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九月 舞台練習

【九月:スポットライトの陰で】


 九月。

 二学期のチャイムと共に、世界は少しだけ色を失ったように見えた。

 校庭の隅に咲く向日葵は首を垂れ、

 アスファルトには夏の死骸がこびりついている。

 けれど、僕の心臓だけは、不規則な鼓動を刻み続けていた。


 放課後。

 ランドセルを教室に放り出すような勢いで、僕はいつもの「聖域」へと向かう。

 隣接する高校の、埃っぽい裏門。

 そこを抜ければ、大好きな人が待つ講堂がある。


「あ、冬也くん。

 今日も来てくれたのね」


 舞台袖の薄暗がりの中、作業灯の淡い光に包まれて、美咲先輩が笑った。

 演劇部の学園祭公演に向けた稽古は、佳境を迎えていた。

 先輩はヒロイン役として、連日遅くまで台本と格闘している。


「明は、また女子高生たちに愛想を振りまいてますよ。

 僕は、こっちの修理の方がいいから」


 僕は使い慣れた工具を手に取り、壊れかけた木製のベンチ――

 劇中で使われる小道具――の前に座り込む。

 釘を打つ音、ペンキの匂い。

 すぐそばで聞こえる、先輩が台詞をなぞる囁き声。

 この場所には、由綺のいる世界にはない「生活の音」と「体温」があった。


 作業の合間、ポケットの中でスマホが震えた。

 画面を見ると、由綺からのメッセージが表示されている。


『由綺:冬也くん、ごめんね。今日の夜の通話、無理になっちゃった。

 新曲の振り入れが全然終わらなくて……。寂しいけど、頑張るから』


 一分後、さらに通知。

『由綺:本当は、今すぐ飛んでいきたい。……大好きだよ』


 かつての僕なら、その言葉だけで天にも昇る心地だっただろう。

 けれど今の僕は、その熱烈な告白を、

 どこか遠い国のニュースのように眺めていた。

 僕が返したのは、短く、味気ない言葉。

『冬也:わかった。無理しないで。頑張ってね』


 打ち終えた瞬間、画面を閉じる。

 指先が、流れるように次の入力を始める。

 宛先は、すぐ数メートル先にいる人だ。


『冬也:先輩、さっきのシーンの台詞合わせ、僕で良ければ付き合いますよ』


 顔を上げると、少し離れたところで台本を抱えていた美咲先輩が、

 自分のスマホを見て「あ」と小さく声を上げた。

 彼女は顔を輝かせ、トコトコと僕のもとに駆け寄ってくる。


「いいの?

 冬也くん、自分の作業もあるのに」


「先輩が完璧な舞台を作るのが、僕の仕事ですから」


「ふふ、頼もしい。

 じゃあ……この、告白のシーン。

 冬也くん、相手役やってくれる?」


 夕闇が講堂を飲み込み、ステージの上だけが不思議な静寂に包まれる。

 僕たちは舞台中央、半分だけペンキを塗ったベンチに座った。


「……ねえ。

 私、あなたの前では、うまく笑えないの」


 先輩の声が、役になりきった震えを帯びる。

 僕の手を、先輩の細い指が包み込んだ。

 それは八月の海で見せたような、すがるような熱さを持っていた。


「舞台の上なら、誰にだってなれる。

 でも、あなたに見つめられると、私はただの……

 臆病な女の子に戻っちゃう。

 ……答えて。

 あなたは、誰を見ているの?」


 台本の台詞だ。

 そう分かっているのに、僕の喉は引き攣るように絞まった。

 先輩の瞳が、至近距離で僕を射抜く。

 そこには、役としての感情と、

 それを超えた何かが混ざり合っているように見えた。


「僕は……」


 台詞を言わなきゃいけない。

 けれど、言葉が出てこない。

 僕が今、見ているのは誰だ?

 液晶の中で華やかに笑う、国民的アイドルの恋人か。

 それとも、今、目の前で僕の手を握り、

 必死に「自分」を保とうとしているこの人なのか。


「冬也くん……?」


 先輩が、役を降りた声で僕を呼ぶ。

 その瞬間、僕は気づいてしまった。

 僕が今、由綺に返している『頑張って』という言葉は、ただの「義務」だ。

 そして、この場所に通い詰め、

 先輩の役に立とうとするこの衝動こそが、僕の「真実」なのだと。


「……先輩。

 僕は、ここにいます。

 どこにも行きません」


 それは台本にはない言葉だった。

 美咲先輩は、驚いたように目を見開き、それから泣きそうな顔で微笑んだ。

 彼女は僕の肩に、そっと自分の頭を預ける。

「……ありがとう。

 冬也くん。

 君といると、私、自分が『桑島美咲』だってことを……

 忘れないでいられる気がするの」


 制服越しに伝わる、柔らかな重み。

 由綺のキスの味は、もう思い出せない。

 ただ、この九月の生温い空気の中で、

 先輩の髪から漂うシャンプーの匂いだけが、僕の全神経を支配していた。


 スポットライトの当たらない、舞台の陰。

 僕は、日本中を敵に回すような裏切りを、自分の中で正当化し始めていた。

 遠くで輝く星よりも、隣で震える火を。

 僕は、自分の指が美咲先輩へのメッセージを綴るたびに、

 由綺という少女の心を殺しているのだと知りながら――

 それでも、止まることはできなかった。

「……もう一回、最初からやりましょうか」


「うん。

 ……今度は、最後まで離さないでね」


 二人の影が、誰もいない客席へと長く伸びていく。

 僕たちは、嘘と本当の境界線で、危ういダンスを踊り続けていた。



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