六月 相合傘
【六月:雨音に溶ける境界線】
六月に入ると、世界は厚い雲に覆われ、
街は永遠に続くかのような灰色の帳に沈んだ。
アスファルトが絶えず雨に叩かれる音は、
僕の心の奥底にある「寂しさ」という空洞を、
冷たい水で満たしていくようだった。
五月に由綺と交わした、あの冷たいイチゴの味のキス。
あれ以来、彼女との距離は縮まるどころか、より一層遠くなってしまった。
スマホの画面の中で微笑む彼女は、もはや別の惑星の住人のようで、
僕が送る「お疲れ様」という五文字は、
暗黒の宇宙に吸い込まれて消える信号に等しかった。
「……はぁ」
その日、僕は高校の昇降口で、降り止まない雨を眺めていた。
明は先に演劇部の部室へ駆け込んでしまったが、
僕はといえば、持ってきたはずの折りたたみ傘を
教室に忘れてきたことに気づき、途方に暮れていたのだ。
「あれ、冬也くん?
どうしたの、そんなところで。
ずいぶんびしょ濡れじゃない」
背後からかけられた、透き通った声。
振り返ると、部活帰りだろうか、
少し乱れた髪を無造作に束ねた美咲先輩が立っていた。
彼女の肩には大きなエナメルバッグがかけられ、
その手には透明なビニール傘が握られている。
「あ、美咲先輩……。
傘、忘れちゃって」
「もう、しょうがないわね。
風邪ひいちゃうわよ?
ほら、こっちおいで」
先輩は屈託のない笑みを浮かべ、バサリとビニール傘を広げた。
透明な膜が僕たちの頭上を覆い、雨音の響きが少しだけ遠のく。
「駅まで送ってあげる。
……それとも、家までの方がいいかな?」
「でも、先輩……。
僕、服が濡れてるから、先輩の制服まで濡らしちゃいます」
「そんなの気にしないわよ。
はい、入った入った」
促されるまま、僕は先輩の隣に一歩踏み出した。
狭いビニール傘の中。
直径わずか七十センチほどの閉ざされた世界。
一歩踏み出すたびに、先輩の肩と僕の肩が触れ合う。
制服の隙間から漂う、微かな制汗剤の清涼感と、
彼女自身の体温が混じり合った、柔らかい「生きている」匂い。
「冬也くん、もっとこっちに寄りなよ。
左の肩、雨に当たってるじゃない」
「大丈夫です、これくらい」
「ダメ。
風邪ひかれたら、私のボランティア君がいなくなっちゃうでしょ?」
先輩はそう言って、僕の肩をぐいと自分の引き寄せた。
不意に強まった密着感。
彼女の脇腹の柔らかさと、歩くたびに伝わってくる太ももの動き。
小学生の僕よりも少しだけ高い視線から、先輩が僕を覗き込む。
「……ねえ、冬也くん」
「はい」
「最近、元気ないでしょ。
何かあった?
学校のこととか、その……好きな子のこととか」
心臓がドクリと跳ねた。
美咲先輩は、僕が由綺と付き合っていることは知らない。
けれど、僕の心の揺らぎを、まるで見透かしているかのようだった。
「別に、何でもないです。
ただ、雨が続くと、なんだか少しだけ、
自分がどこにいるのか分からなくなる時があって」
「……分かる気がする。
舞台の上でライトを浴びていない時の私と同じかも」
先輩は少しだけ寂しそうに微笑み、傘を持つ手に力を込めた。
「ねえ。
私、由綺ちゃんのこと、テレビで見るたびに思うの。
あんなに綺麗で、みんなに愛されて……。
でも、あの子はどこで息をしてるんだろうって。
本当のあの子は、誰の隣にいたいんだろうって」
僕は言葉を失った。
由綺は僕の隣にいたいと言ってくれた。
けれど、現実に僕の隣にいて、こうして傘を差し出し、
僕の濡れた肩を気遣ってくれているのは、美咲先輩なのだ。
「……先輩は、優しいですね」
「えっ、そうかな?
私はただ、可愛い後輩が雨に濡れてるのを見捨てられないだけよ」
「子供扱い、しないでください。
僕だって、もう六年生です」
「ふふ、そうね。
でも、私から見れば、冬也くんは守ってあげたくなるような、
危なっかしい瞳をしてるんだもん」
雨脚が強くなる。
ビニール傘を叩く音は激しさを増し、周囲の景色を真っ白に塗り潰していく。
その白濁した世界の中で、先輩の体温だけが、残酷なほどに鮮明だった。
五月に触れた由綺の唇は、甘いけれどどこか非現実的で、幻影のようだった。
けれど今、隣で歩く先輩の温もりは、
僕の肌を通じて、心の最も深い場所にある渇きを癒やしていく。
「……もう少しだけ、このままでいてもいいですか」
気づけば、僕は先輩の制服の袖を、ぎゅっと握りしめていた。
子供のようなわがままだと分かっていた。
由綺への裏切りに近い感情だということも、心のどこかで気づいていた。
けれど、この温もりを、雨の中に手放す勇気が僕にはなかった。
「……いいよ。
駅に着くまで、ゆっくり歩こうか」
先輩は僕の手を振り払うことなく、優しく微笑んで、さらに強く僕の肩を抱き寄せた。
雨の匂いと、先輩の匂い。
冷たい雨音と、彼女の穏やかな鼓動。
僕は、自分の心が、取り返しのつかない方向へと滑り落ちていくのを感じていた。
液晶越しの「愛してる」よりも、
この一つの傘の下にある「体温」を、僕は欲してしまっていた。
六月の雨は、僕の罪悪感ごと、全てを洗い流してくれるかのように降り続いていた。




