第10章 115万人の衝撃(4)3月15日 金曜日 午後2時
◆ 3月15日 金曜日 午後2時
◇ 内閣府 特別会議室
「第1四半期の成果です」片瀬がデータを示した。
全国の出生数は28万人。前年同期比で45%増。妊娠届は35万件で、前年比70%増だった。
「出産ラッシュと妊娠ラッシュが同時進行しています」石森が付け加えた。「医療体制の強化が急務です」
伊勢野は真剣な表情で聞いていた。「パイロット事業の準備はどうですか」
「福井県と島根県で用地選定中です」石森が報告した。「ただ、施設建設には時間がかかります。実際の運用開始は来年4月になるでしょう」
片瀬が補足した。「つまり、エンカウント政策の効果が出るのは2030年以降。今の出生増は純粋に談話の効果です」
「分かっている」伊勢野は頷いた。「だからこそ、準備を急ぐ必要がある。談話効果が薄れる前に、次の一手を打たなければ」
三人は、沈黙した。彼らは知っていた。自分たちが、日本の運命を握っていることを。そして、その重責に押しつぶされそうになっていることも。
◆ 3月28日 水曜日 午前10時
◇ 東京大学社会科学研究所 会議室
2月から活動を開始していたエンカウント政策チームの定例会議。片瀬の研究室に、伊勢野と石森が集まっていた。
「2ヶ月でここまで来た」伊勢野がファイルを開いた。「福井と島根、両知事の承認も取れた」
片瀬は眼鏡を押し上げた。「予想以上に順調ですね。石森さんの根回しが効いています」
石森は苦笑した。「厚労省内にも理解者はいる。表向きは『高齢者活躍推進事業』で通している」
三人の連携は、この2ヶ月で完璧に噛み合うようになっていた。伊勢野の戦略立案、片瀬の理論構築、石森の実務調整。それぞれの強みが、プロジェクトを前進させていた。
「4月の施設建設着工に向けて」伊勢野が確認した。「設計図面の最終確認をしておきたい」
片瀬がタブレットを操作した。「駅前立地、ガラス張りの外観、これで若者の目に必ず入る」
「内装も重要だ」石森が図面を指差した。「明るく、清潔で、でも...」
「でも『頼る人がいない』という現実も、隠さずに見せる」片瀬が続けた。
三人は、図面に向かって議論を続けた。2月の初会合から積み重ねてきた検討が、いよいよ形になろうとしていた。
「ところで片瀬先生」石森が話題を変えた。「4月1日の社人研移籍、準備は順調ですか?」
「ええ、引き継ぎも終わりました」片瀬は頷いた。「社人研に移れば、より公式にこのプロジェクトに関われます」
伊勢野が付け加えた。「内閣府としても、社人研の正式な研究として位置づけたい。それが政策の正当性を高める」
◆ 同日 午後2時
◇ 聖路加国際病院 小児科外来
田中麻衣が、生後2ヶ月の息子を抱いて診察室に入った。2月上旬に生まれた総理婚第1号の子供は、順調に成長していた。
「2ヶ月検診ですね」小児科医の山田が微笑んだ。「体重は5.8キロ、身長は58センチ。標準的な成長です」
雄太が安堵の表情を見せた。「この子と同じ時期に生まれた子が、本当にたくさんいるんですね」
「ええ、2月は記録的な出産ラッシュでした」山田医師は続けた。「この病院だけで、2月に280人の赤ちゃんが生まれました。例年の3倍です」
麻衣が息子の顔を見つめた。「この子と同じ年の子が、115万人もいるんですよね」
「いえ、もっと増えるでしょう」山田は最新のデータを見せた。「妊娠届の数を見る限り、来年は130万人を超えるかもしれません」
診察を終えて廊下に出ると、待合室は2ヶ月検診の親子で溢れていた。皆、2月生まれの「総理ベビー第1世代」だった。
「先生、次の検診の方が5組待ちです」看護師が伝えた。「午後だけで20組の予約が入っています」
山田は深呼吸をした。出産ラッシュの後は、検診ラッシュ。この波は当分続きそうだった。
◆ 4月1日 日曜日 午後6時
◇ 首相官邸 総理執務室
石原総理は、窓から桜を眺めていた。去年の今日、あの談話を発表した。
「1年で、これほど変わるとは」
秘書官が報告書を持ってきた。「第1四半期の出生数、28万人。年間115万人ペースです。さらに、妊娠届は35万件で過去最高です」
石原は振り返った。「出産と妊娠が同時に増えているのか」
「はい。医療現場は限界に近づいています。産婦人科医の緊急増員、助産師の権限拡大などの対策を進めています」
石原は椅子に座った。机の上には、エンカウント政策の極秘報告書があった。片瀬、伊勢野、石森。三人の若者が、密かに日本を変えようとしている。
「彼らのパイロット事業は?」
「準備段階です。実際の効果は2030年以降になるでしょう」
「談話効果が続いている間に、次の布石を打つ」石原は呟いた。「時間との闘いだな」
秘書官は黙って頷いた。
「いずれ、副作用が出る」石原は立ち上がった。「その時、私はもう総理ではないかもしれない」
窓の外では、桜が散り始めていた。新しい命の誕生と、新たな命の芽生え。日本は確実に変わりつつあった。
◆ 5月10日 木曜日 午前10時
◇ 福井県 坂井市 建設予定地
片瀬、伊勢野、石森の三人は、パイロット事業の建設予定地を視察していた。駅から徒歩5分、商業施設に隣接した好立地。
「ここに高齢者支援施設を建設します」石森が説明した。「9月着工、来年3月完成予定です」
片瀬がタブレットでシミュレーションを見せた。「若者の動線分析では、1日平均800人がこの前を通ります」
「まずは普通の施設として」伊勢野が確認した。「認知フレームの変更は、運営が軌道に乗ってから」
三人の議論を、遠くから見つめる人影があった。地元の建設会社社長・中村だった。
「大規模な施設だな」中村は図面を眺めた。「うちでも入札に参加したいところだ」
◆ 5月15日 火曜日 午後2時
◇ 東京・世田谷 不妊治療クリニック
待合室は、30代後半から40代前半の女性たちで満員だった。皆、同じような不安と期待の表情を浮かべている。
「次の方、診察室へどうぞ」
38歳の会社員・佐藤亜希子が立ち上がった。結婚5年目、不妊治療を始めて2年。
「卵子の状態は良好です」医師が説明した。「今回は期待できそうですよ」
亜希子は涙ぐんだ。「先生、私の周りでは、みんな妊娠しているんです。私だけ取り残されて...」
医師は優しく言った。「焦らないでください。でも、確かに妊娠の連鎖反応は起きています。集団心理かもしれませんが、妊娠しやすい環境というのはあるんです」
隣の診察室からは、歓喜の声が聞こえてきた。「陽性です!妊娠されています!」
亜希子は決意を新たにした。この波に、必ず乗る。
◆ 6月1日 金曜日 午後3時
◇ 東京 丸の内 大手企業本社
「産休・育休取得者が、昨年の3倍です」
人事部長の報告に、社長は頭を抱えた。
「代替要員の確保は?」
「限界です。派遣会社も人手不足で」
これは、全国の企業が直面している問題だった。総理ベビーブームは、労働市場にも大きな影響を与えていた。
「でも」人事部長は続けた。「社内結婚も増えています。社内カップルが今年だけで15組。皆、すぐに子供を作るつもりのようです」
社長は複雑な表情を見せた。「出産ラッシュの次は、社内ベビーラッシュか」
「ただ」人事部長は付け加えた。「働き方改革は自然に進んでいます。男性の育休取得率も50%を超えました」
◆ 6月20日 水曜日 午前11時
◇ 福井県庁 会議室
「高齢者活躍推進モデル事業」の第1回運営委員会が開かれていた。
「建設業者の選定が完了しました」県の担当者が報告した。「地元企業を中心に、9月着工で進めます」
伊勢野が質問した。「地域住民への説明会は?」
「7月に3回予定しています。『高齢者が生き生きと暮らせる施設』として説明します」
片瀬は内心で考えた。この段階では、まだ普通の福祉施設。認知フレームの威力を知る者は、この場には三人だけ。
会議後、地元紙の記者が石森に近づいた。
「この事業の本当の狙いは何ですか?」
石森は用意していた答えを述べた。「高齢者の孤立を防ぎ、地域全体で支える仕組みです」
記者はメモを取りながら顷いた。




