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第11章 認知の罠(7)2030年春

◆ 2030年春


◇ 全国展開とその後


2030年3月、片瀬智美は木村健太と結婚した。同年9月、長女が誕生する。


エンカウント政策は2030年春から全国展開され、出生率を押し上げ、離婚率を減少させた。地域共生ステーション〈きずな〉は最終的に全国の高等学校の7割の近隣ほか交通の結節点に設置され、「通学路のきずな効果」として社会科学の教科書に載ることになる。


片瀬の専門は「認知環境と行動変容の社会実装」となり、彼女の論文は21世紀の人口政策学の出発点として広く引用されることになる。


しかし彼女は、生涯をかけて重い問いと向き合い続けることになる。


人間の心を操作することが、本当に正義なのか?社会貢献と称して誰かを見せ物にすることは、たとえ本人が幸せだったとしても、尊厳を奪っていたのではないか?


その答えを、彼女はまだ見つけられずにいる。


---



◆ 2031年2月20日 木曜日 午前10時


◇ 社人研 片瀬の研究室


産休から復帰して2ヶ月。片瀬は、新しい研究テーマに取り組んでいた。エンカウント政策の研究は昨年末で終了。今は「地域コミュニティと出生行動」という、より一般的なテーマを与えられている。生後5ヶ月の娘は、社人研の保育施設に預けている。授乳のため、3時間おきに中断される研究生活だが、それでも充実していた。


「興味深いデータがあります」片瀬が助手に画面を見せた。表向きは別研究だが、実質的にはエンカウント政策の効果も含まれている。


「第3子を産む確率を比較したんです」片瀬が説明を始めた。


- 高齢者福祉施設の近くに住む夫婦:通常の1.25倍

- 農業共同体のある地域の夫婦:通常の1.20倍

- 近距離居住支援を使って親と近居する夫婦:通常の1.35倍

- 全て重なる場合:通常の2.3倍


「興味深い」助手が計算を始めた。「加法モデルなら1.8倍、乗法モデルでも2.03倍。でも実際は2.3倍」


片瀬は眼鏡を押し上げながら頷いた。「そう、明確な交互作用。恐怖と希望と経済支援が重なると、単なる足し算以上の効果が生まれる。これぞ相乗効果です」


電話が鳴る。山市大臣の秘書官からだった。


「片瀬先生、大臣からお伝えするよう申し付かっております。2030年の出生数、確定値が出ました。152万人です」


片瀬は息を呑んだ。2026年の91万人から、わずか4年で1.67倍。


「これは...奇跡ですか?」


「いいえ」秘書官が大臣の言葉を代弁する。「大臣は『計算され尽くした政策の結果です。そして、これはまだ始まりに過ぎません』とおっしゃっています」


電話を切った後、片瀬は保育施設にいる娘のことを思った。この子が大人になる頃、日本はどんな社会になっているのだろう。自分の政策が作り出す未来に、責任を感じる。




◆ 2031年4月15日 水曜日 午後4時


◇ 東京都内 大型書店


生後7ヶ月の娘をベビーカーに乗せた片瀬は、書店の高校生向けコーナーで足を止めた。平積みされた本のタイトルが目に飛び込んでくる。


『実装された機能を全て使い尽くせ ──18歳のための人生哲学──』

著者:森田沙耶香


帯には「元フェミニスト作家が語る、本能と理想の統合」とある。発売から3ヶ月で30万部突破のシールが貼られていた。


片瀬は手に取り、パラパラとめくった。ベビーカーの中で娘がぐずり始める。


「君たちに実装されている機能は何か?知性、感情、生殖能力、そして愛。愛もまた、脳の機能だ。虚構だと知っても、それは実装されている。使うために備わっている。どれかを否定するのではなく、全てを限界まで使い尽くすことが、真の自己実現だ」


高校生たちが群がって立ち読みしている。制服姿の女子高生が友達に話しかけた。


「この人、昔は『産まない自由』とか言ってたらしいけど、今は3人産んでるんだって」


「でも、産めって言ってるわけじゃないよ。『全部使え』って」


「学校の隣の施設見てから、この本読むと、なんか分かる気がする」


片瀬は本を戻した。娘に「しーっ」と声をかけながら、エンカウント政策が全国20県に展開された今の状況を思う。まだ一部の地域だが、高校隣接型の設置が進んでいる。森田の本は高校生たちの「答え」として機能していた。


出産圧力と自己実現の間で揺れる若者たちに、「どちらも選べ」という第三の道を示す。それは、恐怖による行動変容とは異なる、もう一つのアプローチだった。


さっき立ち読みしていた女子高生たちがレジに向かっていく。一人が本を持ち、友達が「私も買う」と慌てて棚から取る。


片瀬は、少し迷ってから、自分も一冊手に取った。7ヶ月の娘を育てる母として、森田の言葉がどう響くのか。データ分析とは別の、個人的な興味があった。


レジで会計を済ませながら、片瀬は思った。自分の作った政策と、森田の思想が奇妙な共鳴を起こしている。


恐怖と希望。ネガティブとポジティブ。二つのアプローチが、日本の未来を変えようとしていた。




◆ 書籍からの抜粋


その夜、娘を寝かしつけた後、片瀬は森田の本を開いた。最終章に、こんな一節があった。


---


『実装された機能を全て使い尽くせ』より


第12章「統合への道」


私はかつて、女性の出産を「システムへの屈服」と捉えていた。しかし今は違う。


子宮も、知性も、感情も、愛も、全て私たちに実装された機能だ。これらを「使わない自由」を主張することも、「使う義務」を課すことも、どちらも不完全だ。


真の自由とは、全ての機能を認識し、それを限界まで使い尽くす選択をすることだ。子供を産み、育て、同時に思索し、創造し、愛する。矛盾?いいえ、それが人間という存在の全体性だ。


若い読者たちへ。君たちの体に、心に、実装されている全ての機能を恐れるな。それらは敵でも味方でもない。ただの道具だ。そして道具は、使うためにある。


虚構だと知りながら愛し、動物だと知りながら理性を持ち、有限だと知りながら永遠を夢見る。その全てを同時に生きることが、私たちに可能な最大の反逆なのだ。


---


片瀬は本を閉じた。腕の中で眠る娘の寝息が静かに響く。ミルクの甘い匂いが微かに漂っている。


森田の言葉が心に響く。全ての機能を使い尽くす。片瀬は研究者として知性を使い、女性として子宮を使い、そして今、母として新しい機能を発現させている。


「この子のためにも」片瀬は呟いた。


エンカウント政策はもう自分の手を離れている。2030年生まれのこの子が大人になる頃、日本がまだ存続していて、活力ある社会であるために。恐怖を使った政策だったかもしれない。「えげつなかった」かもしれない。でも、それで出生率が回復し、この子に仲間が増えたのなら。


片瀬は決意を新たにした。データも、政策も、全ては次世代のため。自分の腕の中で眠る、小さな未来のために。


(第11章 続く)


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