第11章 認知の罠(1)2029年4月1日 月曜日 午前9時
◆ 2029年4月1日 月曜日 午前9時
◇ 福井県坂井市 地域共生ステーション〈きずな〉前
桜が満開だった。
2年前の今日、石原総理が歴史的談話を発表した。そして今日、日本の未来を左右するもう一つの実験が始まろうとしている。
片瀬朔実は、真新しい施設の前に立っていた。ガラス張りの明るい外観。坂井高校の正門からわずか50メートル。
片瀬が施設の向こうを指差した。春休みでも部活の生徒たちが、運動着やジャージ姿で施設を横目に通り過ぎていく。その視線の動きを、片瀬は見逃さない。
背後から声がかけられた。「片瀬先生」
振り返ると、伊勢野勝己が立っていた。44歳。内閣府の政策企画官として、このプロジェクトを統括している。
片瀬は腕時計を確認した。開所式まであと1時間。その目が伊勢野を捉える。
「石森は?」
伊勢野が施設を指差した。「中で最終確認をしています。入居予定者のリストと、職員の配置を」
片瀬は眼鏡を押し上げた。31歳。2年前は東大の助教だったが、今は社人研の主任研究官。エンカウント理論——認知フレーミングによる行動変容理論の提唱者として、この政策の理論的支柱となっている。
正面玄関の自動ドアが開き、石森直哉が出てきた。49歳。厚労省の生活保護制度改革の責任者。
石森の表情は硬い。「準備は整いました。第一期入居者、18名。全員、親族との関係が希薄な方々です」
片瀬の顔に複雑な影が差した。『希薄』という言葉の響きが、心に引っかかる。
「便利な言葉ですね」
石森は即座に返した。「事実です。子供がいても5年以上音信不通。兄弟がいても絶縁状態。そういう方々です」
伊勢野がタブレットを操作した。
伊勢野の指がタブレットのパンフレットをなぞる。「ただし、一般向けパンフレットでは『地域共生ステーション〈きずな〉 高齢者活躍支援事業』として、活躍支援の側面を強調しています。第1期は、純粋にそう見せます」
春休みの朝。部活動の朝練に向かう高校生たちが、自転車で次々と通り過ぎていく。近くのコンビニに朝食を買いに寄る生徒も多い。この施設は、その動線上に計算して配置されていた。
片瀬が指差した先で、通行人の何人かが施設を見上げ、足を止めていた。「もう効果が出ています」
ガラス越しに見える明るいロビー。そこに座る高齢者たちの姿。
「データ収集は?」伊勢野が確認した。
片瀬の声が研究者の冷静さを保つ。「AIカメラで視線追跡、歩行速度の変化、表情分析。すべて匿名化して記録します」
石森が懐から式次第を取り出した。紙面には来賓の名前が並ぶ。「10時から開所式。福井県知事、坂井市長、地元選出の国会議員が出席。マスコミも来ます」
片瀬の問いかけには懐疑の響きがある。「どう説明するんです?」
石森は淡々と答えた。「高齢者の生きがい創出と、多世代交流の促進。実際にその通りですから」
◆ 午前10時
◇ 施設内 多目的ホール
開所式が始まった。
福井県知事の岩川が壇上に立った。
「本日、ここ坂井市に、『地域共生ステーション〈きずな〉』がオープンします。単なる介護施設ではありません。高齢者が活躍し、地域と共に生きる場所です」
拍手が起こった。招待客は約50名。地元の有力者、福祉関係者、そして入居予定の高齢者たち。さらに、坂井高校の校長と進路指導主任の姿もあった。
片瀬は最後列で、入居者たちを観察していた。
梅津千代、78歳。息子は東京で会社員。もう5年会っていない。
永田信吾、82歳。妻に先立たれ、娘は海外。年に一度の電話だけ。
若林澄江、75歳。生涯独身。姪がいるが、疎遠。
彼らの表情は明るかった。新しい生活への期待。清潔で快適な個室。充実した共用施設。そして、月額利用料はわずか3万円。
「これは福祉です」岩川知事が続けた。「しかし、ただ支援を受けるだけではない。高齢者の皆さんの経験と知恵を、地域に還元していただく」
石森が小声で伊勢野に話しかけた。
「入居者は満足しています。職員の対応も良好。問題ありません」
「問題は、外からどう見えるか」伊勢野が答えた。
片瀬は、窓の外を見た。施設の前を通る若者たち。その多くが、一瞬足を止め、中を覗き込んでいく。ガラス張りの食堂で、高齢者たちが昼食の準備をしている姿が見える。
片瀬の呟きが漏れる。「第1期は『地域共生ステーション』という美しい名前で。第2期で『独居高齢者』を前面に。そして第3期で...」
伊勢野が言葉を引き取る。「『親族に頼れない高齢者のための施設』。『きずな』という名前の皮肉。認知フレームの段階的変更」
◆ 午後2時
◇ 坂井高校 応接室
石森と伊勢野が、高校を訪問していた。校長と進路指導主任が対応している。
「開所式へのご出席、ありがとうございました」石森が頭を下げた。
「いえいえ、地域貢献は高校の使命ですから」校長が応じた。「それで、体験学習の件ですが」
「新学期から、週に一度、希望者を受け入れます」石森が資料を広げた。「介護体験、多世代交流、キャリア教育の一環として」
進路指導主任が身を乗り出した。「アルバイトも可能だと」
「はい。時給は県の最低賃金より高く設定しています」伊勢野が補足した。「そして、もう一つお願いが」
「なんでしょう」
「進路調査の際に、『将来の家族計画』という項目を追加していただけないでしょうか」伊勢野がタブレットを見せた。「キャリア教育の一環として、ライフプランを考える機会に」
校長と進路指導主任が顔を見合わせた。
「まあ、今どきの生徒は現実的ですからね」校長が頷いた。「結婚や子育てのコストも含めて、将来設計を考えさせるのは良いことかもしれません」
「ありがとうございます」伊勢野が深く頭を下げた。「では、新学期からよろしくお願いします」
石森が資料をまとめながら付け加えた。「生徒たちには、純粋な体験学習として説明します。データ収集のことは」
「もちろん」校長が微笑んだ。「教育の一環ですから」
◆ 午後3時
◇ 施設内 交流スペース
北川誠一は、入居者の一人、梅津千代にインタビューしていた。
梅津の顔は明るかった。「こんな良い施設に入れて、本当にありがたいです」
個室には最新の家電。食事は栄養バランスが考えられ、味も良い。北川はその環境を確認しながら、次の質問を投げかけた。
「息子さんは?」
梅津の表情に一瞬影が差した。目を伏せ、言葉を探す。「東京で忙しいみたいで...」そして顔を上げ、無理に笑顔を作った。「でも、ここには同じような境遇の方がたくさんいらっしゃるから」
北川は、その言葉をメモした。「同じような境遇」。つまり、家族に頼れない高齢者たち。
施設を案内された北川は、違和感を覚えた。あまりにも快適すぎる。最新設備、行き届いたサービス、そして高校の目の前という立地。
北川の疑問は単刀直入だった。「なぜ高校の隣に?」
石森は用意していた答えをすらすらと述べる。「多世代交流の促進です。入居者18名に加え、通所利用者も30名ほど。高校生のアルバイトも採用していますし、体験学習の受け入れも」
北川の眉が動いた。「高校生が?」
石森は胸を張り、説明を続けた。「はい。これからの労働力不足の時代、介護人材の早期育成は重要です。また、地域の多世代交流拠点として、災害時には高校への避難も容易。メリットは多種ございます」
北川の追及は続く。「でも、この立地と設備で月3万円は安すぎる」
石森の微笑みは揺れない。「国と県と市の共同事業です。地域包括ケアシステムの一環として」そして穏やかに付け加えた。「高齢者と若者、双方にメリットがある立地を選んだだけです。問題でもありますか?」
模範的すぎる回答。北川の記者としての勘が、この「近さ」に別の意図を感じ取っていた。




