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第14章 収穫と代償(4)2032年5月25日 水曜日 午後4時

◆ 2032年5月25日 水曜日 午後4時


◇ 国立社会保障・人口問題研究所 片瀬研究室


国立社会保障・人口問題研究所の研究室で、片瀬朔実(35歳)が最新の人口動態データと格闘していた。黒縁眼鏡のブリッジを押し上げる────いつもの癖だ。復職してから3年、娘を保育園に預ける生活にも慣れた。


モニターに映る数字の羅列を、彼女は冷徹に分析する。2027年以降の婚姻・出生データ────いわゆる「総理婚」世代の追跡調査。助手が背後から覗き込んできた。「興味深いパターンですね」


片瀬は振り返らずに頷く。データは予想外の結果を示していた。総理婚カップルの離婚率は、通常の恋愛結婚より低い。昭和時代の見合い結婚に近い安定性だ。


「愛情なき結婚が、かえって安定している」


独り言のような呟きが、静かな研究室に響く。電話の着信音が沈黙を破った。


「朔実ちゃん、論文読んだよ」


東大の杉浦美央子教授からだった。博士課程時代を思い出させる、あの独特の呼び方。『脱ロマンティック・ラブ・イデオロギー』────片瀬の最新論文について。


「杉浦先生、『ちゃん』付けはもう」片瀬は苦笑した。35歳の自分に対する呼称としては違和感があるが、杉浦にとって彼女は永遠に教え子なのだろう。


「相変わらず鋭い分析だね。相関係数の解釈、私より上手くなった」杉浦の声に微かな誇らしさが滲む。「それで本題なんだけど、内閣府から共同研究の話が来てる。総理婚5年後の実態調査プロジェクト」


片瀬の手が止まった。マウスから指を離し、受話器を持ち直す。


「私も呼ばれるんですか」


「あなたの批判的視点が必要なの。私のエンカウント理論だけじゃ偏るから」杉浦は少し声を落とした。「正直言って、あなたがいてくれると心強い。最近の若手は遠慮ばかりで議論にならないから」


片瀬は窓の外に視線を向けた。保育園の方角。娘の迎えまであと2時間。博士論文の追い込み時期、杉浦は深夜まで付き合ってくれた。あの恩は忘れていない。


「少し時間をください。娘のこともありますし」


「そうね、もう3歳になったんだっけ」杉浦の声が和らいだ。「見合い結婚との比較分析、本当に面白かった。あなたのデータベース構築の才能は相変わらずね」


通話を終えた片瀬は、新しいファイルを『Post-Encounter Family Formation 2032』というフォルダに保存した。窓の外に視線を向ける。娘が通う保育園の方角だ。


次の分析に取り掛かる時間だった。



◆ 2032年5月28日 土曜日 午後2時


◇ 内閣府主催 少子化対策5年評価シンポジウム 虎ノ門ヒルズ


大ホールは熱気に包まれていた。「総理談話から5年──成果と課題」と題されたシンポジウムには、研究者から政策立案者、メディア関係者まで、各界の専門家が詰めかけている。


休憩時間になると、人々はロビーへと流れ出した。コーヒーカップを手にした参加者たちが、あちこちで議論を交わしている。


「朔実ちゃん!」


杉浦美央子が声をかけると、片瀬朔実が振り返った。相変わらずの呼び方に、片瀬は小さくため息をつく。


「杉浦先生、お久しぶりです」


「電話の件、考えてくれた?」杉浦は眼鏡をかけ直しながら、片瀬の横に並んだ。「内閣府の共同研究プロジェクト」


片瀬も黒縁眼鏡のブリッジを押し上げた。周囲に人が多いことを確認してから、声を落とす。


「実は、参加させていただこうと思っています」


「本当?」杉浦の顔が明るくなった。「あなたがいてくれると心強いわ。批判的検証なしに理論は成熟しないもの」


二人の周りを、ベビーカーを押す若い夫婦が通り過ぎる。託児所の案内板には「満員」の文字。


「先生のエンカウント理論、5年経って検証段階に入りましたね」片瀬が慎重に言葉を選んだ。「私の『愛情なき安定』という観察は、先生の理論を別角度から補完するものかもしれません」


「そうね、あなたは昔から私の理論の弱点を的確に指摘してくれた」杉浦は頷いた。「理論構築を手伝ってもらった時も、批判的な視点が本当に助かったわ」


ロビーの大きな窓から、午後の日差しが差し込んでいる。片瀬は腕時計を確認した。娘の習い事の迎えが4時だ。


「出生率1.85まで回復。2.1も見えてきましたね。でも、本当にこれで良かったんでしょうか」片瀬が呟くように言った。


「データは感情を語らないわ」杉浦は淡々と応じた。「でも、あなたの問題意識は大切。プロジェクトで一緒に検証しましょう」


「分かりました。詳細は後日メールで」


「楽しみにしてる。娘さんによろしくね」


杉浦は微笑んで歩き去った。片瀬はその背中を見送りながら、博士課程時代を思い出していた。


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