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第14章 収穫と代償(6)2032年6月15日 水曜日 午後2時

◆ 2032年6月15日 水曜日 午後2時


◇ 東京大学 社会科学研究所 杉浦研究室


森田沙耶香が録音機材を準備している。ベストセラー作家となった彼女の新作は、2027年からの5年間を振り返るノンフィクションだった。


杉浦美央子(52歳)が穏やかに微笑む。森田の名前は知っている。末っ子が『18歳のための人生哲学』を読んでいたのを見て、パラパラとめくったことがある。哲学的な内容だった。


「森田さんの本、娘が読んでました」杉浦が口を開いた。「『18歳のための人生哲学』でしたっけ」


「ありがとうございます。『抵抗と屈服の記録』の方はお読みになりましたか?」森田が確認する。


「いえ、私は統計データ以外の読み物にはあまり」杉浦は穏やかに答えた。「でも、森田さんのご活躍はとても興味深く拝見しています」


録音ボタンを押し、森田はエンカウント理論について改めて尋ねた。


杉浦は窓の外を見つめた。「5年前、私は老後の孤立と出生率の相関を見つけただけです。論文を書いたら、片瀬さんが政策実装可能な形に修正してくれた」


「それがエンカウント施設に」


「ええ」杉浦の声は淡々としていた。「私の理論は、いわばラフスケッチ。片瀬さんが精緻化して、伊勢野さんがデータで裏付けて、政治家が実行した」


森田はメモを取りながら聞いた。「後悔はありますか?」


杉浦は首を傾げた。


「後悔?何を後悔するんですか」眼鏡の位置を直す。「私は理論を提唱しただけ。実行したのは政治家です」


「でも、その理論が多くの人の人生を変えました。恐怖に駆られて結婚し、子供を産んだ人たちがいます。私もその一人です」


「結果は出ています」杉浦はタブレットの画面を森田に向けた。「出生数150万人、出生意向調査でも『3人以上希望』が72%。実はこの72%の内訳が面白くて」画面をスクロールし始める。「地域差が顕著なんです。都市部では68%ですが、地方では76%。この8ポイントの差の要因分析をしているところで…」


森田は一瞬言葉を失った。自分の告白が完全にスルーされている。この人は本当に聞いていたのか。自分の子供たちのことを思い出した。彼らも、この研究者にとっては「データ」なのだろうか。


「杉浦さん自身のお子さんは?」


森田の質問に、杉浦の表情が和らいだ。後悔だの感情だのという話題にイライラしていたが、ようやく具体的な話になった。


「私は4人の子供がいます。20代で産み始めたので、全員成人しています」杉浦の声が少し明るくなった。「長女は31歳で、子供が3人。今週も孫の保育園の迎えがあって。データ分析しながら孫守りです。効率的でしょう?」


「お孫さんがいらっしゃるんですね」


「6人です。まあ、衝動性が高いんですよね、うちの家系」杉浦は微笑んだ。「長女も23歳で第一子、双子の息子たちも早婚でした。統計的に見ても、早期出産家系には遺伝的要因があるという研究があって…」


「私も3人の子供を育てながら」森田が呟いた。「この矛盾と向き合っています」


杉浦は、タブレットを操作して新しいファイルを開いた。


「これは、まだ公表していないデータです」


森田が画面を覗き込むと、そこには詳細な分析データが並んでいた。


「地域別の内訳も出ているんですね」


「ええ、都市部と地方で異なるパターンが見られます」杉浦が説明した。「彼らが成人して、出産適齢期に入る2050年代。日本の人口は再び増加に転じる可能性があります。150万人といえば1970年代の水準です。その頃は毎年新しい学校を建設していました」


「でも、その頃には…」


「2050年代の高齢者人口は3800万人、全人口の32%になります」杉浦は画面を見ながら続けた。「私は78歳。統計的に女性の平均余命はまだ12年残っています。子供がいますから、地域共生ステーション入所の資格はありません。現在の基準では、子供がゼロか完全に絶縁状態の高齢者のみが入所資格を持ちます。もちろん定員があるので、資格があっても入れるとは限りませんが」


森田は静かに録音を止めた。


「これが、私たちが作った未来なんですね」


「私が作ったわけではありません」杉浦は静かに訂正した。「私はアニメの原作漫画の、さらに原作小説を書いたようなもの。アニメを作ったのは別の人たちです」


インタビューは3時間に及んだ。杉浦は内心、この手の文系ライターの特徴を分析していた。同じ質問を言い方を変えて何度も繰り返す。感情的な答えを引き出そうとする。データではなく物語を求めている。


最後に、森田は予想通りの質問をした。


「もし2027年に戻れたら、違う選択をしますか?」


杉浦は首を傾げた。また「選択」の話か。


「選択?」眼鏡を外して拭き始める。「私は何も選択していません。データの相関を見つけて、理論化しただけです。面白いパズルでした」


「でも、その理論が政策になって、多くの人の人生が変わったんです。私自身も3人の子供を産みました」


「それは私の関知するところではありません」杉浦は眼鏡をかけ直した。「研究者は発見をする。それをどう使うかは社会の問題。私は次の相関関係を探すだけです」


森田は言葉を失った。この人は本当に何も感じていないのか。自分たちの人生を変えた理論を「面白いパズル」と呼ぶこの研究者に、怒りすら湧かない。ただ、深い断絶を感じるだけだった。


研究室のドアが閉まった後、杉浦は大きく伸びをした。ようやく終わった。3時間も同じ質問の繰り返し。タブレットを開いて、最新の地域別出生データに目を通す。九州地方の異常値が気になる。これは面白そうだ。インタビューの疲れなど、もうどこかに消えていた。


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