第1章 極秘試算(7)◆ 15 省内の暗闘
◆ 15 省内の暗闘
2月3日 午前9時 厚生労働省 会議室
緊急幹部会議が招集された。山市隆文厚生労働大臣(62歳)を筆頭に、斎藤信之年金局長(57歳)、佐々木健太厚生労働審議官(58歳)、黒田隆司大臣官房長(54歳)、そして藤原健一年金課企画官(47歳)が重い表情で着席していた。
藤原が試算結果を説明するにつれ、会議室の空気が徐々に重くなっていく。
「なぜ私に事前に相談しなかったのか」
佐々木審議官の声には明らかな怒気が含まれていた。佐々木は20年前、当時の課長補佐として藤原の最初のレポートをシュレッダーにかけた人物だ。今は出世して審議官になっている。
「正確な試算のためには、予断を排除する必要がありました」
藤原の答えに、佐々木の顔が赤くなった。
「組織のルールを無視するのか」
「ただ真実を明らかにしたかっただけです」
藤原は静かに返した。二人の間に緊迫した空気が流れた時、山市大臣の重い声が響いた。
「今は内輪揉めをしている場合ではない」
大臣は藤原を見つめた。
「君の試算は正しいと思う。問題はこれをどう扱うかだ」
黒田官房長が身を乗り出した。
「この情報が漏れたらパニックが起きます。株価は暴落し、国債は売られ、円は大暴落する」
「分かっている、分かっている」
山市大臣は深いため息をついた。
「でもいつかは公表しなければならない。問題はいつ、どのように、だ」
その声には、避けられない現実への諦観が滲んでいた。
◆ 16 総理への報告準備
2月10日 金曜日 午前9時 厚生労働大臣室
一週間の検証を経て、山市大臣は決断した。
「総理に報告する」
大臣室には、斎藤局長と藤原がいた。
「藤原君、総理への説明資料を作ってくれ」
「はい」
「ただし、極秘扱いだ。コピーは3部のみ。総理、官房長官、そして私の分だけだ」
藤原は頷いた。
山市大臣は、窓の外を見た。
「藤原君、君には娘がいたね」
「はい、2人います」
「もし、この事実を公表したら、君の娘たちはどうなる?」
藤原は、一瞬考えた。そして答えた。
「苦労するでしょう。でも、嘘の上に築かれた幸せよりは、マシだと思います」
山市は、藤原を見た。
「君は、『お父さんが日本を潰した』と言われる覚悟があるのか?」
その問いに、藤原は答えられなかった。
正直、その覚悟があるかどうか、分からなかった。
咲と葵の顔が浮かぶ。彼女たちに、そんな重荷を背負わせていいのか。
でも、このまま嘘を続ければ、もっと大きな重荷を背負わせることになる。
「大臣」藤原は言った。「少なくとも、真実を語る方が、嘘を続けるよりはマシだと信じています」
山市は頷いた。
「そうだな。私もそう思う」
◆ 17 家族との時間
2月14日 日曜日 午後2時 藤原家
バレンタインデーの午後、藤原家のリビングには甘い香りが漂っていた。美智子が朝から作っていたチョコレートケーキが、テーブルの中央に置かれている。
「お父さん、はい」
咲と葵が、手作りチョコを差し出した。不格好だが、心のこもった包装紙に包まれている。
「ありがとう」
藤原は娘たちの笑顔を見つめた。この笑顔を守りたい。でも、どうやって?
咲が心配そうに顔を覗き込んできた。
「お父さん、最近疲れてるみたいだけど、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ」
「嘘」
葵の即答に、藤原は苦笑した。
「お父さん、嘘つくとき、目が泳ぐんだよ」
15歳の次女の鋭い観察眼に、藤原は返す言葉を失った。美智子がそっと夫の肩に手を置く。
「あなた、無理しないで。家族がいるんだから、一人で抱え込まないで」
藤原は改めて家族の顔を見た。美智子、39歳。まだ若い。咲、17歳。来年は大学受験。葵、15歳。高校受験の年。彼女たちに、どんな未来を残せるのか。
「みんな、ありがとう。お父さんは、みんなのために頑張るよ」
でも、その頑張りが家族を不幸にするかもしれない。その矛盾に、藤原は苦しんでいた。窓の外では、冬の陽が傾き始めていた。
◆ 18 総理への報告
2月20日 金曜日 午前10時 総理官邸
総理執務室の重い空気の中、石原慎吾総理は山市厚労大臣の報告を聞きながら、表情を変えなかった。1957年生まれ、70歳。東大農学部を卒業後、農林水産省に入省。その後、政界に転身し、長きにわたって農林族として力をつけてきた。誠実だが不器用な性格で知られる。
執務室には、富沢誠一郎内閣官房副長官(52歳)と藤原健一厚労省年金課企画官(47歳)も同席していた。
「山市君、つまり、2030年に年金が破綻すると」
「はい、総理。最悪の場合、2029年3月です」
石原総理は資料を見つめた。その手が、かすかに震えている。
「藤原君」
総理が藤原に声をかけた。
「この試算は、確かなのか?」
「はい、総理。複数の手法で検証しました。間違いありません」
石原は立ち上がり、窓の外を見た。皇居の緑が見える。
「100年安心プランが、10年も持たないのか」
その声には、深い絶望が滲んでいた。総理は振り返った。
「私には、息子が2人いる」
藤原は、総理の家族構成を思い出した。長男45歳、次男43歳。二人とも既婚で、長男には子供が2人、次男には1人いる。
「彼らも、年金はもらえないということか」
「現状のままでは、はい」
石原は深いため息をついた。
「富沢君、どう思う?」
富沢はしばらく考えてから答えた。
「総理、私たちには2つの選択肢があります」
「聞こう」
「一つは、このまま隠し続ける。少なくとも、総理の任期中は持つでしょう」
「もう一つは?」
「真実を公表し、抜本的な改革を断行する」
石原は富沢を見つめた。
「君ならどうする?」
富沢は一瞬藤原を見た。そして静かに答えた。
「真実を語ります。私にも、子供がいますから」
◆ 19 決断への道
2月21日 土曜日 午後3時 総理公邸
公邸の書斎で、石原総理は一人静かに考えを巡らせていた。窓から見える梅の花が、早春の陽光を受けて輝いている。早咲きの梅だ。春はもうすぐそこまで来ている。
でも、日本の春は来るのだろうか。
携帯電話が鳴った。妻からだった。
「あなた、今夜は帰れる?」
「ああ、帰るよ」
「孫たちが来てるのよ」
長男の子供たち、8歳と6歳の声が電話越しに聞こえてくる。
「分かった。早めに帰る」
電話を切った後、総理は再び窓の外を見つめた。孫たちに、どんな日本を残せるのか。嘘で塗り固められた砂上の楼閣か、それとも厳しいが真実の上に立つ国か。
梅の花が風に揺れていた。総理は、深く息を吸い込んだ。そして、決心した。