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第11章 認知の罠(5)2029年11月15日 金曜日 午前10時

◆ 2029年11月15日 金曜日 午前10時


◇ 国会議事堂 衆議院厚生労働委員会


年金制度改革に関する特別審議が行われていた。山市厚労大臣が答弁席に立つ。


「基礎年金制度の抜本的見直しについて、政府として検討を進めております」山市の声は落ち着いていたが、委員会室には緊張が漂う。


野党議員が激しく質問する。「高齢者の生活保障はどうするのか」


「新たな給付制度の創設と、生活保護制度の拡充で対応いたします」山市が資料を示しながら答える。「詳細は検討中ですが、現行制度と同等以上の保障を目指しています」


与党議員からも懸念の声が上がった。「世論の反発は必至では」


山市は眼鏡を押し上げた。「2027年の石原総理談話で既に方針は示されています。出生数増加と引き換えの構造改革。国民の理解を得られると確信しています」




◆ 11月20日 水曜日 午後11時


◇ 社人研 データ分析室


深夜、片瀬と木村は二人きりで作業を続けていた。エンカウント政策の効果測定データと、木村が担当する別の人口動態プロジェクト。偶然、両方のデータに相関が見つかり、急遽共同で分析することになった。


「このパターン、面白いですね」木村がモニターを指差した。「片瀬さんのエンカウントデータと、うちの婚姻率データが見事にシンクロしている」


片瀬は木村の隣に座り、画面を覗き込んだ。缶コーヒーの香りと、木村の汗の匂い。2日連続の徹夜でシャワーも浴びていない、明らかに汗臭い。なのに疲れているせいか、その匂いが妙に心地よく感じる。


「確かに...」片瀬は数値を確認しながら言った。「でも、これって...」


「うん、因果関係の証明になる」木村が続けた。「片瀬さんの仮説が正しいってことだ」


二人の距離が近い。徹夜続きで判断力が鈍っているのか、それとも...


「木村さん」片瀬が口を開いた。「最近、私...」


「何?」


「いえ、なんでもありません」


木村は片瀬を見た。片瀬が去年移籍してきてから1年半、こんなに近くで見つめ合うのは初めてだった。


「片瀬さん、実は俺...」木村が言いかけて、止まった。


沈黙。エアコンの音だけが響く。


「続き、明日にしましょうか」片瀬が立ち上がった。


「うん、そうだね」


しかし二人とも、何かが変わり始めていることを感じていた。



◆ 12月10日 火曜日 午前10時


◇ 内閣府 特別会議室


「地域共生ステーション事業、第1期の総括です」


大型スクリーンに、全国地図が映し出された。福井県が赤く光っている。


内閣府の高官が十数名、テーブルを囲んでいた。その中には、見覚えのない顔もあった。防衛省、経産省、そして財務省からの出席者。


「興味深い結果です」伊勢野が説明を続ける。「福井県の婚姻率は前年同期比で15%減少していますが、これは想定通りです。石原談話後の結婚ラッシュで未婚者が減り、新規の結婚対象者が不足している」


財務省の官僚が口を開いた。「コストパフォーマンスは?」


石森が答えた。「施設運営費は年間3億円。一方、将来的な出生数増加による経済効果は、試算で500億円以上」


「投資対効果、166倍か」経産省の官僚が電卓アプリを叩いた。


最年長と思われる官僚が、ゆっくりと口を開いた。「諸君は、認知効果だけを見ている。しかし、この政策の真の価値は別にある」


全員の視線が集まった。


「2040年代、労働力人口は現在の60%まで減少する。特に地方では、介護施設の維持すら困難になる」


彼は立ち上がり、スクリーンを指差した。


「この施設配置を見てほしい。すべて人口密集地域、特に学校周辺。第二層の真の狙いがここにある。介護労働力の確保だ。高校生のアルバイト、大学生のインターン、主婦のパート。従来の過疎地施設では不可能だった労働力プールがここにはある」


片瀬は、初めて政策の全体像を理解した。三層構造。自分たちが見ていたのは、第三層の認知操作だけだった。


「全国20都道府県での展開を承認する」最年長の官僚が宣言した。「ただし、片瀬さん」


片瀬は顔を上げた。


「あなたの研究は、ここで一旦終了してもらう」


「なぜですか?」


「伊勢野君から報告を受けている。研究の倫理的側面で葛藤を抱えているとか。それに、連日の徹夜で体調も優れないようだ。第2期からは別のチームが引き継ぐ。あなたは十分な成果を上げた。感謝している」


片瀬は伊勢野を見た。いつ報告したのか。伊勢野は視線を避けた。


片瀬は、反論しなかった。むしろ、安堵すら感じていた。





◆ 12月25日 水曜日 午後2時


◇ 内閣府 極秘会議室


クリスマスの日、三人は第3期の劇的な結果を前に、息を呑んでいた。


「信じられない」伊勢野がデータを見つめた。


坂井高校生徒の意識調査(10-12月期):

- 理想子供数:2.8人(7月時点2.4人)

- 結婚願望:87%(7月時点72%)

- 「老後の不安」言及率:68%(7月時点23%)


「行動変化はまだ測定できません」片瀬が正直に認めた。「高校生はまだ結婚も出産もしない。でも意識変化は劇的です」


「そして」伊勢野が補足した。「保護者アンケートでも変化が。『子供から老後の話題が増えた』が42%。『家族の大切さを再認識』が35%」


「つまり」石森が続けた。「効果の本格化は10年後。でも種は確実に蒔かれている」


石森が追加データを示した。「対照群の丸岡高校、三国高校では、同期間の意識調査で理想子供数2.1人のまま。変化なし」


「つまり」伊勢野がまとめた。「施設の存在と認知フレームの変更。この組み合わせが鍵だった」


片瀬は、ノートPCに向かい、論文の草稿を書き始めた。タイトルは「認知フレーミングと出生行動:地域共生施設の立地効果分析」。


しかし、手が止まった。


「どうしました?」石森が聞いた。


「この論文を発表したら」片瀬は画面を見つめたまま言った。「世界中で同じ手法が使われるでしょう。高齢者を恐怖の材料として」


「それが問題ですか?」伊勢野が聞いた。


「分かりません」片瀬は正直に答えた。「ただ、私たちは確実に、何か大きな線を越えた気がします」


窓の外では、雪が降り始めていた。ホワイトクリスマス。街では若いカップルが幸せそうに歩いている。彼らの何組が、「親族に頼れない高齢者」の姿に怯えて、結婚を決めたのだろうか。




◆ 12月25日 水曜日 午後6時


◇ 社人研 片瀬の研究室


最後のバックアップが完了した。


『ENCOUNTER-2029』


フォルダには、すべてのデータ、分析結果、そして書きかけの論文が入っている。片瀬は、これを深層ディレクトリに移動させた。公式プロジェクトからは外れたが、データは残しておく。いつか、誰かが必要とするかもしれない。


研究室のドアがノックされた。伊勢野だった。


「メリークリスマス」


片瀬は微笑んだ。「もう帰ります」


「20県への展開、順調に準備が進んでいる。君のおかげだ」


「私は、データを集めただけです」


伊勢野は窓の外を見た。「データは嘘をつかない。しかし、解釈は人間がする。君は、正しい解釈をした」


「正しい、ですか」


「少なくとも、効果的な解釈をした」


片瀬はパソコンをシャットダウンした。画面が暗くなる。自分の顔が、黒い画面に映り込んだ。


「伊勢野さん」


「何だ?」


「この政策で、本当に日本は救われるんでしょうか」


伊勢野は即答しなかった。しばらくの沈黙の後、静かに言った。


「救われるかどうかは分からない。しかし、何もしなければ確実に滅びる。君も、そのデータを見たはずだ」


片瀬は立ち上がった。コートを羽織り、鞄を持つ。


「では、失礼します」


研究室を出る前に、もう一度振り返った。壁には、福井県の地図が貼られている。赤いピンが、地域共生ステーション〈きずな〉の位置を示していた。


廊下を歩きながら、片瀬は考えた。自分は観察者だったのか、それとも実験対象だったのか。おそらく、両方だったのだろう。



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