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第11章 認知の罠(3)7月1日 月曜日 午前10時

◆ 7月1日 月曜日 午前10時


◇ 福井県坂井市 地域共生ステーション〈きずな〉


第2期が始まった。看板は変わっていない。だが、新たに「支援センターだより」という広報誌が配布され始めていた。


片瀬は、高校の昇降口で配布されている「だより」を手に取った。タイトルは「独居高齢者の生活を支える」。看板を変えずに、認知フレームだけを巧妙にシフトさせている。


「坂井高校3年生243名全員と、一部の2年生に配布しました」伊勢野が報告した。「朝のホームルームで担任から。掲示板にも貼り、保護者向けにも持ち帰らせています」


「反応は?」


「『独居』という言葉が、配布した生徒たちの間で話題になってます」伊勢野がスマホを見せた。「坂井高校のLINEグループでの投稿が200件を超えました。ただし、他の地域には拡散していません」


「データが来ました」伊勢野がタブレットを見せた。


通行人数:278名(高校生)

視線を向けた人:259名(93.2%)

立ち止まった人:114名(41.1%)

スマホで撮影:128名(46.2%)


「第1期と比べて、全ての指標が上昇」片瀬が分析した。「特に撮影率が27.6%から46.2%へ。『支援センターだより』効果です」


石森が施設から出てきた。表情は複雑だ。


「『支援センターだより』は実質1種類です」石森が説明した。


片瀬と伊勢野が興味深そうに聞いた。


「レイアウトも記事も写真も全部同じ。ただし外部向けは『独居高齢者の生活を支える』、内部向けは『充実したシニアライフ』と、タイトルだけ差し替え」


「コスト削減ですか」


「それもありますが」石森は苦笑した。「内部は50部、外部は2000部。わざわざ別版を作るほどでもない。見出し一つで印象は変わりますから」


「合理的ですね」片瀬が呟いた。「最小限の工夫で、入居者のプライドと外部への訴求を両立」


「ただ」伊勢野が懸念を示した。「北川記者みたいな人が両方見比べたら...」


「すぐには気づかないでしょう」石森は落ち着いていた。「記者は外部版しか手に取らない。入居者の部屋に貼ってある内部版を見ても、レイアウトが同じだから『同じもの』と思い込む」


「見出しの違いに気づくまでには時間がかかる」片瀬が理解した。「その頃には、もう第3期に移行している」


「仮に気づかれても」石森は付け加えた。「『内部向けは当事者視点、外部向けは支援者視点。それぞれの読者に応じた編集方針です』と説明できます」


片瀬は眼鏡を外し、レンズを拭いた。真実と演出の境界線で揺れる自分を感じながら。




◆ 2029年7月10日 水曜日 午後2時


◇ 総理官邸 総理執務室


「志茂野君、近距離居住支援の進捗はどうだ?」


石原慎吾が執務室の椅子に深く腰を下ろしながら尋ねた。72歳になった総理の声には、2年前の覇気とは違う、深い疲労が滲んでいた。


「全国300箇所の整備は順調です」志茂野創平は報告書を開いた。筋骨隆々とした185センチの巨体が、ソファに深く腰を下ろしている。「利用者数も当初想定を上回っています」


親子近居への住宅補助と相談拠点の全国展開。地味だが確実な政策だった。


「母親給付金の件も関連するが」石原は窓際に歩きながら続けた。「想定以上に機能している。来年度には積立金が枯渇する見込みだ。だが、これは嬉しい悲鳴だ」


志茂野の眼光が鋭くなった。「財源確保が課題ですね」


「そうだ。厚労省の課題だが、君の政策とも関連が深い」石原は振り返った。「それと...」声を落とす。「地域共生ステーションの整備というものがある」


志茂野は表情を変えなかった。「高校近くの福祉施設。介護労働力の確保が狙いですね」


「まあ、それだけではないが」石原が続けた。「山市君が詳細を検討している。君もいずれは厚労大臣も視野に入れているから、勉強しておいてくれ」


「承知しました」志茂野は淡々と答えた。「慎重に扱います」


石原は深く頷いた。この男なら将来の厚労大臣としても適任だろう、と確信を深めた。




◆ 2029年7月25日 木曜日 午前10時


◇ 総理官邸 総理執務室


「総理、地域共生ステーションの構想について、ご相談があります」


山市厚労大臣が重い表情で石原総理と向き合っていた。60歳を超えた山市の顔には、3年間の激務の跡がくっきりと刻まれている。


「どうした?難しい顔をして」


「実は...」山市は薄いファイルを慎重に机に置いた。表紙には「特別管理案件」とだけ記されている。「伊勢野政策企画官の立案した三層構造について、総理の最終判断をいただきたく」


石原が眉をひそめる。「三層構造?」


山市は深いため息をついた。「第一層は表向きの福祉政策。高齢者支援は本物です。第二層は介護労働力の確保。高校生アルバイトや大学生インターンという労働力プールの活用。そして第三層...」


「第三層?」


山市は躊躇った。「これは...政治的にデリケートな話ですが」


「言ってくれ」


「若者への認知フレーム操作です」山市が静かに答えた。「高齢者の孤独な姿を意図的に見せることで、若い世代の結婚・出産意欲を刺激する」


石原は沈黙した。しばらくして、ゆっくりと口を開いた。「一石三鳥...実に巧妙だ」


「これが表に出たら...」山市が心配そうに言った。


「慎重に扱おう」石原は断言した。「しかし効果があるなら、やる価値はある。出生数回復は国家の急務だ」


「片瀬さんという研究者が理論的基盤を作りました」山市が付け加えた。「認知効果の統計分析、高校生の意識変化の追跡調査...実に説得力のある研究です」


「その方の口止めは?」


「もちろんです」山市は安堵の表情を見せた。


石原は深く頷いた。「地域共生ステーション、承認する。慎重に進めてくれ」


「ありがとうございます」山市は立ち上がった。「年金制度についても、将来的な検討が必要になるでしょう」


「その時は志茂野君と相談してくれ」石原は窓の外を見つめた。「あの男なら、数字で野党を説得できるだろう」




◆ 2029年8月5日 月曜日 午後3時


◇ 国会議事堂 厚労大臣室


山市厚労大臣が執務机に向かっていた。事務次官が定期報告のため入室する。


事務次官が資料を開く。「母親給付金の支給額が、予想を上回る出生数増で、来年度中に予算不足となる見込みです」


山市は苦笑した。「出生数が増えて困るとは。贅沢な悩みですね」


「しかし財源が...」事務次官の声に困惑が滲む。


山市が慎重に答えた。「総理と相談して、育児国債の発行を検討しましょう。子供への投資なら、国債での対応も正当化できるでしょう」


「分かりました」事務次官は頷いた。


山市は窓外を見つめた。「出生数が増えるのは良いことですが、制度設計の見直しも必要になってくる」


事務次官が退室した後、山市は秘書官を呼んだ。


「来年に向けて、年金制度の抜本的見直しを検討する必要があります」山市が振り返る。「非公式の検討チームを作りたい。適任者をリストアップしてください」


「どのような専門性をお求めですか?」


「年金数理に詳しい学者、制度設計に長けた官僚、そして政治的調整ができる人材」山市は机に向かった。「石原総理の意向でもあります。慎重に人選を進めてください」



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