第14章 収穫と代償(2)2032年3月15日 火曜日 午前10時
◆ 2032年3月15日 火曜日 午前10時
◇ 福井県坂井市 藤原農園
春の陽光が、広大な畑を照らしている。石原慎吾総理が黒塗りの公用車から降り立つと、藤原健一(52歳)が迎えに出た。
「総理、お久しぶりです」
「藤原君、5年ぶりだね」
石原は懐かしそうに微笑んだ。2027年2月、あの極秘試算を受け取った時以来の再会だった。元厚生労働省の年金課企画官だった藤原は、年金破綻の試算をした後、準備期間を経て退官し、故郷福井に戻って農業生産法人を設立していた。
堀内秘書官が石原に耳打ちした。「藤原氏の農園は、遊休農地の活用と雇用創出で全国的に注目されています。先進事例として視察をセッティングさせていただきました」
厚労省の志茂野創平大臣が同行し、カメラクルーが後を追う。少子化対策の成果だけでなく、地方創生のモデルケースとしても注目されているこの視察。藤原は複雑な表情を浮かべていた。
志茂野が横から補足した。「藤原さんの農園は、地域の雇用創出に大きく貢献されています」
「はい」藤原が頷いた。「実家の休耕田2ヘクタールに加え離農した農家の遊休農地3ヘクタールを復活させ、新しいビニールハウスを2棟建てました」
石原の目が輝いた。農林族の本能が反応している。遊休農地の活用——これは農水省時代から追い求めてきた理想の一つだった。
「雇用の面ではいかがですか」石原が尋ねた。
「独身の中高年の方を中心に、今年だけで5人増やせました」藤原の声に、微かな熱がこもった。「45歳から55歳の方が多いです」
志茂野が驚いたような顔をした。氷河期世代ど真ん中ではないか。
「実は私自身も、総理談話の影響を受けた一人なんです」藤原が続けた。「総理もご存知の通り、私が作成した年金破綻の試算。あれは特に氷河期世代を直撃します。彼らは就職氷河期で正規雇用を逃し、年金も満足に払えず、そして給付もない。三重苦です」
カメラの前でそこまで踏み込むとは、と堀内秘書官が緊張した表情を見せた。
藤原は構わず続けた。「だから私は、彼らに働く場所とネットワークを作りたかった。月給は20万円と高くはありませんが、住居付きで、何より『自分が必要とされている』実感がある。土に触れることで、彼らは生きがいを取り戻しています」
カメラが回る中、石原は藤原に歩み寄った。
「素晴らしい取り組みですね。こうした地域の工夫が、全国に広がることを期待しています」
「ありがとうございます」藤原は照れたように笑った。
石原の表情が穏やかなものに変わった。「個人的なことも、聞いてもよろしいですか」
藤原は農園の片隅に目を向けた。妻の美智子(44歳)が3歳3ヶ月の三女・結を抱いていた。
「談話の当時、長女の咲は17歳、次女の葵は15歳でした」藤原が穏やかに語り始めた。「正直、もう子育ては終盤だと思っていました」
石原は黙って耳を傾けた。
「でも総理の談話を聞いて、妻と話し合いました。私が試算した年金破綻の未来。そして総理が示した、子供の数が国の力になる新しい道。妻が言ったんです。『もう一人、育てられるかもしれない』と」
「正直、迷いました」藤原の声が少し震えた。「私は当時47歳、妻は39歳。でも決めたんです。この国の未来に、もう一人分の希望を託そうと」
周囲の空気が和らいだ。石原の表情に、成功への満足と別の感情が混じり合った。
「そして3年前、結が生まれました。高齢出産でしたが無事に生まれてきてくれて。この子には、私が設計に関わった公的年金はありません。だからこそ、自分の力で生きていける強さと、支え合える仲間を持てる子に育てたいと思います」
石原は藤原の率直さに、むしろ好感を持った。
「それでいい。無理をする必要はない。3人も育ててくれているだけで、十分だ」
美智子が近づいてきた。結の手を引きながら、落ち着いた表情で総理に向き直った。
「総理、実は農園で働く方々から要望を預かっています」
「聞かせてください」
「独身の従業員の方々が、将来の介護不安を口にされます。子供に頼れない彼らが、尊厳を持って老後を過ごせる仕組みが必要です。農園のような相互扶助の場を、もっと制度化できないでしょうか」
石原は美智子の言葉に驚いた。元官僚の妻らしい、本質を突いた提言だった。これが現実だった。政策の光と影。その両方が、この農園に凝縮されていた。
◆ 2032年4月20日 木曜日 午後2時
◇ 福井県坂井市 地域共生ステーション〈きずな〉
石原総理の車が、坂井高校の隣にある施設に到着した。今回の視察には志茂野秘書官と伊勢野補佐官が同行している。3年前に開設された地域共生ステーションの第1号。政策立案者たちの間では「エンカウント施設」と呼ばれているが、一般にはあくまで高齢者支援施設として認識されている。今では全国に200箇所以上展開されているモデルの原点だった。
施設長の若林敏郎(58歳)が恭しく出迎えた。「総理、本日はお忙しい中、ご視察いただきありがとうございます」
石原は若林としっかりと握手を交わした。「こちらこそ、素晴らしい施設を見学させていただき光栄です」
ガラス張りの明るいロビーには、高齢者たちがくつろいでいる。放課後の時間帯で、高校生のアルバイトスタッフが活動を始めていた。一人の高齢女性が石原に気づいて手を振ると、石原も笑顔で応えた。
「運営状況はどうですか?」石原が若林に向き直った。
若林が資料を手に取った。「入居者の満足度は92%と高水準です。昨年度は地域交流イベントを月平均8回実施し、延べ参加者数は3,200名を超えました。特に高校生ボランティアが延べ800名参加しています」
「現場での変化も顕著です」若林が続ける。「高校生たちは最初は単位目的でしたが、今では自主的に訪れる生徒も増えています」
石原が頷いた。「ありがとう、若林さん。では施設を案内してもらえますか」
若林が先導して施設内を歩き始めた。一行が共用スペースに入ると、高齢者と高校生が将棋を指している光景が目に入った。
「素晴らしい環境ですね」志茂野が感心した。
しばらく施設内を見学した後、石原は伊勢野に目配せした。伊勢野がタブレットを取り出す。
「総理、全国データとの比較をご覧ください」伊勢野が石原と志茂野に画面を示した。「坂井地区は全国200施設の中でも特に顕著な成果を上げています。地元高校生の意識調査では、理想の子供数が3年前の2.1人から2.6人まで上昇しています」
一人の入居者が石原に近づいてきた。大沢孝明(79歳)。独身で子供はいない。
大沢は少し緊張した面持ちで近づいてきた。「石原総理。こちらの施設に住まわせていただいて、本当に助かっております」
石原は大沢の手を両手で握った。カメラがその瞬間を捉える。
「こちらこそ、ありがとうございます」
大沢の顔が明るくなった。「若い子たちと話せるし、寂しくない。月3万円でこんな生活ができるなんて」
石原は複雑な表情を浮かべた。この老人は、自分が「展示」されていることを知っているのだろうか。
高校生のアルバイト、榎本翔太(17歳)が大沢に声をかけた。
「大沢さん、今日も将棋しましょうよ」
大沢が嬉しそうに応じた。「おお、また相手してくれるのか。今日こそ君に勝ってみせるぞ」
石原は榎本にも声をかけ、握手を交わした。「君たちのような若者が、この施設を支えているんだね」
榎本は照れたように笑った。「僕たちも、おじいちゃんたちからたくさん学んでます」
二人のやり取りを見ながら、石原は考えた。これは搾取なのか、それとも共生なのか。
若林が廊下を案内しながら呟いた。「ここでは疑似家族のような関係が生まれています」
石原はその言葉を反芻しながら歩を進めた。疑似家族。本物ではない、けれど機能する関係性。
窓の外では、部活帰りの高校生たちが施設を横目に通り過ぎていく。その視線の動きを、AIカメラが記録している。データは匿名化され、政策効果の測定に使われる。
「総理」堀内秘書官が声をかけた。「次は福井県立病院の産科病棟の視察が」
石原は頷いたが、もう一度振り返った。ロビーで大沢と榎本が将棋を指している。その光景は平和に見えた。しかし、その裏にある「認知の罠」を、石原は忘れることができなかった。




