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第10章 115万人の衝撃(5)7月15日 日曜日 午後2時

◆ 7月15日 日曜日 午後2時


◇ 神奈川県 鎌倉 海岸


海水浴場は、妊婦と赤ん坊連れで溢れていた。まるで「マタニティビーチ」のような光景。


臨月の女性が夫に支えられながら歩いていた。45歳での高齢出産を控えた坂本弓子だった。


「もう少しで会えるね」夫が腹部に話しかけた。


近くでは、生後4ヶ月の赤ん坊を抱いた田中麻衣が、ママ友たちと話していた。


「うちの子と同じ学年が115万人もいるなんて」


「でも、来年はもっと増えるらしいわよ」別の母親が言った。「私の妹も妊娠したの。『2人目でクリアしたい』って。みんなクリアクリアって、まるでゲームみたい」


「でも分かりやすいわよね」別のママが笑った。「3人産めばクリア。シンプルで目標が明確」


麻衣は海を見つめた。この波は、どこまで続くのだろうか。



◆ 8月1日 水曜日 午前10時


◇ 内閣府 特別会議室


「パイロット事業の進捗です」石森が報告を始めた。


「福井県:9月着工確定。島根県:10月着工予定」


片瀬がデータを追加した。「7月の意識調査では、両県とも『将来への不安』に変化なし。当然ですが、施設がまだ建設中ですから」


伊勢野が重要な指摘をした。「むしろそれが良い。ベースラインとしてのデータが取れる」


「ところで」片瀬が別のデータを見せた。「7月の妊娠届、全国で15万件。前年比100%増です」


石森が驚いた。「倍増?」


「同調圧力による第三波が始まっています」片瀬は分析した。「『みんな産んでいる』という認識が、新たな妊娠を誘発している」



◆ 8月20日 月曜日 午前9時


◇ 厚生労働省 会議室


「8月の出生届、既に8万件を超えました」


職員の報告に、大臣は満足そうに頷いた。


「115万人は確実だな」


「はい。むしろ、118万人に届くかもしれません。さらに、来年は130万人の可能性も」


会議室がざわめいた。


「ただ」別の職員が深刻な問題を指摘した。「小児科医不足が顕在化しています。乳児健診の予約が3ヶ月待ちの地域も」


「保育士も足りません」さらに別の職員。「待機児童問題が再燃する恐れが」


大臣は苦い表情を見せた。「出産ラッシュの次は、育児インフラの危機か」


隣席の文科省の担当者が青ざめた顔で補足した。「6年後、この118万人が小学校に入学します。現在の小学校の受け入れ能力は年間100万人が限界。教室も教員も全く足りません」


「高橋文科大臣は既に対策本部を立ち上げたそうです」別の職員が言った。「『6年後の4月1日大パニック』と呼んで、緊急の教員養成プログラムを検討中とか」


「保育所、幼稚園、小学校、中学校...」大臣は頭を抱えた。「この波は20年間続く」



◆ 9月1日 土曜日 午前10時


◇ 福井県 坂井市 建設現場


パイロット事業の施設建設が始まった。地鎮祭には、県知事も出席した。


「この施設が、福井の未来を変える」岩川知事が挨拶した。


建設作業員の中に、田中昭二がいた。独身、45歳。セメントミキサーの音に混じって、仲間たちの会話が聞こえてくる。


「うちの娘も来月出産だ」若い作業員が自慢げに言った。「総理ベビーの仲間入りだな」


「いいなあ」別の作業員が羨ましそうに応じた。「うちももう一人作ろうかって話してる」


田中は黙々とセメントを流し込む。結婚の話、子供の話、家族の話。この現場では毎日それが話題だ。


「田中さんは?」若手が無邪気に聞いてきた。「結婚しないんですか?」


「...俺には関係ない話だ」


田中は型枠を確認しながら答えた。この施設が何のためのものか、正確には知らない。ただ「高齢者支援施設」とだけ聞いている。


昼休み、田中は一人で弁当を食べていた。コンビニの唐揚げ弁当。毎日同じものだ。


「田中さん」現場監督が近づいてきた。「この施設、完成したら見学に来るかい?」


「なんで俺が」


「いや、自分が作った建物がどう使われるか、見てみたくないか?」


田中は鼻で笑った。「どうせ俺には縁のない場所だ」


「そうかな」監督は意味深に微笑んだ。「案外、将来お世話になるかもしれないぞ」


その言葉が妙に心に引っかかった。45歳独身。貯金はほとんどない。年金も期待できない。20年後、30年後の自分はどうなっているのか。


午後の作業に戻りながら、田中は建物を見上げた。ガラス張りの明るい外観。駅前の一等地。毎日何百人もの人が前を通るだろう。


「立派な建物だな」田中は呟いた。「でも、俺たちみたいな人間が入る場所じゃない」


そう言いながらも、なぜか目が離せなかった。まるで自分の未来を見ているような、不思議な感覚があった。



◆ 9月15日 土曜日 午後3時


◇ 東京・渋谷 マタニティイベント


「マタニティフェスタ2028」が開催されていた。妊婦向けの商品やサービスが一堂に会する、日本最大級のイベント。


会場は、妊婦と新生児連れで埋め尽くされていた。去年の3倍の来場者数。


「すごい熱気ね」妊娠6ヶ月の女性が友人に話しかけた。


「妊婦がステータスになっている感じ」友人が答えた。「SNSでも、マタニティフォトばかり」


「YouTube見た?」別の女性が話に加わった。「『月収20万円で3人クリアチャレンジ』って動画、すごい再生数よ。節約レシピとか、100均の育児グッズ紹介とか」


「あー、見た見た。『お金がなくてもクリアできる』ってやつでしょ?」


「そう!『母親給付金の月10万円を活用すれば、世帯月収30万円。3人産めば3年間で360万円の無税収入』って計算してた。コメント欄は荒れてたけど、『現実的だ』って支持者も多いのよね」


ステージでは、タレントが体験談を語っていた。


「私も総理談話を聞いて、決意しました!今、妊娠8ヶ月です!2人目なので、あと1人でクリアです!」


会場から大きな拍手。「クリアまであと1人!」という声援が飛ぶ。


しかし、一部には複雑な表情を見せる人もいた。不妊に悩む人、経済的に子供を持てない人。彼らにとって、この「クリア」という言葉は重圧でもあった。まるで人生のノルマを果たせていないかのような感覚。



◆ 10月10日 水曜日 午後6時


◇ 内閣府 特別会議室


「10ヶ月の成果です」片瀬が報告を始めた。


1月から9月までの出生数は、92万人。このペースなら、年間120万人も視野に入る。


「これは談話の効果ですね」石森が確認した。「パイロット事業はまだ建設中で、効果は出ていません」


片瀬が重要な変更を告げた。「福井県の施設、来年4月オープン予定です。ただし、最初は普通の『高齢者支援施設』として」


「認知フレームの変更は?」伊勢野が尋ねた。


「段階的に行います」片瀬が計画を説明した。「第1期は4-6月、第2期は7-9月、そして第3期の10-12月に決定的なフレーミングを導入」


石森が懸念を示した。「効果が出るまで、さらに1年はかかる」


「でも」伊勢野は前向きだった。「談話効果で時間を稼げている。焦らず、確実に進めよう」



◆ 11月1日 木曜日 午前10時


◇ 東京・新宿 産婦人科病院


分娩室から、絶え間なく産声が響いていた。11月に入り、出産ラッシュはピークを迎えていた。


「今日だけで30人」助産師長が疲れ切った声で言った。「もう限界です」


院長の鈴木は、スタッフの疲労を心配していた。


「来月からベトナム人助産師が10人来ます。なんとか持ちこたえてください」


廊下では、陣痛に耐える妊婦たちが並んでいた。その中に、38歳の佐藤亜希子もいた。不妊治療の末、ついに授かった命。


「頑張って!もう少しよ!」夫が手を握る。


午後2時15分、元気な男の子が生まれた。亜希子は涙を流した。


「やっと...やっと会えた」


同じ頃、外来では新規の妊娠相談が殺到していた。第四波とも言える、新たな妊娠ラッシュの始まりだった。



◆ 11月23日 金曜日 勤労感謝の日


◇ 聖路加国際病院


加藤は、1年間の記録を見返していた。自分が取り上げた赤ん坊は、342人。去年の3倍だった。


「先生」


振り返ると、田中麻衣が立っていた。9ヶ月になった息子が、つかまり立ちをしていた。


「もうすぐ歩きそうですね」


「はい」麻衣は息子を見つめた。「この子と同い年の子が、本当に100万人以上もいるんですか?」


加藤は最新のデータを見せた。「11月末時点で、すでに105万人。最終的には118万人を超えるでしょう」


「そして来年は?」


「妊娠届の数から推計すると、135万人の可能性があります」


麻衣は驚いた。「そんなに...」


加藤は窓の外を見た。「日本が、根本から変わろうとしています。良い方向かどうかは、まだ分かりませんが」



◆ 12月15日 土曜日 午後3時


◇ 福井県 坂井市 建設現場


パイロット施設の建設は、最終段階に入っていた。外観はほぼ完成し、内装工事が進んでいる。


片瀬、伊勢野、石森の三人が、進捗確認に来ていた。


「3月完成、4月オープンで間違いないですね」伊勢野が現場監督に確認した。


「はい、予定通りです」


片瀬は建物を見上げた。駅前の一等地、ガラス張りの明るい外観。誰もが毎日目にする場所。


「第1期は、ただの高齢者支援施設」片瀬が呟いた。「でも、第3期には...」


石森が続けた。「『親族に頼れない高齢者のための施設』という看板が掲げられる」


三人は顔を見合わせた。この建物が、日本の未来を変える装置になる。その事実を、まだ誰も知らない。


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