第12章 密室の設計者(3)2030年6月25日 火曜日 午前10時
◆ 2030年6月25日 火曜日 午前10時
◇ 同じく特別会議室
「叩き台ができました」
守本が分厚い資料を配布する。表紙には「年金個人口座制度 基本設計案」と書かれている。
梶川がパラパラとめくる。「守本先生、たくさん書いてくださって、ありがとうございます」
「数値シミュレーション、政治的実現可能性、経済効果分析、全て入れました」
市島が重要部分を読み上げる。「基礎年金完全廃止、厚生年金1階部分廃止、厚生年金2階部分は当面維持...」
「そして2階部分に出生数連動減免を導入」梶川が補足する。「あと、既受給者には任意減額制度も」
「任意減額?」守本が眉をひそめる。
「年金を自主的に減額していただいて、その1.2倍を相続税の税額控除に加算する仕組みです」
市島が興味深そうに聞く。「つまり、年金を減らしたら税金が安くなるってことか?」
「そういうこと。月20万円の年金を10万円に減額したら、年間120万円の減額。それの1.2倍、144万円が相続税の税額控除に加算される」梶川が計算して見せる。
守本が感心する。「なるほど。富裕層にとっては実質20%のリターンが保証された投資ですね」
「そうなんです。例えばアパートや駐車場を持っていて家賃収入がある高齢者は、年金使い切れへんから貯金ばっかり増える。それやったら年金減額して、相続税対策にした方がお得やわ」梶川が身を乗り出した。
市島も思わず苦笑する。「渡すお金減らすのに喜ばれるって、不思議な制度やな」
「政府は年金給付を減らせて、富裕層は相続税を減らせる。Win-Winの関係やわ」梶川が自信満々に言う。
守本が詳細を説明し始める。「移行スケジュールですが、段階的実施を提案しています」
彼がスライドを映す。
実施スケジュール
- 2030年秋:制度発表
- 2031年1月:年金移行債発行開始
- 2031年春:私的年金ファンド運用開始
- 2031年秋:出生数連動減免開始
「最初の半年は混乱期です。国民の反発、メディアの批判、野党の攻撃...全部想定せなあかん」市島の声に力が入った。
「各世代別の説明資料を用意した方がええな」梶川が提案する。
彼女がホワイトボードに書く。
世代別メッセージ
- 60代前半:「今すぐ1500万円もらえます」
- 30-40代:「運用次第で年金が増えます」
- 20-30代:「子供産めば保険料免除」
- 既受給者:「従来通り安心です」
「みんなが『自分は得する』と思うような説明やな」市島が感心する。
梶川が自信を持って続ける。「実際、短期的には全員得しますから。問題は10年後、20年後や」
守本が冷静に分析する。「インフレが進めば年金移行債の実質価値は目減りします。運用に失敗すれば老後資金不足。でも、それは個人の責任です」
市島が苦笑する。「政府は『選択肢を提供した』で済むもんな」
このとき、ドアがノックされた。
「山市大臣がお見えになりました」秘書官の声だった。
3人は慌てて資料を整理する。
山市が入室すると、部屋の緊張感が一気に高まった。
「進捗はいかがですか」
梶川が代表して報告する。「叩き台が完成しました。年金個人口座制度として取りまとめております」
山市が資料を受け取り、ページをめくり始める。しばらくの沈黙。
「...面白い」
山市が顔を上げる。
「出生数連動減免。これは画期的だ。少子化対策と年金改革の一石二鳥」
梶川が安堵の表情を浮かべる。しかし山市は資料の奥深くまで読み込んでいた。
「しかし、肝心の部分が見えない」山市がページを戻す。「現行制度からどうやって移行するんだ?」
守本がホワイトボードに向かった。「核心部分を説明します」
年金移行債制度の仕組み
- 20-64歳の未受給者:基礎年金部分の既納付保険料を全額、年金移行債で交付
- 移行債は物価連動債(年3%上限)、低利息付き
- 個人年金口座に証券として交付、私的年金ファンドへの移行が前提
- 移行時:移行債売却→売却代金で即座にファンド購入
- ファンドの配当のみ年間元本の3%まで引き出し可能(60歳前)
山市が眉をひそめる。「強制交付?選択制ではないのか?」
「強制です」市島が断言した。「既受給者と受給権者は選択制ですが、現役世代は問答無用で基礎年金部分の年金移行債を交付されます」
「つまり、国は『今まで払った分はインフレ調整した移行債で交付するから、あとは自分で運用しろ』ということか」
「その通りです」梶川が図を描きながら続ける。「しかも運用先は私的年金ファンドのみ。初期設定は100%年金移行債の安全型ファンドですが」
山市の表情が険しくなる。「これは事実上の制度解体だな」
「解体ではなく、民営化です」守本が冷静に訂正する。「年金移行債を発行して個人勘定にするだけで、政府の債務は変わりません」
「変わるのはリスクの所在だけか」
「そういうことです」守本が補足する。「ただし、運用インセンティブは用意しています。元本は60歳まで引き出せませんが、運用配当は年間元本の3%まで引き出し可能です」
山市の眉が上がる。「つまり、うまく運用すれば現役時代からメリットを享受できる?」
「その通りです」梶川が頷く。「安全型ファンドの配当は移行債のクーポン(年1-2%)と債券管理収益で年2-3%を想定しています。実質的な追加収入になります」
山市が深いため息をついた。「ただし」彼の表情がさらに厳しくなる。「政治的ハードルは高い。この制度、本当に実現できるのか?」
市島が答える。「段階的に実施すれば可能だと思います。ただ、相当な説明が必要になりますが」
「野党は猛反発するだろうな」山市が呟く。「『弱者切り捨て』『自己責任の押し付け』と批判される」
守本が論理的に反論する。「しかし現状維持は不可能です。数字が物語っています」
「分かっている」山市が資料を閉じる。「とりあえず、省内での検討を始めよう。まずは事務次官、局長レベルでの議論からだ」
梶川が心配そうに聞く。「審議会の先生方には、いつ説明しますか?」
山市が苦笑する。「彼らには『検討中』で押し通す。具体案ができてから、事後承認してもらう」
「捺印機関としての役割ですね」市島が呟く。
「そう。彼らは捺印機関。実際の政策決定は、ここでやっている」山市が正直に認めた。
「民主的プロセスって何やろうな」梶川が哲学的に呟く。
「建前です」守本がきっぱりと言った。「重要な政策決定で、本当に民主的プロセスが機能した例がありますか?結局、専門家が決めて、政治家が承認して、有識者が追認する」
山市が立ち上がる。「では、次の段階に進もう。事務次官への説明は私がやる。君たちは詳細設計を続けてくれ」
「はい」3人が同時に答える。
山市が去った後、静寂が戻る。
市島が呟く。「ほんまに民主主義って何やろな」
「効率的な政策決定には向いてないシステムやな」梶川が率直に言う。
「でも、他に方法がありますか?」守本が問いかける。「専門性の高い政策を、専門知識のない一般市民が決められるとは思えません」
「せやけど、その結果が正しいとは限らんやろ?」市島が反論する。
「正しさより、実現可能性が重要です」守本がきっぱりと言う。「完璧な制度を作っても、政治的に実現できなければ意味がない」
梶川が深いため息をつく。「結局、みんながちょっとずつ損して、みんながちょっとずつ得するシステムを作るしかないんやな」
「それが政治というものでしょう」守本が達観したように言った。
3人は再び資料に向かう。日本の未来を決める制度設計が、人目につかない会議室で静かに進んでいく。
外では、社会保障審議会の委員たちが「慎重な検討」を続けている。彼らは知らない。自分たちが議論している間に、まったく別の場所で、まったく別の人々が、まったく別の結論を出していることを。
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