12月24日 ファーストスノウ
十二月の夜は、すべてを白く染め上げ、隠してしまう。
街にあふれる赤や緑の光さえ、
美咲先輩の住む古いアパートの薄暗い一室までは届かない。
冷たくて、それでいてひどく熱を帯びた、僕と彼女だけの聖夜。
【十二月二十四日:ファーストスノウ —— 届かない歌と、消えない体温】
窓の外では、静かに雪が降り始めていた。
街中の幸福をかき集めて空に放り投げたような、キラキラとしたイブの夜。
けれど、この部屋にあるのは、蛍光灯の心許ない明かりと、
テーブルに置かれたコンビニのチキン、それに安っぽいケーキの箱だけだった。
「ごめんね、冬也くん。
……せっかくのクリスマスイブなのに、こんなに寂しい思いさせちゃって」
美咲先輩が、力なく笑う。
彼女の母親は、数日前から「彼氏と旅行に行く」と言って帰ってきていない。
高校一年生の彼女に、数万円の現金と「好きに過ごして」というメモだけを残して。
先輩の笑顔は、今にもパリンと割れてしまいそうな硝子細工のようだった。
僕はその脆さに、自分が壊してしまった「もう一つの幸せ」を重ねる。
「……いいんです。
僕は、先輩と一緒にいたいから、ここにいるんです」
それは嘘ではない。
けれど、その半分は罪悪感だった。
親友の明を殴らせたままにし、由綺を裏切った僕。
そんな汚れた僕を受け入れてくれるのは、
同じように孤独の穴を抱えた、この人しかいない。
ふと、つけっぱなしにしていたテレビの画面が切り替わった。
音楽特番の生放送。
大歓声とともに、雪を模した純白のステージに「彼女」が現れた。
『次は……今、日本で最も愛されている歌姫。
芦田由綺さんで、「I still love you」』
心臓が、跳ねた。
画面の中の由綺は、僕の知っている「クラスメイトの由綺」ではなかった。
どこか遠く、神聖な場所から僕を裁きに来た女神のような、凛とした美しさ。
イントロが流れ、彼女がマイクを握る。
「……ねえ、届いていますか?
I still love you……」
透き通るような歌声が、狭い部屋に響き渡る。
サビの歌詞が、鋭い刃物のように僕の胸を抉った。
「まだ、愛している」
公共の電波を使い、何百万という視聴者を味方につけて、
彼女は僕だけにメッセージを送っている。
別れを告げたあの日の公園から、
彼女の時間だけが止まっているのだと、歌声が告発していた。
「……冬也くん」
美咲先輩が、僕の顔を覗き込む。
彼女の瞳には、僕の動揺がはっきりと映っていた。
「消そうか?
その……由綺ちゃんの、歌……」
「……いえ。
このままでいいです。
逃げちゃ、いけない気がするから」
僕は震える指を隠すように、自分の膝を掴んだ。
歌番組の中では、由綺が切なげに瞳を伏せ、祈るように歌い続けている。
その「聖女」のような姿を見れば見るほど、
僕は自分がどれほど残酷なことをしたかを思い知らされる。
「冬也くん。
……私、怖いよ」
美咲先輩が、僕の肩に顔を埋めてきた。
彼女の細い肩が、ガタガタと震えている。
「あの子はあんなに輝いていて、あんなに冬也くんを想っているのに。
私は……冬也くんの時間を奪って、こんな暗い部屋に閉じ込めてる。
私、ひどい女だよね。
高校生にもなって、小学生の君に縋って……」
「先輩……」
「行かないで、冬也くん。
今夜だけでいいから……私を、一人にしないで」
先輩は、僕の子供っぽい小さな手を、自分の胸元に引き寄せた。
そこから伝わる鼓動は、狂おしいほど激しく、悲しい。
僕たちは誘い合うように、部屋の隅に敷かれた一つの布団に潜り込んだ。
シーツ越しに伝わる、彼女の体温。
僕よりも少しだけ大きな、成熟し始めた少女の曲線。
僕は彼女の背中に腕を回し、その香りを深く吸い込んだ。
石鹸の匂い。
そして、泣きじゃくる子供のような、生々しい孤独の匂い。
テレビからは、まだ由綺の歌が流れている。
『I still love you…… I’m waiting for you……』
かつての恋人の絶唱をBGMに、僕は今、目の前の女性を抱きしめている。
背徳感。
罪悪感。
そして、それを上回るほどの、狂おしいほどの愛着。
「美咲さん……」
初めて、名前で呼んだ。
先輩が、驚いたように顔を上げる。
その瞳から、大粒の涙がこぼれ、僕の頬に落ちた。
「冬也くん……大好き。
大好きだよ……」
彼女の唇が、僕の額に、頬に、そして震える唇に重なる。
由綺と交わした、あの夢のような甘いキスとは違う。
暗い淵で溺れそうな二人が、互いの呼吸を分け合うような、痛々しい接吻。
僕は彼女の腰を引き寄せ、その熱に溶け込んでいった。
僕はまだ十二歳で、彼女は十六歳だ。
この関係に未来なんてないのかもしれない。
夜が明ければ、僕は「日本一のアイドルを捨てた最低のガキ」に戻り、
彼女は「母親に放置された孤独な高校生」に戻る。
けれど、今、この瞬間。
由綺の「愛している」という歌声に背を向けながら、
僕たちは確かに救われていた。
外は、いつの間にか本降りの雪になっていた。
音もなく積もる雪が、街の喧騒も、僕たちの罪も、すべてを白く塗り潰していく。
画面の中の由綺が、最後のフレーズを歌い終え、深く一礼する。
スタジオの拍手が、遠い世界の出来事のように聞こえる。
僕たちは、一度も離れなかった。
歪な形をした愛を、互いの体温で埋め合わせるように。
この長い長い冬の夜が、永遠に明けないことを、ただ静かに祈りながら。
(完)




