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5/11

七月 市民プール

【七月:水底の熱、塩素の溜息】


 梅雨が明けた途端、太陽は暴君のように地上を焼き始めた。

 七月の空気はねっとりと肌にまとわりつき、

 セミの鳴き声が耳の奥で耳鳴りのように響いている。

 夏休み――子供たちにとっての黄金時代が始まったというのに、

 僕の心はどこかひび割れたアスファルトのように乾ききっていた。


『由綺:今日から一週間、沖縄で写真集の撮影なの。

海、綺麗だよ。でも、冬也くんが隣にいないと、

なんだかただの大きな水溜まりに見えちゃう。……会いたいな』


 早朝に届いたメッセージに、

 僕は『頑張ってね。熱中症に気をつけて』とだけ返した。

 画面の中の彼女は、今頃、原色の水着を着て、

 プロのカメラマンに最高の笑顔を向けているのだろう。

 その笑顔は僕だけのものではなく、

 雑誌を買い求める見知らぬ誰かのためのものだ。

 僕が彼女の隣にいたいと願う以上に、世界が彼女を求めている。

 その事実に打ちのめされるたび、僕はスマホを放り投げたくなる。


「おーい、冬也!

 準備できてるか?

 今日は美咲先輩、演劇部の合宿費を稼ぐために市民プールで

 監視員のバイトなんだってよ! 休憩時間に遊んでくれるってさ!」


 九瀬明が、これ以上ないほど浮かれた顔で僕の部屋に転がり込んできた。

 正直、外に出る気力なんてなかった。

 けれど、家で一人、由綺の出演する番組の録画を眺めているよりは、

 塩素の匂いにまみれていた方がマシかもしれない。

 そんな後ろ向きな理由で、僕は水着をバッグに詰め込んだ。


 市民プールは、狂騒の真っ只中にあった。

 子供たちの歓声、笛の音、スピーカーから流れる古いサマーソング。

 その喧騒の中で、彼女だけが、まるで映画のワンシーンのように静止して見えた。


「あ、ボランティア君たち!

 本当に来たのね」


 監視員台の下、パラソルの陰で水分補給をしていた美咲先輩が、

 僕たちに気づいて手を振った。

 白いラッシュガードの下からのぞく、紺色の競泳水着。

 水に濡れて肌に張り付いたそのシルエットは、

 学校の制服姿で見せる「お姉さん」の印象を根底から覆すほど、

 生々しい「女性」の魅力を放っていた。


「うわーっ!

 美咲先輩の水着姿、刺激強すぎ! 僕、もう今日死んでもいいです!」


「もう、明くんは相変わらずね。

 ……冬也くん?

 そんなに黙ってどうしたの? どこか具合悪い?」


 先輩が僕の顔を覗き込む。

 長い睫毛から滴った雫が、僕の足元に落ちた。

 高校生の身体は、同級生の女子とは決定的に違う。

 鎖骨のライン、腰のくびれ、そしてラッシュガード越しでもわかる、胸のふくらみ。

 由綺の、まだ幼さの残る華奢な身体とは違う、

 完成されつつある「大人」の熱量がそこにはあった。


「……いえ、なんでもないです。

 ただ、日差しが強いなって」


「ふふ、確かにね。

 私の休憩、あと三十分あるから。

 一緒に流れるプール、行っちゃおうか」


 美咲先輩はそう言って、僕の腕を軽く引いた。

 触れた肌は、プールで冷やされているはずなのに、火傷しそうなほど熱く感じられた。


 流れるプールは、人の波で溢れていた。

 明は「あっちに可愛い女子高生がいる!」と叫んでどこかへ消えてしまい、

 期せずして僕と美咲先輩は、

 大きな浮き輪を共有するような形で並んで流されることになった。


「ぷはっ……。

 気持ちいいね、冬也くん。

 学校の部室にいる時より、ずっと自由な感じがする」


 先輩は水面に浮かびながら、天の青空を見上げた。

 揺れる水面。

 屈折する光。

 僕たちの距離は、水の流れに翻弄されるたびに、くっついたり離れたりした。


「……先輩は、寂しくないんですか?」


 ふと、そんな言葉が口を突いて出た。

 先輩は、少しだけ意外そうな顔をして僕を見た。


「どうして?」


「だって、先輩、いつも誰かのために動いてるから。

 演劇部でも、僕たちの前でも。

 自分のために、わがままを言ったりしないのかなって」


「……冬也くんは、時々ドキッとするようなこと言うね。

 小学生なのに、私よりもずっと私のことを見てるみたい」


 先輩は浮き輪から手を離し、僕の隣まで泳いできた。

 水の抵抗で、先輩の脚が僕の脚に触れる。

 水の中という、誰も見ていない密室のような空間で、その感触は驚くほど鮮明だった。


「私ね、一人になるのが怖いの。

 だから、誰かに必要とされていたいのよ。

 ……冬也くんが手伝いに来てくれるのも、実はすごく救われてるんだよ?」


 先輩の手が、僕の頭に置かれた。

 濡れた手のひらの感触。優しく髪を撫でる指先。

 それは間違いなく「弟分」に向ける愛情だったけれど、

 僕の中に湧き上がったのは、それとは正反対のドロリとした感情だった。


 由綺のことが好きなはずだ。

 由綺のあのストロベリー味の唇を、守りたいと思っているはずだ。

 なのに、どうして僕は今、この塩素の匂いがする先輩の指先を

 「もっと強く」と願ってしまうのか。


「……冬也くん。

 顔、真っ赤だよ?

 やっぱり、のぼせちゃったかな」


 先輩の顔が近づく。

 彼女の吐息が、僕の頬にかかった。


「……子供扱い、しないでくださいって、言ったのに」


 僕は思わず、水中で先輩の腰を抱き寄せていた。

 一瞬、先輩の身体が強張ったのが分かった。

 けれど彼女は僕を突き放さなかった。

 それどころか、困ったような、けれど愛おしそうな顔をして、

 僕を優しく抱きしめ返した。


「ごめんね、冬也くん。

 ……君がそんなに切ない目をするから」


 波に揺られながら、僕たちはしばらくの間、無言で抱き合っていた。

 周囲の喧騒は遠のき、聞こえるのは水が跳ねる音と、

 先輩のトクトクという鼓動だけ。

 由綺からのメッセージが、ポケットの中の防水ケースで虚しく震えている。

 僕は、自分の罪を知っていた。

 由綺の「孤独」を救える唯一の人間でありながら、

 僕は今、目の前の美咲先輩という「救い」に溺れようとしている。

 水底へと沈んでいく光のように。

 僕の純粋だったはずの初恋は、

 七月の強い日差しの中で、少しずつ、けれど確実に濁り始めていた。


「冬也くん。

 ……私ね、本当は、君に頼られるのが……すごく、嬉しいのよ」


 耳元で囁かれた先輩の声は、塩素の匂いと共に僕の脳裏に焼き付いた。

 この夏が、永遠に終わらなければいい。

 由綺が画面の向こうに戻ってこなければいい。

 そんな残酷な願いが、僕の胸の奥で、鎌首をもたげていた。



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