第11章 認知の罠(4)2029年8月10日 土曜日 午前10時
◆ 2029年8月10日 土曜日 午前10時
◇ 福井県福井市 藤原農園開園式
青空の下、藤原健一が開園の挨拶をしていた。49歳。昨年厚労省を退職し、1年の準備期間を経て、ついにこの日を迎えた。
「藤原農園は、単なる農業法人ではありません」実家の畑を背にした藤原は、集まった約10名の仲間たちを見渡す。「実家の2ヘクタールから始まりますが、近隣の休耕田も借り受ける予定です。氷河期世代の、氷河期世代による、氷河期世代のための共同体です」
入植者の多くは40代後半から50代前半。就職氷河期で正規雇用に就けず、結婚もできなかった人々。しかし、その顔には希望があった。
「ここでは全員が正社員。月給25万円保証」藤原が続ける間、聴衆の表情が明るくなっていく。「住居も提供。そして何より、仲間がいる。孤独じゃない」
田中昭二も聴衆の中にいた。53歳。日雇いの建設作業を辞めて、入植を決めた。隣の男に小声で話しかける。
「遅すぎた青春かもしれませんが、まだ30年はある」
相手は微笑んだ。「結婚は諦めたけど、家族みたいな仲間はできるかも」
田中は頷きながら思った。これが氷河期世代の「再出発」なのかもしれない。結婚も子供も諦めたが、尊厳ある生活への挑戦は続く。
◆ 8月20日 火曜日 午後3時
◇ 社人研 会議室
片瀬、伊勢野、石森の三人が、第2期の中間データを検討していた。
「高校隣接の効果が想定以上です」伊勢野が報告した。「車社会でも、高校生は自転車や徒歩通学。毎日必ず施設を目にします」
画面に通学パターンの分析が表示された。
- 自転車通学:412名(施設前を通過)
- 徒歩通学:178名(施設前を通過)
- バス通学:257名(施設横のバス停利用)
「坂井高校生のSNS投稿を分析しました」片瀬が画面を指した。「『学校の隣の老人ホーム怖い』『独居って書いてある』『将来ああなりたくない』。ただし、パイロット2校だけの投稿です」
「親世代への波及も確認」石森が補足した。「『娘が毎日その施設の話をする』『息子が老後の心配を始めた』という30-40代の親からの反応」
「つまり」片瀬が分析した。「車社会における唯一の『歩行者密集地帯』が高校。しかも10代は思想的柔軟性が高く、価値観形成期。この時期の刷り込みは一生残る」
「データが証明しています」伊勢野が追加した。「高校生の87%が『将来の家族計画を真剣に考えるようになった』と回答。成人の42%と比較して倍以上」
石森がファイルを開いた。「AIインタビューの分析結果です。『独居高齢者』というワードが出た後の発話を解析すると...」
画面に頻出ワードが表示された。
- 「将来不安」:出現頻度312回
- 「家族の大切さ」:287回
- 「孤独死」:198回
- 「結婚したい」:176回
「恐怖が行動を変えている」片瀬が呟いた。
「それは...正しいんでしょうか」石森が躊躇いがちに聞いた。
伊勢野が即答した。「正しいかどうかじゃない。効果があるかどうかです」
片瀬は窓の外を見た。東京の街並み。どこかで誰かが、『きずな』に入る独居高齢者の姿を思い浮かべながら、婚活アプリに登録しているかもしれない。
「第3期の準備を始めましょう」片瀬が決断した。「認知フレームの最終形。『きずなステーション=親族に頼れない高齢者の最後の場所』」
◆ 10月1日 火曜日 午前9時
◇ 福井県坂井市 市民ホール
第3期の説明会が開かれていた。市民約200名が参加している。
石森が壇上に立った。
「本施設は、様々な事情で親族のサポートを受けられない高齢者の方々のセーフティネットです」
会場がざわついた。若い母親が隣の人と小声で話している。サラリーマンがスマートフォンでメモを取っている。
「具体的には」石森が続けた。「子供との関係が疎遠になった方、配偶者に先立たれて頼る人がいない方、生涯独身で親族がいない方...」
片瀬は最後列から、聴衆の反応を観察していた。AIカメラが表情を分析している。不安:47%、同情:23%、恐怖:18%、関心:12%。
説明会後、若い夫婦が片瀬に話しかけてきた。
「あの...私たちの将来も、ああなる可能性があるんでしょうか」妻が不安そうに聞いた。
「統計的には」片瀬は慎重に答えた。「子供がいない夫婦の約3割が、老後に親族サポートを受けられない状況になります」
夫婦は顔を見合わせた。
「実は」夫が口を開いた。「子供を作るか迷っていたんです。でも、今日の説明会を聞いて...」
「決心がつきました」妻が続けた。「やっぱり、家族は必要ですね」
片瀬は複雑な表情で頷いた。これが狙い通りの反応。しかし、恐怖で人生の選択を変えさせることへの罪悪感も。
◆ 10月15日 火曜日 午後3時
◇ 社人研 会議室
片瀬は、分厚いレポートを前に座っていた。
「第2四半期の効果測定結果です」
伊勢野と石森が、データに目を通す。片瀬の指が、グラフの一点を示した。
「高校生の結婚願望、4月時点で32%、7月で41%、そして10月で48%」
石森が眼鏡を外して拭いた。「半年で1.5倍か」
「特に注目すべきは、この相関です」片瀬がページをめくる。「施設への接触頻度と結婚願望の上昇率。週5日以上目にする生徒は、62%まで上昇しています」
伊勢野がタブレットで独自の分析を見せた。「SNSの投稿分析も興味深い。『きずな』という単語の出現頻度が、ネガティブ文脈で使われる率が87%」
「恐怖の対象として定着している」石森が呟いた。
片瀬は立ち上がり、窓の外を見た。秋の陽射しが、研究所の中庭を照らしている。連日の徹夜でデータ分析を続けた疲労が、体に蓄積していた。
「第3期の準備はどうなっている?」伊勢野が尋ねた。
「予定通りです。来年1月から『親族に頼れない高齢者』というメッセージングを強化します」
石森が咳払いをした。「本省からの連絡だが、全国展開が正式に決まった。20都道府県で来年4月スタートする」
片瀬は振り返った。その表情に、かすかな違和感が浮かんでいた。
◆ 11月8日 金曜日 午後7時
◇ 片瀬の自宅
片瀬は、ノートパソコンの画面を見つめていた。婚活アプリのプロフィール作成画面。
「職業:研究員」
「年齢:31歳」
「趣味:データ分析、読書」
指が止まった。なぜ自分がこんなことをしているのか。
スマートフォンが震える。伊勢野からのメッセージだった。
『福井のデータ、素晴らしい結果です。大臣も満足しています』
片瀬は苦笑した。自分が分析したデータ、導き出した結論。そして今、自分自身がその影響下で行動している。
31歳、独身、キャリア優先。それが半年前の自分だった。いつから変わったのか。施設を視察するたびに感じた、漠然とした不安。入居者たちの姿を見て湧き上がる「ああはなりたくない」という思い。
テレビでは、ニュースが流れていた。『婚活市場が活況。マッチングアプリ登録者数、前年比40%増』
片瀬は、プロフィールの「自己紹介」欄に向かった。何を書けばいいのか。「エンカウント政策の立案者です」とは書けない。
結局、ありきたりな文章を入力した。「仕事に打ち込んできましたが、そろそろ家庭を持ちたいと思っています」
送信ボタンを押す瞬間、片瀬は自問した。これは自分の意志なのか、それとも...




