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第12章 密室の設計者(2)2030年5月18日 土曜日 午後6時

◆ 同日 午後6時


◇ 厚生労働省 会議室C-7


薄暗い廊下の向こうから、梶川安奈の足音が近づいてくる。扉を開けると、既に市島綾人が広いテーブルに資料を広げて待っていた。細身の体をスーツに包んだ彼は、コーヒーカップを片手に持っている。テーブルの菓子バスケットはすでに半分ほどになっていた。


「あかじ、遅かったなあ」市島が振り返る。「審議会、どうやった?」


髪を丁寧にまとめた梶川がドアを閉めながら苦笑いする。関西人同士の気楽さで、つい京都弁が出る。「いつも通りやな。皆さん『慎重に検討』て言うてはるだけ。具体案なんて一つも出てきいひんわ」


「そらそうやわ」市島が資料をパタンと閉じる。「ほんまの話は知らんもん」


二人の間に流れる理解の空気。先月、山市大臣から声をかけられた時の言葉が頭をよぎる。「表向きの審議会とは別に、実現可能な制度を設計してもらいたい。年金の専門家として、守本教授にもご助力いただこうと思っている」


著名人と一緒に仕事をするという興奮と緊張。翌週の初顔合わせで名刺交換した時の、教授の冷静な眼差しを梶川は思い出していた。


梶川が室内を見回す。窓のない会議室C-7、壁際に押し込まれた備品棚。正式な予約システムには載らない部屋を、山市大臣はあえて選んだのだろう。


梶川が腕時計を確認する。「守本先生は、今どのへんやろ?」


「もうすぐ来はるやろ」市島がコーヒーカップを手に取った時だった。


ドアが軽くノックされる。守本吾郎が頭を下げながら入室した。スーツ姿の二人とは対照的に、紺色のジャケットにジーンズという大学教授らしい格好だ。肩からかけたショルダーバッグから書類がのぞいている。


「梶川さん、市島さん、本日からよろしくお願いします」守本がバッグを椅子にかけながら会釈する。


「いえいえ先生、ご丁寧にありがとうございます」梶川が応じると、市島も続いた。「こちらこそご指導ください」


3人が揃うと、空気がわずかに緊張する。学者、官僚、そして調整役。それぞれの立場がテーブルを挟んで向き合った。


梶川がテーブルに資料を並べながら口を開く。「山市大臣からの指示です。年金制度の抜本改革案を作成してほしいとのことでして」


「抜本改革...」守本が眉をひそめる。「賦課方式の限界は20年前から明らかでした。今さら何を改革するんですか?」


市島が慎重に答える。「制度自体を変えるんです。賦課方式からの脱却という方向で」


「それは理想的ですが」守本が資料をめくる。「移行コストは?既受給者への対応は?」


梶川が大きなホワイトボードに立つ。「そこが一番の問題でして...現実的な解決策が必要やな」彼女は一瞬ハッとする。「失礼、必要です」


彼女がマーカーで書き始める。


年金制度改革の課題

1. 既受給者(65歳以上)への対応

2. 受給直前者(60-65歳)への配慮

3. 現役世代への納得感

4. 移行コストの財源


「これ全部クリアしないと、政治的に実現できません」


守本が立ち上がってホワイトボードに近づく。「数学的に考えましょう」


彼が別のマーカーを取る。


解決策の方向性

- 既払い保険料をインフレ調整して返還

- 国債による前倒し支給

- 個人口座での運用


「年金移行債という形で、基礎年金部分を証券化する。これで移行できます」


市島が疑問を投げかける。「でも、それだと国債発行額が爆増しますよね。財政規律は...大丈夫なんか?」


守本が冷静に答える。「確かに一時的には発行額は増えます。しかし循環構造を作れば持続可能です」


「循環構造?」市島が眉をひそめる。


「年金移行債を発行して個人口座に交付する。その個人が私的年金ファンドで運用する。そのファンドが年金移行債を買い支える」守本がホワイトボードに図を描き始める。「つまり、年金移行債が年金移行債を買い支える構造です」


市島が理解する。「なるほど...政府債務は帳簿上増えるけど、実質的な資金調達圧力は軽減される」


「その通りです」梶川が続ける。「でも、それだけでは政治的に通りません。国民にとってのメリットが見えない」


彼女が振り返る。


「だから少子化対策と組み合わせたらどうやろう?」梶川の目が輝く。「あ、失礼。どうでしょうか?」


守本と市島が同時に「どういうことですか?」「どないいうこと?」と聞く。


梶川が興奮して続ける。「年金改革で浮いた財源を、子育て支援に回すんです。そしてその効果を、年金制度自体に組み込む」


「もう少し具体的に」守本がペンを構える。


「厚生年金の保険料を、出産数に応じて減免したらどうでしょう」


市島が目を見開く。「それって...」


「そうです!子供を産んだら年金保険料が安くなる。3人で6割、4人で8割、5人やったら完全免除です」梶川が身を乗り出した。


守本が計算を始める。「月収40万円なら...5人産めば月3.6万円の手取り増。年間43万円」


「高収入ほど効果が大きいので、経済力のある層の出産インセンティブが強力になります」


市島が慎重に問いかける。「でも、その減免財源はどこから持ってくるん?」


「年金移行債です」梶川が即答する。「基礎年金解体で浮く財源と、新規国債発行の組み合わせです」


守本がホワイトボードに数式を書き始める。


年金移行債の循環構造

1. 政府 → 個人口座に移行債交付

2. 個人 → 移行債売却、代金でファンド購入(強制)

3. ファンド → 市場の移行債購入(新発債・既発債問わず)

4. 市場での需給バランス維持


「これは...」守本が数式を見つめる。「移行債の交付→売却→ファンド購入→市場での債券購入の循環構造。数学的には美しいですが...」


「危険ではないですか?」市島が指摘する。


「全部が同じ債券を買ったら、市場メカニズムが働かんようになってまう」市島の声に力が入った。


梶川がにっこり笑う。「ですから、私的年金ファンドは2種類にしましょう。安全型と成長投資型や」


彼女が新しい図を描く。


私的年金ファンドの構造

- 安全型:年金移行債中心(初期100%)

- 成長投資型:株式・REIT・外債など


「所得審査で、成長投資型への振替割合を決める。最低10%は保証、最大90%まで可能」


守本が納得したように頷く。「これなら市場メカニズムが機能する。そして個人のリスク許容度に応じた選択が可能」


市島が冷静に分析する。「つまり、金融機関が個人の信用力を審査して、リスク資産への投資割合を決めるわけか」


「融資審査と同じ要領ですね」梶川が頷く。


「でも、これって結局...」市島が手を止める。「年金リスクを個人に転嫁してるだけちゃうん?」


梶川も頷く。「そうですね。きれいごと言うても、最後は自己責任やわ」


守本が二人のやりとりを聞いていて言う。「関西弁の方は何というか、勢いがありますね…」


梶川と市島が同時に振り返る。


「京都やで、うちは」

「大阪弁や!」


守本が慌てる。「あ、すみません。失礼しました」


「全然ちがうがな」市島が呆れる。


「奥ゆかしさが、ちごてるわ」梶川が微笑む。


微妙な沈黙。市島が菓子バスケットのクッキーを一口かじる音が妙に大きく響く。


守本が立ち上がり、ホワイトボードに近づく。書かれた数式を見つめながら、彼の表情が次第に変わっていく。眉間にしわを寄せ、まるで何かを思い出すように首を傾げている。


「先生?」梶川が椅子から身を乗り出す。


守本の目が急に輝いた。「少し、待ってください」振り返ると、その顔には興奮が浮かんでいる。「今、非常に興味深いことに気づきました」


新しいマーカーを手に取り、別のホワイトボードに向かう。ペンを握る手が微かに震えていた。


賦課方式の本質的問題

- フリーライダー問題:子供を産まない人も年金を受け取る

- 世代間負担の不公平:将来世代に負担を押し付ける


「私はずっと、これが致命的欠陥だと思っていました」守本が振り返る。「だから積立方式しかないと」


「でも?」市島が促す。


守本の目が輝く。「でも、皆さんの提案を聞いて分かりました。フリーライダー問題は、インセンティブ設計で解決できる」


彼が新しい図を描く。


出生数連動減免の経済学的意味

- 子供を産まない人:フルに保険料負担

- 子供を産んだ人:負担軽減

→ フリーライダー問題の完全解決


「これは...」守本が興奮して続ける。「賦課方式の欠陥を、インセンティブで補正する仕組みですね」


梶川が嬉しそうに頷く。「そうなんです!制度の枠組み自体は賦課方式のままでも、インセンティブを逆向きにしてやれば」


「なるほど」守本が計算し始める。「積立方式には購買力を市場から奪うデメリットがある。年間30兆円もの資金が運用に回されれば、消費市場への影響も無視できません」


市島が理解を示す。「せやから、賦課方式を維持しながら、インセンティブだけ変えてやる方が」


「経済全体への影響が少ない」守本が結論づける。「私は...私は根本的に思い込んでいました」


マーカーがカチリと音を立てて置かれる。守本は両手でホワイトボードを支えるように立ち、深く息を吸い込んだ。その目に知的な興奮が宿っている。


「20年間、積立方式への移行が唯一の解決策だと、頑なに信じ込んできました」彼が深いため息をつく。その表情には驚きと発見の喜びが混じっている。「賦課方式は破綻した制度だと決めつけて、他の可能性を一切考えようとしなかった」


振り返ると、梶川と市島が息を詰めて見つめていた。


「でも皆さんの提案を聞いて分かりました」守本の声が次第に力強くなる。「賦課方式でも、正しいインセンティブ設計があれば機能する。むしろこちらの方が、経済全体には優しい解決策かもしれません」


梶川が安堵の表情を見せる。「先生に認めていただけて、ありがたいです」


「ほんま、実現可能性が見えてきましたな」市島も満足げに頷いた。


守本が苦笑いから、わずかに目を輝かせる。「学者の悪い癖ですね。一度理論に固執すると、それが絶対だと思い込んでしまう」そう言って彼は軽く頭を下げた。「まさか、もう一つの道があったとは」


3人は改めてホワイトボードの数式と図表を眺める。賦課方式と積立方式の長所を組み合わせた、新しい制度の骨格がそこにあった。


時計を見ると、午後9時を回っている。3時間の激論だった。


守本が立ち上がる。「では、今日の議論を整理して、叩き台を作成しましょう。次回までに数値シミュレーションもやります」


「頼みます」梶川が資料をまとめる。「山市大臣には経過報告せなあかん」


市島が最後に確認する。「ところで、この制度に名前つけるとしたら?」


梶川が考える。「年金移行債制度...どうやろか」


「もうちょっと政治的にソフトな名前の方がええんちゃう?」


「年金安心化プログラム?」


「嘘っぽいなあ」


守本が提案する。「年金個人口座制度、というのはどうでしょう」


梶川が思わず手を叩く。「それです!個人口座やったら、自分の資産って感じしはりますやん」


市島も思わず皮肉る。「でも実態は国債やけどな」


「そこは言わんでもええやん」梶川が苦笑いしてから、守本教授を見る。「あ、いえ。あまり言わない方がよろしいでしょうね」


3人は資料を片付け、密室を後にした。この夜の議論が、日本の年金制度を根本から変える出発点となることを、まだ誰も知らない。


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