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第14章 収穫と代償(3)2032年4月20日 木曜日 午後4時

◆ 2032年4月20日 木曜日 午後4時


◇ 福井県福井市 福井県立病院 産科病棟


消毒薬の匂いが鼻を突く病院の廊下に、急ぎ足で歩く白衣の姿が絶えない。福井県立病院の産科病棟は、2027年の談話以降、かつてない活況に包まれていた。しかしその活況は、どこか切迫感を帯びている。


石原総理一行を迎えたのは、産科部長の山本だった。58歳の彼の白髪交じりの頭に疲労の色が濃く、眼鏡の奥の目は血走っている。


「総理、昨夜も緊急搬送が3件ありました」山本は資料も見ずに報告した。「妊婦健診を一度も受けていない、いわゆる野良妊婦です。談話後に結婚して妊娠したものの、病院予約が取れず、陣痛が始まってから救急車で運ばれてくる」


石原の顔が青ざめた。


「スタッフはもう限界です」山本は続けた。「24時間体制で対応していますが、士気を保つのが難しい。『赤ちゃんを救う』という使命感だけで持ちこたえている状態です」


新生児室の前で足を止めた石原。ガラス越しに並ぶ20人以上の赤ちゃんたち。小さな胸が上下し、時折か細い泣き声が響く。


窓の外側には、若い両親や祖父母たちが鈴なりになっていた。3歳くらいの女の子が父親に肩車されて、「あかちゃん、ちっちゃい!」と歓声を上げている。初老の夫婦が涙ぐみながら、生まれたばかりの孫を見つめていた。


「1日の出産数は?」石原の問いに、山本は複雑な表情を見せた。「平均8件。2027年以前の2.5倍です。家族の喜びは本物です。でも…」


彼は看護師が慌ただしく行き交う様子に視線を向ける。「その喜びを支える側が限界なんです。助産師も看護師も、赤ちゃんの誕生に立ち会える喜びと、体力の限界との間で揺れています」


分娩室の手前で、若い夫婦が廊下の椅子に寄り添っていた。夫の手が妻の手を包み込み、小刻みに震えている。石原が歩み寄ると、28歳の夫は緊張で声を詰まらせながら振り返った。「初めてのお子さんですか?」総理の優しい問いかけに、彼は慌てて立ち上がる。「はい、総理。あの談話を聞いて、結婚を決めました」。


26歳の妻も頷く。彼女の顔には不安と期待が入り交じっている。「最初は怖かったけど、年金のことを考えると…」。言葉が途中で途切れ、夫の腕にすがりつく。石原の表情が曇った。不安に駆られた決断。それが本当に幸せにつながるのか。彼の胸に重いものが沈む。


医師控室のドアを開けると、疲れ切った産科医たちの姿があった。35歳の若い医師は、カルテを手にしたまま椅子に深く沈んでいる。彼が顔を上げた時、その目には諦めに似た光があった。「正直、もう限界です」。声は掠れている。「週100時間労働が当たり前。医療ミスのリスクも高まっています」。


隣に座る42歳の医師が苦笑いを浮かべた。「出産数は増えたが、産科医は増えていない」。彼の手は小刻みに震えている。「このままでは…」言葉は宙に消えた。


石原は深く頭を下げる。背中が重い。「申し訳ない。医師の養成も急いでいるが、時間がかかる」。


その時、ドアが勢いよく開いた。若い看護師が息を切らせて飛び込んでくる。


「先生!第3分娩室にお願いします!」


瞬間、二人の医師の表情が一変した。両手で頬をパチンと叩き、背筋を伸ばす。疲労の色は消え、プロフェッショナルの顔が現れた。


35歳の医師が立ち上がる。「さ、またひとり日本国民を」


42歳の医師が続ける。「取り上げましょうか!」


二人は颯爽と控室を出て行った。石原は茫然と立ち尽くした。これがプロフェッショナルか。限界を超えてなお、新しい命の前では全力を尽くす医師たち。謝罪の言葉が、今度は違う重みを持って胸に沈んだ。


新生児集中治療室では、機械音が途切れることなく響いていた。保育器に入った早産児、低体重児。最前線のケア現場も満床状態だ。看護師長の瀬川由美子は55歳。彼女の手は長年の経験で培われた確かさを持っているが、今は疲労で微かに震えている。「高齢出産が増えて、リスクの高い出産も増加しています」。モニターの数値を確認しながら、彼女は溜息をついた。「設備も人手も足りません」。


窓の外に目を向けた石原。福井の街並みが夕日に染まっている。政策の「成功」が生み出した皮肉な現実。出生数は増えた。しかし、それを支える体制は追いついていない。彼の肩が重くのしかかる。


帰り際、山本部長の疲れた表情が印象的だった。廊下の角で立ち止まり、彼は振り返る。「総理、出産は増やせと言われ、でも体制は整わない。現場は疲弊しています」。その声には、現場の医師としての切実な訴えが込められていた。


石原は重い足取りで振り返った。「分かっています」。声は沈んでいる。「できる限りの支援をします」。


その約束が現実にどこまで届くのか。できる限りで本当に足りるのか。石原自身にも、答えは見えなかった。


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