表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/11

11月 別れ

【十一月:崩壊 —— 硝子の恋が砕ける音】


 木枯らしが街路樹を揺らし、

 カサカサと乾いた音を立てて枯葉がアスファルトを舞う。

 放課後の公園。

 人影もまばらなベンチに座る僕の隣には、

 分厚いマフラーに顔を埋めた日本一のアイドル——芦田由綺がいた。


「……久しぶりだね、冬也くん。

 一ヶ月、ぶりかな?」


 マフラー越しに届く彼女の声は、少しだけ鼻声で、震えていた。

 由綺は忙しい。テレビをつければ彼女が笑い、

 雑誌をめくれば彼女がこちらを見つめている。

 けれど、僕の隣に座っている今の彼女は、どこか色が透けてしまいそうなほどに儚い。


「うん。

 ……忙しいのに、ごめん。

 どうしても今日、話したくて」


 僕は自分の膝の上で拳を握りしめた。

 十月のあの夜。

 舞台袖で美咲先輩を抱きしめ返したあの日から、僕の心の中にはもう、

 由綺の居場所は残っていなかった。

 いや、本当はもっと前から、僕と彼女の間には「時間」という名の溝が

 深く刻まれていたのかもしれない。


「いいんだよ。

 冬也くんに会えるなら、私、マネージャーさんに怒られたって平気だもん」


 由綺が無理に作った明るい声で笑う。

 その笑顔が、今の僕には何よりも辛かった。

 彼女は何も悪くない。

 ただ一生懸命に夢を追いかけ、

 その合間に、僕という「普通の小学生」との恋を大切に守ろうとしていただけなのに。


「由綺」


「なあに?」


「……僕たち、もう終わりにしよう」


 風が止まった。

 世界から音が消え、ただ僕の心臓の音だけがドクドクと耳元でうるさく鳴っている。

 由綺は、動かなかった。

 ただ、遠くで点滅する歩行者用の信号機をじっと見つめている。


「……そっか。

 やっぱり、そうだよね」


 彼女の声は、驚くほど静かだった。

 泣き叫ばれる覚悟はしていた。

 責められる準備もしていた。

 けれど、彼女が漏らしたのは、すべてを悟っていたかのような、溜息に似た言葉だった。


「ごめん。

 ……本当に、ごめん」


「謝らないで、冬也くん。

 悪いのは私。

 ……私、全然彼女らしいこと、してあげられなかったから。

 寂しい思いばかり、させて……。

 冬也くん、まだ小学六年生だもんね。

 もっと近くにいて、一緒に遊んでくれる人がいいよね」


 由綺がゆっくりと顔を上げ、僕を見た。

 その瞳は潤んでいるのに、涙は一滴もこぼれ落ちない。

 彼女は「プロのアイドル」として、悲しみさえも

 美しくコントロールしてしまっているようだった。

 それが、僕たちの住む世界の決定的な違いを突きつけてくる。


「由綺は、すごすぎるんだ。

 画面の中にいる君は、誰よりも輝いていて……

 でも、僕が本当に冷たい時に手を握ってくれるのは、君じゃなかった」


 僕の脳裏に、美咲先輩の温もりが蘇る。

 演劇部の部室の匂い。

 舞台袖の暗がり。

 僕を「冬也くん」と呼ぶ、少し大人びた、でも危うい彼女の声。


「……好きな人が、できたんだね。

 その人のこと」


 由綺の問いに、僕は答えることができなかった。

 ただ、黙ってうつむくことしかできない。

 それが肯定であることは、彼女にも伝わったはずだ。


「……そっか。

 ごめんね、冬也くん」


 由綺は、僕の頭にそっと手を置いた。

 五月に初めてキスをした時のような、甘くて切ない指先の感触。

 でも、もうその温もりにすがる資格は僕にはない。


「バイバイ、冬也くん。

 ……短い間だったけど、私、本当に君のことが好きだったよ。

 君の前だけでいいから、『芦田由綺』じゃなくて、

 ただの女の子になりたかった」


 由綺は立ち上がり、一度だけ悲しげに微笑むと、

 迎えの車が待つ大通りへと歩き出した。

 その背中が、街灯の光に溶けていく。

 僕は一人、冷たくなったベンチに残された。


 日本一のアイドルを振った。

 誰からも羨まれるはずの幸せを、僕は自らの手で捨てた。

 最低だ。

 僕は、本当に最低な男だ。


 ポケットの中で、スマホが震える。

 美咲先輩からの、何気ない連絡。

『明日の部活、衣装の直し手伝ってくれるかな?』


 その文字を見た瞬間、僕の目から熱いものがこぼれ落ちた。

 由綺を傷つけ、自分も傷つき、

 それでも僕は、あの年上の少女がくれる「生きた温もり」を求めてしまう。


 十一月の空は、どこまでも高く、暗い。

 僕は涙を拭い、戻ることのできない一歩を踏み出した。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ