十月 学園祭舞台
【十月:学園祭舞台 —— 幕が下り、境界線が消える時】
十月の夕暮れは、酷く感傷的だ。
校舎の影が長く伸び、金木犀の香りが、
熱を帯びた学園祭の喧騒に混じって鼻腔をくすぐる。
演劇部の公演が行われている体育館は、熱気と、
どこか浮き足立ったような緊張感に包まれていた。
舞台袖の暗がり。
重い幕の裏側で、僕はじっと彼女を見つめていた。
ライトを浴びる桑島美咲先輩は、
僕の知っている「近所の優しいお姉さん」ではなかった。
声を張り、全身で感情を表現するその姿は、
痛々しいほどに美しく、残酷なほどに遠い。
「……綺麗だ」
無意識に、言葉がこぼれた。
僕の教室、隣の席には芦田由綺がいる。
日本中で知らない人はいない、あの「チャイドル」の由綺。
彼女の美しさは完成された宝石のようだけど、
今の美咲先輩は、今にも壊れてしまいそうな硝子細工の煌めきを放っていた。
物語がクライマックスを迎え、割れんばかりの拍手が体育館を揺らす。
幕が下りる。
その瞬間、ステージの魔法が解け、あたりは一転して、
小道具の木材の匂いと埃っぽさが漂う「現実」へと戻った。
演者たちが安堵の表情で舞台裏に雪崩れ込んでくる。
九瀬は「大成功だな!」と誰かとハイタッチを交わしていたけれど、
僕の目は一人、肩で息をついている美咲先輩だけを追っていた。
「美咲先輩……」
声をかけると、彼女がこちらを振り向いた。
舞台メイクで少し大人びた顔。
汗で張り付いた前髪。彼女の瞳には、まだ舞台の熱狂の残滓が揺らめいている。
次の瞬間、美咲先輩がふらりと僕の元へ歩み寄り、
そのまま僕の小さな体に倒れ込むようにして抱きついてきた。
「――っ!?」
細い腕が、僕の首に回される。
衣装越しに伝わってくる、彼女の激しい鼓動。
そして、耳元で漏れる熱い吐息。
「ありがとう、冬也くん。
……君がいてくれたから、私、最後まで頑張れたよ……」
震える声だった。
彼女の体温が、僕の制服を通じて心臓まで溶け込んでくる。
石鹸の香りと、舞台衣装の古い布の匂い。
そして、彼女自身の「女」を感じさせる甘い匂い。
それは、クラスメイトの由綺と交わす、
どこか義務的で無機質な「アイドルとの付き合い」では決して得られない、
生々しい熱だった。
「先輩、僕は……ただ、手伝いをしていただけで……」
「ううん。
客席に君の顔が見えるだけで、心が温かくなったの。
不思議だよね、中学生でもない、
まだほんの子供の君に、こんなに救われてるなんて」
――子供。
その言葉が、僕の胸を刺した。
美咲先輩にとって、僕はきっと、
守ってあげなきゃいけない「可愛い弟分」に過ぎない。
頭を撫でられ、よしよしと慰められる対象。
でも、今の僕を支配しているのは、そんな純粋な親愛の情ではなかった。
ポケットの中で、スマホが震えた。
きっと由綺からのメッセージだ。
『今から仕事だよ』とか、『寂しいな』とか、そんな内容だろう。
でも、今の僕には、その画面を確認する指先すら動かせなかった。
僕は、無意識に彼女の背中に腕を回していた。
高校一年生の、僕より少しだけ高い背中。
強く、強く、指先が白くなるほど抱きしめ返した。
「冬也、くん……?」
戸惑ったような彼女の声。
それでも、僕は腕を解かなかった。
柔らかい彼女の体が僕の胸に押し付けられ、二人の境界線が曖昧になっていく。
この瞬間、僕は確かに「弟」であることを辞めたのだ。
たとえこれが、一時の高揚感が見せた幻影だとしても。
僕が抱いているのは、人気者の由綺ではなく、
今、目の前で震えているこの孤独な一人の少女なんだと、叫びたかった。
「……もう、戻れませんよ。 先輩」
小さな声で呟いた言葉は、喧騒にかき消された。
美咲先輩は何も言わず、ただ僕の腕の中で、その身を預け続けていた。
体育館の外では、冷たい秋の風が吹き始めている。
このぬくもりを知ってしまった僕に、
もう、あの教室の日常へ戻る術は残されていなかった。




