第1章 極秘試算(6)◆ 11 氷河期世代の現実
◆ 11 氷河期世代の現実
藤原の脳裏に、武生高校の同級生たちの顔が浮かぶ。
400人の同期。
東大に行ったのは、藤原を含めて3人。
旧帝大に行ったのは、15人。
地方国立大学に行ったのは、120人。
私立大学に行ったのは、150人。
短大・専門学校に行ったのは、80人。
就職したのは、32人。
そして今、2027年。卒業から29年。みんな47歳前後になった。
大塚真一。武生高校の同級生。一橋大学経済学部に進学し、地元の福井銀行に就職。今は支店長代理。地方エリートと言えるが、銀行の統廃合で先行きは不透明だ。
佐藤修一。福井大学工学部を卒業し、大手メーカーに就職。順調にキャリアを積んでいたが、40歳でリストラ。再就職できず、現在はコンビニでアルバイト。
「俺たちの世代、呪われてるよな」
去年の同窓会で、佐藤はそうつぶやいた。
そして、高校同級生以上に厳しい現実に直面しているのが、中学時代の同級生たちだった。
田中昭二。中学時代の同級生で、武生工業高校に進学。地元の工場に就職したが、2008年のリーマンショックでリストラ。以来、非正規を転々としている。現在は日雇いの建設作業員。月収15万円。独身。実家の離れに住んでいる。
藤原は、去年の夏、帰省した時に田中と偶然会った。
「健ちゃんは出世して、ええなあ」
田中の顔は、日焼けして皺だらけだった。47歳とは思えないほど老けていた。
「昭二も、頑張ってるじゃないか」
藤原は励まそうとしたが、言葉が空虚に響いた。
「頑張る?何を?俺の人生、もう詰んでるよ」
田中の目は、すでに諦めきっていた。
中野真由美。武生高校から短大に進み、地元の信用金庫に就職。25歳で結婚し、2人の子供を産んだ。しかし、夫がギャンブルにはまり、離婚。現在はシングルマザー。パートを3つ掛け持ちしている。
「子供の学費、どうしよう」
Facebook で、彼女の悲痛な投稿を見た。
長男は高校3年生。大学に行きたいと言っている。でも、学費が払えない。奨学金を借りるしかないが、それは子供に借金を背負わせることになる。
氷河期世代。1970年から1985年頃に生まれた世代。バブル崩壊後の不況期に社会に出た。
正社員になれなかった者が多い。
結婚できなかった者が多い。
子供を持てなかった者が多い。
そして今、彼らは40代後半から50代。もう、やり直しがきかない年齢だ。
藤原は、自分が例外的に恵まれていることを知っている。東大を出て、官僚になれた。結婚もできた。子供もいる。
でも、それは実力なのか、運なのか。
もし、センター試験でミスをしなかったら。
もし、一浪していなかったら。
もし、東大に入れなかったら。
人生は、ほんの小さな偶然で、大きく変わる。
◆ 12 深夜の省内
2月3日 午前4時
会議室に戻ると、新たなデータが表示されていた。
「藤原さん、これを見てください」
岡田が、画面を指さした。
「国民年金の納付率の地域別データです」
全国平均:68%
東京:52%
大阪:55%
福井:78%
島根:80%
「地方の方が、まだ年金を信じている」
藤原は呟いた。
地方の人々は、まだコミュニティが生きている。お互いに支え合う文化が残っている。だから、年金という相互扶助の仕組みも信じられる。
でも、都会は違う。個人主義が徹底している。自分の面倒は自分で見る。他人なんて信じられない。だから、年金も信じられない。
「藤原企画官」
山田が声をかけた。
「大臣への報告は、どうしますか?」
藤原は時計を見た。午前4時15分。
「朝一番で、局長に報告する。そして、大臣には10時に」
「分かりました」
山田は、報告書の作成に取りかかった。
藤原は、窓の外を見た。東の空が、少しずつ明るくなってきている。
新しい一日が始まる。しかし、この日は、普通の一日ではない。日本の運命を左右する一日になるかもしれない。
◆ 13 朝の帰宅
2月3日 午前6時 藤原家
藤原は、自宅のドアを開けた。
「お帰りなさい」
美智子が、笑顔で迎えてくれた。すでに朝食の準備をしている。
「ごめん、心配かけて」
「大丈夫。慣れてるから」
美智子は、藤原の顔を見た。
「でも、今回は違うのね。何か、大変なことが」
藤原は頷いた。詳細は話せない。でも、美智子には分かる。
「朝ごはん、食べる?」
「ありがとう」
食卓に座ると、娘たちが起きてきた。
「お父さん、おはよう」
長女の咲、17歳。高校2年生。
「珍しいね、朝からいるなんて」
次女の葵、15歳。中学3年生。
「ちょっと、早く帰れたから」
嘘だった。帰ったのではなく、これから出勤するのだ。でも、家族の顔を見たかった。
「お父さん、大丈夫?」
咲が心配そうに聞いた。
「ああ、大丈夫だよ」
でも、咲の目は、その嘘を見抜いているようだった。17歳。もう子供ではない。
朝食を食べながら、藤原は思った。
この平和な朝食が、いつまで続くだろうか。年金が破綻したら、この生活も崩壊する。
いや、それを防ぐために、今、戦っているのだ。
◆ 14 年金局長への報告
2月3日 午前8時 厚生労働省 年金局長室
斎藤信之年金局長は、藤原の報告を聞きながら、顔色を変えた。1970年生まれ、57歳。1993年入省。藤原の10年先輩だ。
「藤原君、これは確かなのか?」
斎藤の声は震えていた。
「はい、局長。複数の手法で検証しました」
斎藤はデータを見つめた。その目に深い苦悩が浮かんでいる。2030年に枯渇、最悪2029年。この数字が、まるで死刑宣告のように重くのしかかっていた。
立ち上がった斎藤は、窓の外を見た。霞が関の朝の風景。いつもと変わらない光景なのに、今日は違って見える。
「藤原君、実は私も、20年前に同じような試算をしたことがある」
藤原は顔を上げた。斎藤は窓の外を見たまま続けた。2007年、課長補佐の時だった。当時の試算では2040年に枯渇。でも握りつぶした。上からの圧力もあったが、自分でも信じたくなかった。
振り返った斎藤の顔には、深い後悔の色があった。
「藤原君、君は私より勇気がある。この試算を、最後まで貫いてくれ」
その声には、20年間抱え続けた罪の意識が滲んでいた。
「大臣に報告する。そして、総理にも」
斎藤の決意は固かった。もう逃げられない、逃げる時間もない。藤原の肩に手を置きながら、斎藤は静かに語り始めた。
「私にも息子が2人いる。32歳と30歳。まだ独身だ」
彼らにどんな未来を残せるか、それを考えるともう嘘はつけない。父親としての苦悩が、官僚としての決意を後押ししていた。