第12章 密室の設計者(5)2030年12月20日 金曜日 午後3時
◆ 2030年12月20日 金曜日 午後3時
◇ 財務省 特別会議室
財務省の特別会議室は、普段の事務的な雰囲気とは違っていた。楕円形のテーブルを囲む各省庁の幹部たちの表情に緊張感が漂う。窓の外では12月の冷たい雨が降り続いていた。
志茂野厚労大臣が重々しく口を開く。「年金移行債の具体的制度設計について検討します」参加者は財務省、厚労省、金融庁、日銀、そして慶應大学の守本教授—戦後最大の社会保障制度改革を担う面々だった。
財務省主計局長が厚い資料ファイルを開き、最初のページを指差した。「まず、発行規模ですが」彼の声に若干の緊張が滲む。「年間30兆円を想定しています」
金融庁長官の顔が曇る。「30兆円...」彼が眉根を寄せながらつぶやく。「国債市場への影響は?」
日銀副総裁が資料をめくりながら重い口調で答える。「そこが問題だ。通常の国債発行と合わせると、年間60兆円を超える」会議室に重い空気が流れた。
守本が机に置いた電卓を操作しながら、いつもの冷静さで分析を始める。「しかし、年金移行債の買い手は明確です」彼の声に迷いはない。「私的年金ファンドが全額購入する」
金融庁長官が身を乗り出した。「それって政府による債券市場の歪みにならないの?」彼の懸念は的確だった。
梶川が説明する。「私的年金ファンドは2種類あります。安全型は年金移行債100%、成長投資型はリスク資産中心です」
市島が補足するように手を上げた。「つまり、全部が年金移行債を買うわけではありません」
財務省主計局長の表情に理解の光が差した。「循環構造ですね」彼がペンで図を描きながら続ける。「政府が発行した債券を、政府関連ファンドが買い支える」
守本が補足するように手を上げる。「より正確に言えば、個人は交付された移行債を売却してファンドに投資し、そのファンドが市場の移行債を購入するという循環です」
金融庁長官が困惑した表情を見せる。「つまり、Aさんが移行債を売却した代金でファンドを買い、そのファンドが市場で流通している移行債を購入するということですか?」
「その通りです」梶川がボードに図を描く。「個人A:移行債売却→ファンド購入→ファンドが市場で移行債購入→市場の需給バランス維持、という流れです」
日銀副総裁が額に手を当てる。「これは一種の『永久機関』ではないですか?」
「経済学的には理論上可能です」守本が電卓を叩きながら答える。「移行債の売却→ファンド購入は強制なので、実際は市場での混乱は起きません。配当引き出しも年3%上限ですから、急激な資金流出はない設計です」
志茂野は腕を組み、会議室の全員を見回した。この男の鋭さが言葉となって核心を突く。「要するに、年金債務を先送りして、個人にリスクを転嫁する仕組みです」
日銀副総裁が苦笑いを浮かべた。「露骨ですね」会議室に微かな笑いが漏れる。
「でも、現実的な解決策は他にありません」守本がきっぱりと言う。「現状維持なら確実に制度破綻です」
財務省主計局長が核心を聞く。「で、政治的に実現可能ですか?」
志茂野の目に確信が宿った。「出生数連動減免がカギです」彼が拳を軽く机に置く。「子供を産めば保険料が安くなる。これで若い世代の支持を獲得できる」
梶川が思わず身を乗り出す。この制度への情熱が抑えきれない。「そうなんです!3人産んだら6割減免、5人なら完全免除。これは強力やと思います」ハッと気づく。「失礼、とても効果的だと思います」
「なるほど」金融庁長官が感心する。「アメとムチですね」
「そういうことです」
会議は2時間に及んだ。技術的な詳細から政治的な課題、実施スケジュールまで—すべてが俎上に載せられ、検討された。窓の外では雨が止み、夜の帳が降りている。
志茂野が最後に立ち上がった。「では、来年1月の制度発表で決まりですね」
テーブルを囲む全員が頷く。「異議なし」この一言が、会議室に重い決意となって響いた。
戦後最大の年金制度改革が、ついに動き出す。
しかし彼らはまだ知らない。この制度が国会で発表された時、どれほどの嵐が巻き起こるかを。野党の激しい追及、メディアの狂騒、そして志茂野創平という男が見せる、政治家としての真の力を。
密室で生まれた完璧な制度設計が、民主主義の修羅場で試される時が来る。
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(続く)




