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八月 海

【八月:陽炎に焼かれる純真】


 八月の太陽は、容赦というものを知らなかった。

 アスファルトからは陽炎が立ち昇り、世界をぐにゃりと歪めている。

 それはまるで、僕の心の中にある「良心」と「渇望」が混ざり合い、

 輪郭を失っていくさまを映し出しているようだった。


 夏休みの真っ只中。

 本来なら、明と三人で高校の演劇部の合宿準備を手伝うはずだった。

 けれど、集合場所である海辺の駅に現れたのは、

 白いワンピースに麦わら帽子を被った、眩しすぎる美咲先輩一人だけだった。


「ごめんね、冬也くん。

 明くん、急にお腹を壊しちゃったみたいで……。

 今日は欠席だって」


 先輩は申し訳なさそうに笑いながら、手元のスマホを僕に見せた。

 そこには明からの『俺がいないからってハメ外すなよ、相棒!』という、

 どこまで本気か分からないメッセージが躍っていた。


「……そうですか。

 じゃあ、今日は中止ですか?」


「うーん、でもせっかくここまで来たんだし。

 ……少しだけ、海、見ていかない?

 合宿の下見っていう名目でさ」


 先輩の言葉に、僕は小さく頷くことしかできなかった。

 ポケットの中では、さっきからスマホが何度も震えている。

 由綺からのメッセージだ。

『今、テレビ局の楽屋。外は暑そうだね。冬也くん、どこにいるの?』

 僕はその通知を無視し、画面を暗転させた。

 今の僕には、冷たい液晶越しに届く彼女の言葉よりも、

 目の前で揺れる先輩の白い裾の方が、ずっと「本物」に感じられたから。


 波打ち際を、二人で歩く。

 寄せては返す波が、砂浜に真っ白な泡のレースを編んでいく。

 潮騒の音だけが響く静寂の中で、僕たちは言葉を失っていた。


「……ねえ、冬也くん。

 なんだか本当に、デートみたいだね」


 先輩が茶目っ気たっぷりに笑って、僕を覗き込む。

 風に吹かれた彼女の髪から、夏の匂いがした。

 日焼け止めの香りと、潮風と、

 そして彼女自身の甘い体温が混じり合った、暴力的なまでに鮮やかな匂い。


「……からかわないでください。

 僕は、ただの小学生ですよ。

 先輩に釣り合うわけないじゃないですか」


「ふふ、そんなにムキにならないで。

 私は、今の冬也くんと一緒にいられて、すごく嬉しいよ」


 先輩はサンダルを脱ぎ捨て、裸足で波打ち際へと踏み出した。

 水飛沫が上がり、彼女の白い肌を濡らす。

 その一挙手一投足が、舞台のヒロインよりもずっと美しく、

 僕の網膜に焼き付いて離れない。


「私ね、演じるのが好きなの」


 ふと、先輩が立ち止まり、水平線を見つめながらぽつりと零した。

 その声は、潮騒に紛れて消えてしまいそうなほど、細く、震えていた。


「舞台の上で別の誰かになれば、寂しくなくなるから。

 桑島美咲として生きる時間は、なんだか……自分が空っぽで、

 どこにも居場所がないような気がしちゃうの。

 でも、役を演じている間だけは、私はその世界の住人になれる」


 夕暮れに染まり始めた海が、彼女の横顔をオレンジ色に縁取っている。

 その表情は、いつも部室で見せてくれる屈託のない笑顔とは正反対の、

 今にも壊れてしまいそうな硝子細工のようだった。

 僕は、胸の奥を鋭いナイフで抉られたような痛みを覚えた。

 いつも明るく僕を導いてくれる「お姉さん」の背負っている、暗い影。

 そして僕は、そんな彼女に自分を重ねてしまっていた。

 「国民的アイドルの彼氏」という、身の丈に合わない役を演じ続けている自分を。


「……先輩」


 気づけば、僕は手を伸ばしていた。

 砂にまみれた、小さくて不格好な僕の手が、

 先輩の白くて柔らかな指先を包み込む。

 先輩はびくりと肩を揺らし、驚いたように僕を見た。

 その瞳には、一粒の涙が溜まっているように見えた。


「……冬也、くん?」


「演じなくてもいいです。

 僕の前では、空っぽのままでもいいです。

 ……僕が、ここにいますから」


 生意気な言葉だと分かっていた。

 けれど、握った手のひらから伝わってくる熱は、

 間違いなく「今、ここで生きている」という証だった。

 由綺と交わしたあの冷たいストロベリー味のキス。

 あれが「氷」だとするならば、今、先輩の手から流れ込んでくるこの熱は、

 僕の魂を根こそぎ奪い去っていく「火」だった。


 先輩はしばらくの間、呆然と僕を見つめていたが、

 やがて視線を落とし、僕の手をゆっくりと握り返した。


「……あったかいね、冬也くんの手」


 その言葉が、僕の最後の理性を焼き切った。

 握りしめた手の強さが、僕の心を由綺という遠い星から、無理やり引き剥がしていく。

 由綺、ごめん。

 君はあんなに輝いているのに。

 あんなに僕を求めてくれているのに。

 僕は、隣にいるこの人の、寂しげな体温を愛おしいと思ってしまった。


 沈みゆく太陽が、僕たちの影を長く引き伸ばし、砂浜で一つに重ね合わせる。

 潮騒が全てをかき消していく中で、僕は確信していた。

 もう、後戻りはできない。

 八月の陽炎が、僕の純真を真っ白に燃やし尽くし、

 そこには歪で、けれど確かな「罪」という名の愛が、

 黒い灰となって降り積もっていた。



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