業が、どうしても上手くいかない。何度やっても、出来上がったものを見るたびに、何かが足りないと思う。そしてその「何か」が何なのかが、分からない。


 そんな私にこんな役目が回ってくるのだから、やはり世の中は、理不尽だ。


 会議はいつも、定型通りに進んだ。毎年同じことを確認して、毎年同じような結論で終わる。小さな質問が飛び交う瞬間だけが、辛うじて生きた時間だった。しかしその質問に答えるのが、一番怖かった。焦りながら、私は答える。正しいことを言えているのか、相手が求めているのはこの答えなのか、常に分からないまま言葉を繋いだ。


 私は臨機応変な対応が、たぶん人より苦手だ。


 そして、そんな私に、こんな仕事が回り続ける。


 会社から徒歩十分圏内のアパートに、一人暮らしをしていた。終電を逃したとき、タクシー代を出す余裕も気力もなかったから。徒歩なら帰れる。それだけが理由だった。


 しかし、帰っても、寝るだけだった。


 ドアを開けて、鍵をかけて、バッグを床に落として、そのままベッドに倒れ込む。風呂に入る気力がなかった。洗濯する気力もなかった。食事の支度はもちろん、何かを食べようという気持ちすら起きなかった。すぐに朝が来る。どうせすぐに朝が来る。だから目を閉じるだけでよかった。


 毎日、気絶するように眠った。


 朝は、スマートフォンのアラームが鳴らしてくれた。設定した覚えは、もうほとんどない。それでも毎朝七時に、機械は私を起こした。


 以前は、コンタクトレンズをつけなければ外に出られないと思っていた。化粧をしないと人に顔を見せられないと思っていた。しかしいつの頃からか、もうどうでもよくなっていた。眼鏡のまま出社した。スキンケアだけはかろうじて続けていたが、化粧はほとんどしなくなった。


 誰かに何か言われた気もするが、何を言われたか、もう覚えていない。


三.



 私が思い出せたのは、それだけだった。


 名前のない私の、名前のない日常。眠って、起きて、会社に行って、夜遅くまで働いて、帰って、気絶して、また眠る。その繰り返し。それが私にとっての「当たり前」だった。


 しかしそれと今、この教室にいることとの間に、いったいどんな繋がりがあるのだろう。


 学校など、とうの昔に卒業している。制服を着た記憶も、受験勉強の記憶も、ずっと遠い過去の、薄い影のような記憶だ。なのに今、なぜここにいるのか。


 立ち上がった。足元がふらつくかと思ったが、体は思いのほかしっかりしていた。床板を踏むと、かすかに軋む音がした。それだけが、ここが現実であることの証のように聞こえた。


 廊下に出てみた。


 誰もいなかった。


 長い廊下が、両側に向かって伸びていた。窓から外の光が差し込んでいるが、外の景色はどこか霞がかっていて、はっきりと見えない。桜が咲いているような気もするし、そうでないような気もした。


 片側にずっと歩いて、いくつかの教室を覗いてみた。


 どこも、空だった。


 机が並んでいる。ロッカーがある。黒板がある。しかし人の気配が、どこにもない。人がいた痕跡はある。机の上に、誰かが書きかけたような落書きがある教室もあった。椅子の背もたれに、体操服がかけられたままの教室もあった。しかしそれらはどれも、まるで全員が突然消えてしまったような、不自然な静けさの中に放置されていた。


 人気のない学校というのは、こんなにも怖いものなのか。


 普段の学校の中には、いつも音がある。生徒の声、先生の声、チャイムの音、廊下を走る足音、どこかの教室から聞こえてくる楽器の練習。それらが全て消えると、学校は途端に、まったく別の場所になる。見知らぬ場所になる。自分が踏み込んではいけない場所になる。


 全ての教室を確認して回った後、私は外に出ようとした。


 出られなかった。


 正面玄関の引き戸に手をかけると、動いた。音もなくスムーズに開いた。しかし一歩踏み出そうとすると、何かに阻まれた。痛くはない。ぶつかった感触もない。ただ、進めなかった。透明な、薄い膜のようなものが、この空間と外界とを隔てていた。目に見えない壁。手で触れると、ひんやりとした感触だけがあった。ガラスとも水とも違う、何とも形容しがたい感触だった。


 こんなこと、ありえない。


 現実ではありえない。


 壁際の時計に目をやった。短針と長針が指している時間は、午後三時ちょうどだった。秒針は動いていなかった。じっと見つめていても、微動だにしない。この空間だけ、時が止まっていた。


 夢を見ているのだと思った。


 起きたら、会社に行く。また残業して、気絶するように眠る。


 教室の前方へ歩いて、黒板に書かれた日付を見た。


 三月三十一日。


 その日付を見た瞬間、胸の奥で、何かが小さく疼いた。


 私は、高校の卒業式に出なかった。


 理由は覚えていない。いや、理由はある。ただ、ここでそれを思い出したくなかった。卒業式の朝、布団の中で天井を見上げて、行けなかった。それだけだ。制服に袖を通すことも、会場に向かうことも、できなかった。


 だから、これは夢なのだろうと思った。


 その未練が見せる、幻の夢。


 きっとそうなのだ、と自分に言い聞かせた。


 しかし、秒針は、やはり動かなかった。


四.



 もう一度、廊下を歩いた。


 今度は確かめるように、ゆっくりと歩いた。体育館への渡り廊下。職員室のドア。保健室。図書室。どれも鍵がかかっていなかった。押せば開いた。しかし中には何もなかった。あるべきものはある。机も棚も本も。ただ、人がいない。


 図書室に入って、一冊の本を手に取った。開いてみると、文字は書かれていた。読もうとした。しかし、なぜだか頭に入ってこなかった。目が文字の上を滑る。何度やっても、意味が結ばれない。


 本を棚に戻した。


 窓の外を見た。校庭が見えた。桜の木が何本か植わっていた。花は咲いていない。しかし枯れてもいない。季節の定まらない、宙吊りの木だった。空の色は白に近い灰色で、太陽がどこにあるのかも分からなかった。影が生じていないから、光の方向も分からない。


 その時、音がした。


 廊下の、どこか遠い方から。


 足音、だった。


 私は息を止めた。


 誰かがいる。この空間の中に、私以外の誰かが、いる。


 足音は近づいてきた。規則的で、ゆっくりとした足音。大人の足音ではないかもしれない。子供の足音、にも聞こえなかった。ただ、確実に近づいてくる。


 図書室のドアが、内側から開いた。


 いや、私がいる側から見れば、外から開いたことになる。


 廊下から、誰かが入ってきた。


 制服を着た、女の子だった。


 セーラー服。白と紺のそれは、どこかの高校の制服のように見えた。歳は十六か十七か、あるいはもう少し上かもしれない。肩まで届かないくらいの黒髪が、少し乱れていた。顔色が悪かった。目の下に、うっすらと影がある。目は二重で、切れ長で、しかし今は、何かを見ているのかいないのか分からないような、焦点の定まらない目をしていた。


 その子は私を見て、止まった。


 私も動けなかった。


 しばらく、互いに見つめ合った。秒針の止まった時計の下で。


「……あなたも、出られないんですか」


 少女は静かに言った。声は低くはなかったが、感情の起伏に乏しい、平坦な声だった。怖がっているのか、諦めているのか、それとも全く別の何かなのか、声だけでは判断できなかった。


 私は、かろうじて頷いた。


 「そうです」と声に出そうとして、声が掠れた。どのくらいここにいたのだろう。水を飲んでいない。しかし不思議と、喉の渇きを意識していなかった。


「そうです」と、もう一度言った。今度は声が出た。「出られません。あなたも?」


 少女は頷いた。感情のない、機械的な動きだった。


「いつから、ここにいるんですか」


 私が聞くと、少女は少しだけ考える素振りをして、言った。


「分かりません。気がついたら、いました」


 私と同じだ。


「名前は覚えていますか」


 聞いてみた。少女の目が、その瞬間だけ、かすかに揺れた。


「……覚えていません」


 やはり、私と同じだった。


 少女は図書室に入ってきて、窓際の椅子を引いて、静かに腰を下ろした。まるでここに来ることが分かっていたかのように、躊躇いなく。


「黒板、見ましたか」


 少女が言った。


「三月三十一日、と書いてありましたね」


 私は答えた。


「私の卒業式は、三月三十一日だったんです」


 少女は窓の外を見ながら、言った。声が、わずかに揺れた。最初の平坦さから、ほんの少しだけ、感情の色が混ざった。


「出なかったんです。式に」


 私は何も言えなかった。


 少女は続けた。


「あの朝、起きられなかった。ちゃんと起きていた。でも、起き上がれなかった。制服を着ることも、靴を履くことも、できなかった。体が動かなかった。気持ちが、動かなかった」


 窓の外の、花の咲かない桜の木が、風もないのに、かすかに揺れた。


「あなたは」と少女が言った。今度は私の方を向いた。「卒業式、出ましたか」


 私は答えるのに、少し時間がかかった。


「出なかった」と、やっと言った。「私も」


 少女の目が、はじめてちゃんと私を捉えた気がした。


 午後三時。


 時計の秒針は、まだ動かない。


 この空間の中に、今、二人の人間がいる。名前も思い出せない、二人の人間が。どちらも卒業式に出なかった人間が。


 何かが始まろうとしているのか、あるいは何かが終わりかけているのか、私には分からなかった。


 ただ、一つだけ分かったことがあった。


 私はもう、ここを一人で歩かなくていい。


 それだけで、少しだけ、秒針が動きそうな気がした。


五.



 少女の名前を、私たちはとりあえず「ミコト」と呼ぶことにした。


 少女が提案した。図書室の棚を眺めながら、ぽつりと言った。


「呼び名がないと、不便ですから。私のことはミコトと呼んでください」


「それは本名ですか」


「違います」


 少女は振り返らずに答えた。


「じゃあ、どうしてその名前を」


「昔、好きだったキャラクターの名前です」


 それだけ言って、少女は一冊の本を棚から抜き取った。開いて、一ページ読んで、また棚に戻した。文字が頭に入ってこないのは、私だけではないらしかった。


「あなたは」少女が言った。「何と呼べばいいですか」


 自分の名前を思い出そうとした。やはり、出てこない。呼ばれていた名前の音の輪郭だけが、霧の中に浮かんでいる気がするのに、掴もうとすると消える。


「……分かりません」


「じゃあ、私が決めていいですか」


「どうぞ」


 少女は少し考えて、言った。


「ナツメ、はどうですか」


「なぜその名前を」


「なんとなく、そんな感じがしたので」


 なんとなく、だ。根拠も理由もない。しかしここには、根拠や理由を求められるほどのものが、何もなかった。時計は止まっている。出口はない。名前もない。それならせめて、呼び名くらいは持っていた方がいい。


「ナツメ、と呼んでください」と私は言った。


 こうして私たちは、ミコトとナツメになった。


---



 図書室を出て、二人で学校の中を歩いた。


 改めて確かめると、この建物は四階建てで、屋上へのドアは鍵がかかっていた。唯一、鍵のかかっているドアだった。地下はなかった。体育館は渡り廊下で繋がっていたが、体育館の外への出口も、やはりあの透明な壁に阻まれた。


「プールは?」とミコトが言った。


 体育館の脇から外に見えるプールは、水が張られていなかった。コンクリートの底が剥き出しになって、端に枯れ葉が数枚積もっていた。しかしそのプールへも、やはり出ることはできなかった。


「出口はない、ということですね」


 ミコトは淡々と言った。怒りも、諦めも、恐怖も、その声からはよく読み取れなかった。


「今のところは」私は言った。


「今のところ、」ミコトが繰り返した。「そうですね。今のところ、は」


 私たちは一階の廊下に戻って、並んで窓の外を見た。校庭。花の咲かない桜。白灰色の空。影のない世界。


「私は」とミコトが言った。「ここが何なのか、少し考えていました」


「どんな考えに至りましたか」


「二つ、可能性があると思っています」少女は人差し指を立てた。細い指だった。「一つ目は、これが夢だという可能性」


「私もそれを考えました」


「二つ目は」ミコトは中指も立てた。「これが夢ではないという可能性」


 私は少し間を置いた。


「それは……どういう意味ですか」


「夢でないとすれば、これはどこかで起きていることです。現実のどこかに、こういう空間がある。あるいは、現実の外側に、こういう場所がある」


 現実の外側。その言葉が、空気の中にしばらく漂った。


「死後の世界、ということですか」


 口に出してから、自分でも少し驚いた。そんなことを、突然、こんなにも平静に言える自分に。


 ミコトは首を傾けた。


「それも含まれるかもしれません。でも、死後の世界にしては、ここはあまりにも中途半端な気がします」


「中途半端?」


「もし死んでいるなら、もっと何か……意味のある場所に連れて行かれる気がしませんか。天国でも地獄でもなく、学校の教室というのは、あまりにも」


「あまりにも、日常的すぎる」


「そうです」ミコトは頷いた。「日常的すぎて、かえって意味ありげです」


 私は黙った。


 日常的すぎて、意味ありげ。それは、確かに、そうかもしれなかった。天井の蛍光灯も、並んだ机も、黒板の粉っぽい匂いも、廊下の床の軋みも。全部が、誰かの日常の一部だ。誰かにとっては当たり前だった場所だ。


 それがなぜ今、こんなにも不気味なのか。


 答えはたぶん、単純だ。人がいないから。


 日常というのは、人がいて初めて日常になる。人が消えた途端に、日常は廃墟になる。


六.



 夜が来なかった。


 どれくらい時間が経ったのか分からないが、窓の外の光は変わらなかった。白灰色のまま、明るくも暗くもなかった。時計は三時を指したまま動かない。


 お腹が空かなかった。眠くもならなかった。喉も乾かなかった。


 その事実に気づいたのは、ミコトだった。


「おかしいですよね」と少女は言った。二人で一年三組の教室に入って、窓側の席と廊下側の席に向かい合わせで座っていた。「時間が経っているはずなのに、何も感じない」


「そうですね」


「生きていたら、絶対に何か感じるはずです。空腹とか、眠気とか」


「夢の中でも、感じないことはありますよ」


「それはそうですが」ミコトは机の上に頬杖をついた。「でも、夢の中では普通、そもそもそういうことを考えません。今の私たちはちゃんと考えています。空腹を感じないということを、ちゃんと認識しています。そのこと自体が、夢らしくない」


 私は少し考えた。


「あなたは、聡明なんですね」


 ミコトは少し目を細めた。嬉しいのか、困っているのか、やはり読めなかった。


「そんなことはないです。ただ、考えるのが癖なんです。考えても意味のないことでも、考えてしまう」


「それは」私は言った。「あなたを、疲れさせませんでしたか」


 少女は答えるのに、少し間を置いた。


「疲れます」と、静かに言った。「毎日、疲れていました」


 毎日。その言葉の重さを、私は自分のこととして受け取った。


「私も」と言った。「毎日、疲れていました」


 窓の外で、花の咲かない桜が、また風もないのにかすかに揺れた。


---



 しばらく、二人は無言で座っていた。


 沈黙は、不快ではなかった。むしろ、妙に自然だった。知り合ったばかりの、名前も本当のところは分からない相手と、こうして黙って同じ空間にいることが、なぜかひどく楽だった。


 会社にいた時、沈黙は怖かった。会議の中で誰かが黙ると、自分が何かを言わなければならない気がした。取引先と廊下で目が合うと、何か話題を振らなければと焦った。沈黙は、自分の無能さを証明するものだと、いつの頃からか信じ込んでいた。


 しかしここでは違う。


 ミコトと並んで黙っていることが、会話をしているよりも、むしろ豊かな時間のように感じた。


「一つ、聞いていいですか」


 沈黙を破ったのは、ミコトだった。


「どうぞ」


「卒業式、なぜ出なかったんですか」


 少女は机の木目を指でなぞりながら、聞いた。私を見ていなかった。だから、聞きやすかったのかもしれない。


 私は少し考えた。


「……分からないんです」と答えた。「理由は、あります。あった。でも、今、うまく言葉にならない」


「言葉にならなくていいです」


「でも、あなたが聞いてくれたから」


「聞きました。でも、言葉にしなくていいです」ミコトは指を止めた。「あなたの顔を見れば、なんとなく、分かる気がするから」


 私は少し笑った気がする。笑えたのかどうか、自分では分からなかった。


「あなたは?」と聞いた。「なぜ出なかったんですか、卒業式」


 今度は私も、ミコトを見なかった。窓の外の、枝ばかりの桜を見ていた。


「私は」ミコトは少し間を置いた。「疲れていたからだと思います」


「何に」


「全部に」


 その答えは、とても短くて、とても広かった。


「全部に疲れて、学校を辞めて、ちゃんと卒業はしたんですけど、式に出る気力がなかった。出たいとも思わなかった。出たくないとも思わなかった。ただ、どうでもよかった」


「私も、そうだったかもしれない」


「卒業式って、大事なんですかね」


「大事、なんでしょうね。たぶん」


「でも、出なかった」


「出なかった」


 私たちは同時に、ほとんど同じトーンで、同じことを言った。そしてまた、沈黙した。今度の沈黙には、わずかに、苦さが混じっていた。苦いけれど、悪くない種類の苦さだった。


七.



 変化が起きたのは、どれくらい経ってからだろう。


 時計が止まっているから分からない。しかし、二人で図書室に戻って、どちらからともなく本を手に取って、読めないその本のページをただめくっていた頃のことだった。


 音がした。


 チャイム、だった。


 高い音から低い音へ、四つの音が鳴る、あのチャイムだ。授業の終わりを告げる、あのチャイム。学校に通っていた頃に、何千回も聞いたはずの、その音。


 私とミコトは顔を見合わせた。


 チャイムが鳴り終わった後、しばらく静寂があった。


 それから、廊下に、音がした。


 足音、だった。しかし今度は一人分ではなかった。複数の、様々な重さと速さを持つ足音が、あちこちから聞こえてきた。ざわめきのような声も混じっている。何を言っているのかは分からない。水の中から聞こえてくるような、輪郭のぼやけた声たちだった。


「……誰かが来た?」


 ミコトが言った。声が、わずかに緊張していた。


 私は図書室のドアに近づいた。ガラスの嵌まった四角い小窓から、廊下を覗いた。


 誰もいなかった。


 しかし、音はしている。足音も、声も、確かに聞こえている。


「見えない」と私は言った。「でも、いる。音だけが、する」


 ミコトも近づいてきて、小窓を覗いた。


「……幽霊みたい」


 少女は静かに言った。皮肉なのか、本気なのか分からない口調で。


「幽霊はどちらですか。私たちですか、それとも向こうですか」


 私が言うと、ミコトは少しだけ眉を動かした。


「……それは、考えたことがありませんでした」


 チャイムが鳴る前は、この学校に足音はなかった。声もなかった。それが今、突然聞こえ始めた。つまり、変化はこちら側ではなく、向こう側に起きたのかもしれない。


 あるいは、本当に私たちが幽霊で、向こうが現実なのかもしれない。


 足音と声は、しばらく続いて、また消えた。次のチャイムが鳴ったのか、それとも別の理由なのか。とにかく、また静寂が戻った。


 ただ一つだけ、変化していることがあった。


 時計の秒針が、動いていた。


 私が最初に確認した時、確かに止まっていた。しかし今、その秒針は、ゆっくりと、しかし確実に、動いていた。


「ミコト」


 私は呼んだ。少女が振り返る。私は時計を指差した。


 ミコトは時計を見て、少しの間、黙った。


「動いていますね」と言った。


「チャイムの後から、だと思います」


「何かが変わった」


「何かが」


 短針と長針は、まだ三時を指していた。しかし秒針は動いている。ここの時間は動き始めている。どこへ向かうかは分からないが、止まっていた何かが、動き始めた。


---



 ミコトが、ふと言った。


「あの声、何を話していたか分かりましたか」


「聞き取れませんでした」


「私も。でも、一言だけ」少女は窓の外を見た。「一言だけ、聞き取れた気がします」


「何と」


 ミコトは少し躊躇った。それから、静かに言った。


「『おめでとう』と、聞こえた気がします」


 私は、胸の中で何かがゆっくりと揺れるのを感じた。


 おめでとう。


 卒業おめでとう。


 学校の中に響いていた、あの水底からのような声たちは、そう言っていたのかもしれない。出席した者たちが、そう言い合っていた式の声が、今になって、ここまで届いたのかもしれない。


 出なかった卒業式の声が、出られなかった場所の中に閉じ込められた私たちのところまで、やっと届いた。


「……おめでとう」


 私は呟いた。誰に向けてかも分からなかった。ミコトに向けてかもしれないし、自分に向けてかもしれないし、あるいは、もうここにはいない誰かに向けてかもしれなかった。


 ミコトは何も言わなかった。ただ、窓の外を見ていた。


 桜の枝の先端に、白いものがあった。


 最初は見間違いだと思った。しかし、確かにある。小さな、白い、丸いもの。


 蕾だった。


 花の咲かなかった桜に、一つだけ、蕾が生まれていた。


 時計の秒針は、静かに、着実に、動き続けていた。


八.



 蕾は、一つから二つになり、二つから十になり、気がつけば枝という枝を白く縁取っていた。


 私たちは黙って、それを見ていた。


 時間の感覚が戻ってきたのか、少しだけお腹が空いた気がした。眠いとまでは言えないが、体が少し重くなった気がした。人の体に時間が戻りつつあるのかもしれなかった。


「ナツメさん」とミコトが言った。


「なんですか」


「もし出られたら、どうしますか」


 私は少し考えた。


「会社に行く、と最初は思っていました」


「最初は?」


「今は、少し違うかもしれない」


「どう違いますか」


 窓の外の蕾を見ながら、私は言った。


「少しだけ、休んでもいいかもしれない、と思っています」


 ミコトは何も言わなかった。しかし、頷いた気がした。


「あなたは?」と聞いた。


「私は」少女は少しの間、間を置いた。「まだ分かりません。でも、ここを出たら、少しだけ遠回りしようと思います」


「どういう意味ですか」


「まっすぐ帰るのではなく。どこか、行ったことのない道を歩いて帰ろうかと」


 そのイメージが、なぜか私の胸に、すとんと落ちた。まっすぐ帰らない。遠回りする。寄り道をする。それだけのことなのに、私はずっと、そういうことをしてこなかった気がした。会社と家の往復。会社と取引先と家。そのどこかに、寄り道はなかった。


「いい考えだと思います」


「一緒に来ますか」とミコトが言った。それから、少し間を置いて付け加えた。「もし、良ければ」


 私は少女を見た。少女は窓の外を見ていた。その横顔が、さっきよりも、少しだけやわらかく見えた。


「ご一緒します」と私は言った。「もし出られたら」


「出られますよ」ミコトは言った。確信の、ある声だった。「きっと、もうすぐ」


 その瞬間、廊下の方から、またチャイムが鳴った。


 今度は、さっきとは違う音だった。一つの音が、長く、まっすぐに伸びた。


 正面玄関の方から、かすかに、光が変わった気がした。


 私たちは同時に立ち上がって、廊下へと歩き出した。


 窓の外では、蕾が一つ、開こうとしていた。


 まだ三月三十一日の、午後三時だった。


 しかし今、秒針は動いている。


 そしてたぶん、出口も。


九.



 廊下を歩きながら、光の変化を追った。


 正面玄関の方角から、それは来ていた。さっきまでの白灰色とは違う、温度を持った光だ。オレンジに近い、夕方の光。しかし時計は三時を指している。辻褄は合わない。しかしここに来てから、辻褄の合わないことなど、いくらでもあった。


 私が先を歩いて、ミコトがその少し後ろをついてくる。


 廊下の床が、さっきよりも鮮明に軋んだ。音の輪郭がはっきりしている。感覚が戻ってきている、という気がした。さっきまで、ここにある全てのものが、薄い膜の向こう側にあるような感触だった。しかし今は違う。黒板の匂いが、ちゃんと鼻に届く。廊下の壁の、冷たいコンクリートの感触が、指先にちゃんと伝わる。


「触ってみます」


 ミコトが私の隣に並んで、引き戸に手を伸ばした。細い指が、ガラスに触れる。それから、取っ手を掴んで、静かに引いた。


 ドアが、開いた。


 音もなく、抵抗もなく、スムーズに。


 一歩踏み出す前に、私たちは互いに顔を見合わせた。何かを確認するように。あるいは、ここにいた時間に、小さな別れを告げるように。


 ミコトが先に出た。


 私が続いた。


 透明な壁は、もうなかった。


---



 外に出た瞬間、風が来た。


 冷たくはなかった。温くもなかった。三月の終わりの、春と冬の境目にある、あの曖昧な温度の風だった。


 空は夕方だった。時計は三時を指していたのに、外の空は確かに夕暮れに向かっていた。西の方角が、薄いオレンジとピンクに滲んでいた。東はもう、紺色の気配が混じっていた。


 校門の前に、桜の木があった。


 満開だった。


 建物の中から見えていた桜とは別の木だ。校門の脇に一本、どっしりと根を張った大きな木。その枝全体が、白に近い薄桃色の花で埋め尽くされていた。風が吹くたびに、花びらが数枚、ゆらゆらと落ちてきた。


 ミコトが立ち止まって、その木を見上げた。


 私も隣に立って、見上げた。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。言葉が要らなかった。この木が今ここで咲いていることの意味を、どちらも、うまく言語化できなかった。ただ、咲いている。それだけで十分だという気がした。


「綺麗ですね」


 ミコトが言った。感情の乏しかった声に、確かな温度があった。


「綺麗ですね」と私も言った。


 花びらが一枚、ミコトの肩に落ちた。少女はそれを指で摘まんで、しばらく眺めて、それから空に向かってそっと放した。


十.



 校門を出ると、街があった。


 人がいた。車が走っていた。自転車が通り過ぎた。遠くで犬が鳴いた。どこかの家から、夕飯の匂いがした。


 当たり前のことが、当たり前にそこにある。


 それが、あんなにも、途方もなく美しく見えた。


 私は立ち止まって、しばらくその景色を眺めた。通り過ぎる人たちは誰も、私たちに気を留めない。当然だ。私たちは彼らにとって、ただ校門の前に突っ立っている二人に過ぎない。しかし私には、その無関心が、ありがたかった。誰も私たちの出どころを問わない。どこから来たのかを問わない。


「どちらに歩きますか」


 ミコトが言った。校門の前の道は、左右に伸びている。どちらに行っても、たぶんどこかに繋がっている。


「あなたが決めていいですよ」


「では」少女は少し空を見て、「西に行きましょう。夕日の方向に」


 理由はそれだけだった。しかしそれで十分だった。


 私たちは西へ歩き始めた。


---



 街の中を、特に目的地を決めずに歩いた。


 商店街を抜けて、住宅街に入って、小さな川に沿った道を歩いた。川べりにも桜が植わっていて、水面に花びらが幾枚も浮かんでいた。川はゆっくりと流れていた。花びらもゆっくりと流れた。


 ミコトは時々、立ち止まった。


 何でもないものに、立ち止まった。


 古い郵便ポストの赤い色。植木鉢に植えられた、名前も知らない小さな花。塀の上でうとうとしている猫。どれも、特別なものではない。しかし少女は、それらの前でしばらく立ち止まって、じっと見た。何かを確かめるように。あるいは、こういうものが世界にあることを、改めて認識するように。


 私は、急かさなかった。


 ミコトが止まれば私も止まった。ミコトが歩き始めれば私も歩いた。


 そのうち、私も気がついた。当たり前の景色の中に、今まで見ていなかったものが、いくつもあることに。会社と家を往復していた時には、何も見ていなかった。目には映っていたかもしれないが、見てはいなかった。


 川べりのベンチに、老人が一人座っていた。川を見ながら、何かを食べていた。菓子パンのようなものを、ゆっくりと、丁寧に食べていた。それだけのことが、なぜか、ひどく尊いものに見えた。


 ゆっくり食べている。


 私は、最後にいつ、ゆっくり食べたのだろう。


---



 川沿いの道をしばらく歩くと、小さな神社があった。


 鳥居の朱が、夕日を受けて深い赤になっていた。境内には誰もいなかった。しかし今度の「誰もいない」は、あの学校の「誰もいない」とは全く違った。ここは、人がいる可能性のある場所だ。ただ今この瞬間、誰もいないだけだ。そのわずかな違いが、これほどまでに気持ちを変えるとは思わなかった。


 ミコトが鳥居をくぐった。


 私もくぐった。


 砂利を踏む音が、静かな境内に響いた。本殿の前まで来て、二人でしばらく立った。


「お参りしますか」とミコトが言った。


「しましょうか」


 小銭は持っていなかった。そもそも私たちは、財布も鞄も何も持っていない。ここに来た時のまま、手ぶらだ。しかしミコトは躊躇いなく賽銭箱の前に立って、お金のない手を合わせた。


 私も並んで、手を合わせた。


 何を願うか、少し考えた。


 何も願わなかった。


 ただ、手を合わせていた。感謝なのか、報告なのか、それとも何でもないのか、自分でもよく分からないまま、ただ手を合わせていた。


 するとミコトが、目を閉じたまま、静かに言った。


「ここを出られたことを、お礼しました」


「何に向けてのお礼ですか」


「分かりません。でも、何かに向けて、したくなりました」


 私は少し笑った。今度は確かに笑えた気がした。


「私も同じにします」


 目を閉じた。暗闇の中で、あの教室を思った。止まっていた秒針を。花の咲かなかった桜を。蕾が生まれる瞬間を。チャイムの音を。水底から届いたような「おめでとう」という声を。


 ありがとう、と思った。何に向けてかは分からないまま。


十一.



 神社を出て、また歩いた。


 日が暮れかけてきた。空のオレンジが濃くなって、街に影が長く伸びていた。


「そろそろ、別れる時間かもしれませんね」


 ミコトが言った。感傷もなく、しかし寂しさのない声でもなかった。


「そうですね」私は言った。


「どちらに帰りますか」


「分からないんです」私は正直に言った。「自分がどこに住んでいるのかが、まだはっきりしなくて」


「私もです」ミコトは少し考えて、「でも、たぶん、歩いていたら思い出す気がします」


「そうかもしれませんね」


 それはなんとなく、本当のことのように思えた。自分の名前は思い出せないままだが、足はたぶん、帰るべき場所を覚えている。体というのはそういうものだ、という気がした。


「またどこかで会いますか」


 ミコトが言った。


 私は少し間を置いた。


「あの教室に閉じ込められている時、出られたら会社に行くと思っていました」


「今は?」


「今は、少し違う場所に行くかもしれません」ゆっくりと言った。「どこかは、まだ分からないけれど」


「どこかへ行く、ということは決めているんですね」


「あなたの言っていた遠回り、というのを、私もしようと思っています。ずっと」


 ミコトは少しの間、私を見た。目の下の影は、まだある。しかし目の中に、さっきよりも光がある気がした。


「また会えるといいですね」と少女は言った。


「会えると思います」私は言った。「なんとなく」


「なんとなく、は大事ですね」


「大事です」


 ミコトは小さく頷いた。それから、道の分岐点で、右の方へ一歩踏み出した。


「お気をつけて、ナツメさん」


「あなたも、ミコト」


 少女は振り返らずに歩いていった。制服の背中が、夕暮れの街に溶けていった。角を曲がって、見えなくなった。


 私はしばらく、その角を見ていた。


 それから、左の方へ歩き始めた。


十二.



 歩きながら、少しずつ、記憶が戻ってきた。


 断片的に、順番もなく、戻ってきた。


 アパートの郵便受けの番号。部屋の鍵の重さ。洗い場に干しっぱなしにしていたタオルの色。冷蔵庫の中に、たぶん期限切れになっているヨーグルトがある。


 会社のことも、少し戻ってきた。


 上司のことを思った。お菓子を箱ごとくれた人のことを。明日、あの人に連絡しなければならない、と思った。メールでも電話でも、とにかく。長い間、休みますと。もしかすると、もっと正直に言う必要があるかもしれない。ずっとこのままでは続けられない、ということを。


 それが怖いかと言えば、怖い。


 しかし、あの教室を思い返すと、その怖さが少しだけ小さくなる気がした。


 秒針が止まった時計の中で、それでも時間は動き始めた。花の咲かなかった桜が、蕾をつけた。出られないと思っていた場所から、出られた。


 そういうことが、あった。


 私はそれを、知っている。


---



 角を曲がると、見覚えのある通りがあった。


 スーパーマーケットが見えた。いつも閉店間際に、半額シールの貼られた惣菜を買っていた店だ。今日は、まだ閉店時間ではない。棚の上に、ちゃんと定価の惣菜が並んでいる。


 私はスーパーに入った。


 特に何かが食べたいわけではなかったが、何かを、ちゃんと選んで買おうという気になった。レジ前の棚に、総菜コーナーがあった。幕の内弁当があった。刺身があった。春巻きがあった。


 私は春巻きを手に取った。それから、ご飯のパックを取った。豆腐も取った。みそ汁のインスタントも取った。


 レジに並んで、会計をした。


 店員が「ありがとうございました」と言った。


 私も「ありがとうございます」と言った。


 それだけのやり取りが、なぜか、胸に沁みた。


---



 アパートに着いた。


 郵便受けに、郵便物が溜まっていた。どれくらいの間、開けていなかったのだろう。あの教室にいた時間が、現実の時間とどう対応しているのか、まだ分からなかった。


 部屋に入った。


 電気をつけた。


 見慣れた部屋だった。散らかっていた。床に脱いだまましの服がある。テーブルの上に空のペットボトルが並んでいる。洗い場のタオルは、やはり干しっぱなしだった。


 しかし、帰ってきた、という感覚があった。


 今まで、帰ってきたという感覚を、持てていたのだろうか。気絶するように眠って、気絶するように起きて、会社に行く。その繰り返しの中で、この部屋は、ただの眠る場所だった。


 テーブルの上のペットボトルを片付けた。床の服を洗濯機に入れた。


 それだけのことを、した。


 全部片付けようとは思わなかった。できる分だけ、した。


 買ってきた春巻きを皿に乗せて、豆腐を器に出して、インスタントのみそ汁にお湯を注いで、ご飯のパックをレンジで温めた。


 テーブルの前に座って、食べた。


 ゆっくり食べた。


 春巻きが、熱かった。パリパリしていた。外はパリパリで、中にはとろっとした餡が入っていた。豆腐は冷たくて、柔らかかった。みそ汁は、安っぽい味がしたが、塩っぽくて、温かかった。


 全部、ちゃんと味がした。


 食べながら、窓の外を見た。夜になっていた。アパートの向かいのビルの窓に、いくつか灯りがついている。誰かがそれぞれの部屋で、それぞれの夜を過ごしている。


 私も今、私の夜を過ごしている。


 その当たり前のことが、今夜だけは、特別なことのように感じた。


---



 食事を終えて、食器を洗った。


 それから、風呂を沸かした。


 久しぶりに、ちゃんとお湯に浸かった。


 湯船の中で、天井を見上げた。白い天井だった。あの教室の天井とよく似ていたが、違った。この天井には、年月の積み重なりがある。シミがある。角の隅に、薄くカビが生えかけている。生活の痕跡がある。


 それが、愛おしかった。


 ミコトのことを考えた。今頃どこにいるのだろう。ちゃんと帰り着けただろうか。家で、何かを食べているだろうか。


 たぶん、大丈夫だという気がした。あの子は、ちゃんと歩ける。止まることも知っているが、歩くことも知っている。


 それに、また会う気がした。


 根拠はない。しかし、あの教室を出た時に持った「なんとなく」と同じ種類の確信だった。なんとなく、また会う。なんとなく、大丈夫だ。


 なんとなく、は大事だとミコトが言っていた。


 私もそう思う。


十三.



 翌朝、目が覚めた。


 アラームより少し前に、目が覚めた。


 天井を見上げた。自分の部屋の天井だった。シミがある、見慣れた天井だ。夕べ風呂で見た天井と同じ天井だ。


 体が重かった。


 しかし、重さの種類が違った。疲弊した重さではなく、眠れたことによる重さだった。体がちゃんと休んだという、あの重さだ。


 スマートフォンを手に取った。


 着信が何件もあった。会社からも、上司からも。メッセージも来ていた。心配している、という内容のものもあった。


 私はしばらく、それらを眺めた。


 それから、上司にメッセージを返した。


 長くは書かなかった。ご心配をおかけしました、少し休ませてください、詳しくはまた連絡します、と、それだけ書いた。


 送信した。


 少し、手が震えた。


 しかし、後悔はなかった。


 窓の外を見ると、朝の光が差していた。よく晴れた朝だった。アパートの前の通りに、桜の木が一本あることを、今まで意識したことがなかった。しかし今朝は、それが目に入った。


 満開だった。


 昨日の夕方から咲いていたのかもしれない。あるいはもっと前から咲いていたのかもしれない。ただ、私が見ていなかっただけで。


 窓を開けた。


 冷たい朝の空気が入ってきた。桜の匂いがした。花びらが二枚、窓から部屋に入ってきて、床に落ちた。


 私はそれを拾わなかった。


 しばらくそのままにしておこうと思った。


---



 コーヒーを入れた。


 インスタントのコーヒーだったが、ちゃんとカップに入れて、テーブルの前に座って飲んだ。


 スマートフォンに、上司から返信が来ていた。


 短いメッセージだった。


「ゆっくり休んで」


 それだけだった。


 私はそのメッセージを、しばらく見つめた。


 どこまでが本音なのだろう、とまた思った。しかし今回は、その問いの立て方が間違っている気がした。本音かどうかなんて、関係ないのかもしれない。ゆっくり休んで、と言われたなら、ゆっくり休む。それだけでいい。


 コーヒーを飲んだ。


 温かかった。


 少し苦かった。


 それから、窓の外の桜を見ながら、今日どこに行こうかと考えた。


 特に行くべき場所はない。しかし、どこかに行ける。それが今日の、私に与えられた自由だった。


 ミコトが言っていた。遠回りをしようと。


 私も、今日は遠回りをしようと思った。


 どこへ向かうかは、歩きながら決める。きっと、足が覚えている道がある。あるいは、今まで一度も歩いたことのない道がある。どちらでもいい。


 コーヒーを飲み終えた。


 立ち上がった。


 床に落ちた桜の花びらが、二枚、並んでいた。


 私はそれをそっと摘まんで、窓の外へと放した。


 花びらは風に乗って、くるくると舞いながら、街の方へ消えていった。


 四月が、始まろうとしていた。


──完──

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