第11章 認知の罠(6)12月31日 火曜日 午後11時50分
◆ 12月31日 火曜日 午後11時50分
◇ 片瀬の自宅
大晦日の夜、片瀬は実家で過ごしていた。両親は早めに寝室に引き上げ、一人でテレビを見ている。紅白歌合戦が終わり、ゆく年くる年が始まっている。
スマートフォンには、木村からのメッセージが届いていた。
『年明けに、婚姻届を出そう』
片瀬は少し震える指で返信した。『はい』
11月のあの徹夜から、関係は急速に進展した。データ分析の相談から始まり、12月には毎日のように会うようになった。クリスマスの夜、木村は正式にプロポーズした。「結婚してください」。シンプルで、研究者らしい言葉だった。
両親への挨拶は年明けすぐに済ませることになっている。そして1月中には婚姻届を提出する予定だ。
除夜の鐘が聞こえ始めた。
片瀬は、自分の研究ノートを開いた。『ENCOUNTER-2029』というプロジェクトフォルダ。その中には、膨大なデータと分析結果が詰まっている。
自分が証明したこと。認知フレームを変えれば、人の行動は変わる。結婚願望も、出産意欲も、すべて環境次第で操作可能。
そして今、自分自身がその証明となっている。婚活アプリに登録し、木村との関係を深め、結婚を意識し始めている自分。
煩悩の数だけ鐘が鳴る。107つ目、108つ目。
新年の瞬間、片瀬は決意した。
認知の罠。それは、仕掛ける側も必ず捕らわれる。しかし、それでもいい。日本が生き延びるなら、自分が実験対象になることも、悪くはない。
2030年が始まった。
◇ 片瀬の研究室
片瀬は、個人的な書類に向かっていた。婚姻届。相手の欄には「木村健太」と記されている。35歳。社人研の研究員。ペン先が震えているのは、緊張のせいだろうか。
ドアがノックされ、研究助手が入ってきた。その顔には祝福の笑みがある。
「先生、おめでとうございます」
「ありがとう」片瀬は微笑みながら書類を見せた。「まさか自分が結婚するとは」
助手が興味深そうに聞く。「木村さんとは、どうやって?」
片瀬は少し赤くなった。「共同研究で徹夜が続いて...疲れている時に、彼の匂いが妙に心地よくて」
「匂い?」助手が驚いた表情を見せる。
片瀬は眼鏡を押し上げながら、研究者らしい分析を始めた。「フェロモンです。科学的に。ヒトも動物。生殖に適した相手の匂いに惹かれる。理性じゃない、本能です」
「それで結婚を?」
「データ分析の結果」片瀬の表情が真面目になる。「遺伝的相性は良好。出産適齢期のリミットも近い。合理的判断です」
助手は苦笑した。「愛は?」
「愛情?それも脳内物質の作用です。オキシトシンとドーパミンの...」
話しながらも、片瀬の表情は柔らかかった。理屈をこねているが、幸せなのは明らかだ。データの人も、結局は人間なのだと助手は微笑ましく思った。
電話が鳴る。伊勢野からだった。
「片瀬先生、第3期の最終データが出ました。2030年の出生数、推計で145万人に達する見込みです」
「145万人...」片瀬の声に驚きが滲む。
電話を切った後、片瀬は自分の腹部に手を当てた。まだ誰にも言っていないが、妊娠検査薬は陽性だった。自分も145万人の一人になるかもしれない。
エンカウント政策の立案者が、自らもその影響下で行動を変える。皮肉なのか、それとも政策の正しさの証明なのか。
◆ 2030年2月14日 金曜日 午後7時
◇ 都内レストラン 個室
バレンタインディナーの薄明かりの中、片瀬は木村と向かい合っていた。テーブルの上のキャンドルが二人の顔を優しく照らしている。
木村が切り出した。「そういえば、君があの政策を考案したんだって?エンカウント政策」
片瀬は箸を止めた。「知ってたの?」
「社人研で知らない人はいないよ」木村は微笑みながらワイングラスを回す。「天才的だけど、えげつない」
「えげつない...」片瀬は苦笑した。「えげつない嫁ですみませんね」
「いや、褒めてるんだよ」木村は笑った。「高齢者を見世物にして、若者を脅す。普通の人には思いつかない。でも...」ワインを口に運んでから続ける。「それで日本が救われるなら」
片瀬は俯いた。「私も、そう自分に言い聞かせてる」
「後悔してる?」
「分からない」片瀬は顔を上げ、木村の目を見つめた。「ただ、データは嘘をつかない。効果は実証された」
木村が片瀬の手を取る。その温もりに、片瀬の心が少し軽くなった。
「君らしいよ。データ至上主義」
「でも」片瀬は手を握り返した。「あなたと結婚するのは、データじゃない。これだけは、理屈じゃ説明できない」
木村は優しく笑った。「フェロモンのせいじゃなかったの?」
「それは後付けの理屈」片瀬も笑った。「本当は、ただ一緒にいたいだけ」
窓の外では、東京の夜景が輝いていた。レストランの他の個室からも、幸せそうな笑い声が聞こえてくる。今夜、何組のカップルが結婚を決めるのだろう。そのうち何組が、エンカウント政策の影響を受けているのだろう。
片瀬が意を決したように口を開く。「ねえ、私、妊娠してる」
木村はワイングラスを落としそうになった。
「本当?」
「陽性だった。まだ5週目」
木村は立ち上がり、片瀬を抱きしめた。個室で良かった、と片瀬は思った。
「エンカウント政策の立案者が、婚姻も出産も」木村が耳元で囁いた。「説得力あるね」
片瀬は苦笑した。確かに、これ以上の実証はない。自分が自分の政策の成功例になるとは。
---




